片仮名の多い詩集を読んだあと手のひらでグー・パー・グーやった 川村有史

所収:『ブンバップ』書肆侃侃房、2024

記:丸田

「あるある」には段階がある。この歌は良いあるあるを、良い言い方で言っているちょうどいい歌だと思う。
 この歌を評価するために、迂回にはなるが、「あるある」について考えてみたい。

 *

  今から即興で五つの例を挙げる。

 ①トマトのあるある:赤い
 これは特徴レベルで、ほぼあるあるではない。

 ②遠足のあるある:楽しみで前日眠れない
 これはふつうのあるある。

 ③真夜中の学校のあるある:怖い
 これは特殊なあるある。

 ④冷蔵庫のあるある:たまに宇宙みたいな音がしてうるさい
 これも特殊なあるある。

 ⑤短歌のあるある:夏しか詠まれない
 これは行き過ぎている・もしくは「ないない」。

 *

 あるあるとは、「あるある」と比較的多数が共感できる内容のことを指すため、「ない」に到達してしまうと、それはあるあるではなくなる。だから、まず、「あるーない」の軸が存在する。⑤で言うと、短歌は「夏がよく詠まれる」という言い方であればあるあるの範囲内で、「しか~ない」と断定してしまうと、そんなこともないと思われてしまって、「ない」に近づいていく。
 この「あるーない」の軸は、両端・真ん中に寄らないちょうどいい位置である必要があり、①のトマト→赤いは、極端に「ある」に寄りすぎているがために、「あるある」ではなく、特徴の説明になってしまう。全員が即答できるような事実、は、良いあるあるにはならない。

 ②遠足→前日寝れない は、比較すると一般的なあるあるだと思う。多くの人が共感できるような内容で、かつ、「みんながそうらしいということが既に流行っている」タイプのあるあるである。似たようなもので言えば、「テスト勉強をしていないと言う人ほど実はしている」みたいな。ノーマルにあるあるであり、もはや知名度の高いあるあるになっている。自分が共感できるかどうかではなく、それが既にあるあるであろうからあるあるだと納得できるという仕組み。
 一般的な会話の流れであるあるが必要になる場合は、このような知名度の高いあるあるを使用することがほとんどだと思う。皆が共感して、そこから会話を進められたらいいからである(お笑いで言うと土佐兄弟が行っているような学校あるある)。
 ただし、この知名度の高いあるあるは、共感の度合いや想起させるスピードは高いが、面白さという点には欠けている。鮮度が低い。もしより面白いあるあるを狙いに行くには、知名度の高くない、新しいあるあるを求めに行く必要がある。

 ③真夜中の学校→怖い は特殊と書いたが、何が特殊かというと、「お題が変形している」ことにある。簡単なお題に対して、ちょうどいいあるあるを言うのが「あるある」あるあるであって、お題自体が変であれば、アプローチが変わってくる。もっと極端に、「火星の病院あるある」とかを想定してもいい。
 お題自体が「ない」側に近づいているとき、あるあるのアプローチは大きく分けて二つある。一つは、完全正答を狙いに行くこと。今までの例に倣って、ちょうどいいあるあるを、変なお題に対しても見つけに行く。もう一つは、完全に「ある」に振りきること。完全に「ある」が+100、完全に「ない」が-100として、理想が80くらいだとすると、完全正答で一発で80を出すか、お題の-20に+100をぶつけて結果80くらいに見えるようにするかの二択になると考える。③でいうと、「真夜中の学校」はそもそも行ったことがない人の方が多いはずで、何を当てても共感には至りにくい。そのため、真夜中の学校の印象の+100「怖い」をぶつけて、あるあるまで持っていっている、ということである。
 ここで付け加えておきたいのが、(私の個人的な感覚として、)100「ある」で中和させるタイプは、完全正答には少し負ける。テクニックとして80に見せるのと、初めから80なのには、ほんの少しだけ差がある。

 続いて、③はお題自体の変形があったが、④は回答自体の変形、という特殊なタイプになる。冷蔵庫→ブーンと音がなってうるさい くらいが、知名度の高いあるあるの範囲内であり、「宇宙みたいな音」まで行くと、かなり内容が盛られている。よくよく考えれば、宇宙の音を聞いたこともないわけで、若干「ないない」に振れているが、⑤とは違うのは、あるあるベースで表現だけが盛られている、という点である。「宇宙みたいな音」という比喩が、「ブーン」を差していることは容易に想像がつくから、あるあるを離れすぎない。
 このパターンで発生しているのは、あるあるの伝達に加えて、「あるある」感を増幅させる形で回答者の表現上の個性が見られる、ということであり、①~③には希薄だった回答者の影が濃く見えてくることになる。

