鮎呑むと鵜の背に燃ゆる線の見ゆ 加藤楸邨

所収:『加藤楸邨句集』(岩波書店 2012)

一本の線が強靱な力をもつ。単純だからこそ動かしがたく、手元のささいな揺らぎで主題も、そこに秘められた音楽も、なにもかもが変質してしまう。クレーやピカソの線描を見ていると、不安に似た、しかし安らぐような感想を抱く。美術に疎いため、さっぱり分からないものもあるが何となくそう思う。

今日イサムノグチ展に小一時間身を置き、分からないながら作品の間を行ったり来たりしているうちに、似たような感想を持った。そしてそれは、楸邨の『吹越』を読んだ時に感じたものと深く通じているように思えた。

楸邨は鵜の背に燃える線を見ている。同句集には〈つやつやと鵜の背鮎の背さびしけれ〉の句があり、鵜の濡れた背は楸邨にとって寂しさを思い起こすものなのだろう。しかしこうした感慨は人間に近いところで生じる。掲句は人間の理屈を離れて自然の側に沿う楸邨の眼が思われ、楸邨は鵜の背という対象を一本で描き切るような線を取り出している。

イサムノグチ展にも様々な線があった。峻峭とした線、まどかな線、おなじ丸みを帯びていても、艶っぽいものもあれば賑やかな印象のものもあった。しかしどの線も雄弁に語りかけるのではなく、まなざしを投げかけ、そのまなざしがそれぞれに引力を持つ。

楸邨の線は線から広がり、鵜の寂しさ、または鵜にとどまらない自然の寂しさへ到達しようとする。言葉で説明してしまうと嘘になってしまうような、一箇の、一瞬間の線がさりげない手つきで描かれている。

見えるはずのない生命の姿を一筆書きに描き出す。そこには居丈高な物言いと異なる、自然に対して敬虔な態度があるに違いない。単純な線に至るまでの凝視はその態度を持ち続けるところから生まれて来るのだろう。

記 平野

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