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 上記の点を整理する。あるあるには、「あるーない」の軸があり、両端や真ん中に寄らない方が「あるある」感が高い。あるあるが使われていくことで、あるある自体の知名度の高低が発生する。そしてお題が変形しているときは、回答の形は完全正答か100「ある」でぶつけて中和する方法があり、完全正答が理想ではある。回答が変形しているときは、あるあるとは別に、回答者の表現の個性を伝えることできる。

 あくまで個人的な体感によるため、この時点で誤っていると思われる方もいると思うが、一旦これで進めることにする。

 今確認した事項の他に、もう一つ、重要なことがある。面白いあるあるを目指すとき、真逆の「ないない」も面白いと感じてくる場合が時折発生する。これはどうしてそうなるかというと、「あるある」あるあるが、「ないない」に向かっていくからである。
 というのは。あるあるを考えるという行為は、ちょうどよく「ある」を考えることであるが、それは「ありすぎてもいけない」「なさすぎてもいけない」という二つの思考を同時に行うことである。だから、あるあるを考えるほど、同時に「ないない」も考えることができていて、無意識のうちに「ないない」は溜まっていっている。
 という前提に加えて、「あるある」あるある(「あるある」を考える行為そのものの「あるある」)として、知名度の高いものは使いたくない というのが生まれてくる。知名度の高いものを流用していても仕方ないから、自分でまだ見ぬものを見つけてこなければならないという感覚が、「あるある」あるあるである。
 この二つが混ざっていくと、手元に一杯溜まっている「ないない」が、面白そうに見えてくるときがある。「あまりにもない」は、「すこしくらいはある」に見えてくる。(英語で「few / little」と言うと「少ししかない」で、「a few / a little」だと「少しはある」になるのと雰囲気は似ている。)ちょうどよくある、よりも、「全くない」とかの方が潔くて面白いと思うターンがある。

 ただしこれは、「面白い」を追求した先にあることであって、共感を前提としたコミュニケーションの上ではノイズになってしまう。のんびり遠足あるあるを話している時に、「遠足あるある 車で行く」とか言い出すと、会話が変な方向に行ってしまう(遠足あるあるを考え続けていると、「車で行く」くらいのないないが面白くなってきたりする)。
 そのため、あるあるのフィールドでないないで攻める場合は、聞き手を選ぶことを覚えておくのが重要である。聞き手が、一つのあるあるに対して知名度の高い回答を多数知っている場合であれば、ないないが面白さとして力を発揮することができる。上記⑤であれば、短歌読者がみんな、「短歌→夏の作品が多い」という回答を知っており、それに飽き飽きしてきていると、「短歌→夏しか詠まれない」が面白いとされるようになる。聞き手がどこまで知っていて、どれくらい面白いものを求めていて、どれくらい知名度の高い回答に飽き飽きしているか、それらを勘案して初めてちょうどいい「ないない」が成立する
(読者不在で、伝わるだろ面白いだろという顔で「ないない」を突然投げてくるような作家はたくさんいる。それを面白がるために反対のあるあるを調べようとする良い読者もいるが、大半はぽかんとして終わりである(なぜなら、一周回っていない、ただの「ないない」だから。そのあたりに注意が必要になる。)

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 とずいぶん遠回りをしたが、それらを前提に、川村有史の表題歌を見てみる。

 片仮名の多い詩集を読んだあと手のひらでグー・パー・グーやった

「読んだあと」を一旦つなぎの言葉として(音楽の楽譜でいうタイみたいなイメージ)、「片仮名の多い詩集→手のひらでグー・パー・グー」というあるあるが書かれていると考えると、非常に特殊で複雑な操作が入っていることが分かる。
 先述した③のように、ただの詩集ではなく「片仮名の多い詩集」とお題が若干変形して細かくなっている。一見して分かる通り、まずこの書き手は100の中和は目指していない様子。完全正答を目指している(メタにいえば、下の句の行為(回答)を引っ張り出すために、それに合わせた細かいお題を作者が設定した、とも言える)。
 そして、その回答もまた、変形している。カタカナが多くて閉塞感や窮屈さを感じていて、その真逆の行動を体でしたいということなので、たとえば「お布団で大の字で寝た」とか、「ラジオ体操第一をした」とか(こうなれば大喜利になってくるが)でも意図するところは表現できた。
「からだを動かしたくなった/からだが動くか確かめたくなった」が第一の回答、その変形が「手のひらを開いて確かめた」、さらにそれを変形して、「手のひらでグー・パー・グーやった」になる。少なくとも二回の変形を受けた下の句になっている。

 先述した通り、この回答の変形には回答者の個性が出る。手のひらを開いたり閉じたりを、グーとパーに例えていること。「グー・パー」と中黒を挿入していること。「グーやった」という言い方を選んだこと。少なくともその三つが、この下の句から見える回答者を想像するヒントになる。私としては、陽気な人を想像した。そしてリズム感の良い人だなと思った。ラップとか聞きそう、みたいな(この推測には歌集タイトル「ブンバップ」が影響している。しているというか、私が影響させている。ブンバップはHIPHOPの用語で、90年代くらいのサンプリングビートのこと)。

 そして、回答をお題とセットで引いてみたとき、「グー・パー・グー」もまた「片仮名」であるということに目が行く。窮屈さからの解放かと思いきや、ちゃっかりカナの影響を受けている様子。しかもよく見ると、「グー・パー」で終わっておらず、手の形は「グー」で終わっている。手は窮屈さに戻っていく形になっている。とすると、解放というよりは、一度パーを挟むこと、手の動きが正常に行えるかどうかの確認、の方が意味合いとしては大きいのかなと想像する。

 そして、あるあるという視点から離脱したとき、タイの「読んだあと」が微妙な時間の流れを作っていることが分かる。「読んでいて」とか「読みながら」も可能ではあるが、主体は読み終えるまではその状態で耐えたことが分かる。映画のエンドロールを全て見終わってから立ち上がるように、「読んだあと」初めて、手のひらを動かした。このあたりの些細でありながら素直な言い方で、主体の動きの流れや性格がうかがえるようで、面白い。

 最後に、お題にある「片仮名」が漢字であることを考える。カタカナが多い詩集を振り返って、「グー・パー・グー」なのに、「片仮名の多い詩集」となっているのはなぜなのか。この歌でここだけは、意見が分かれるところだと思う。これは、書き手(主体)というよりは作者の個性が出てしまっていて、「カタカナ」という文字列よりも「片仮名」という文字列の方がいいと判断したのではないか。私としては、「詩集」という単語の近くにあるから漢字三文字の方が居座りがいいことと、「グー・パー・グー」に読者の視線を集中させるために余計なカナを登場させないという意図から、「片仮名」でも納得する。見ていると意外と、漢字も漢字で「グー・パー・グー」したくなる感はあるなあと思う。
 総合的に、あるあるの完全正答でありがなら、ぱっと分からないくらいの変形と、気取らない雰囲気が良質で、創作の順序は頭で追えても、自分の手ではなかなか作ることができないと思う、強い歌だと感じた。

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 短歌が共感ベースで進んでいくものとして語られることは多いが、その仕組みを大きくあるあると捉えてみたとき、共感をより煽れるのは知名度の高いあるあるということになるが、詩として面白いものを目指そうとすると、知名度の低いあるあるを見つけるか、新しく創出する必要がある。それが行き過ぎて「あるある」ではなくなってしまった場合、それは共感できないことを表し、読み手はぐっと距離を取ってしまうことになる。どこまでがあるある足りえるか、どこまで共感可能な世界として想像してもらえるかを想像することが肝心である。

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 五つの例で考えたのは、だいたいお題が与えられている場合の回答のことであって、短歌だとそのお題の設定から自分で行えるため操作できることはかなり増える。

 冷蔵庫の音か夜明けの来る音か /星野高士『残響』

 これは俳句だが、あるあるの変形と見ることもできる。例④みたいに、冷蔵庫→夜明けの来る音みたい、という回答の変形を、二択の形に持って行っている。あるあるから発想を開始して、「あるある」という形式自体の変更を行えば、わりとあらゆるタイプの作品が作れるようになる。おすすめしたい。

 *

 川村さんの他の短歌も、あるある視点で捉えるとよくそんな回答を持ってこれたなと思うものが多々ある。〈この海でするチル飽きてきたような気もする 鳥をぜんぶ数える〉とか、〈和らげる作用の事を指しながら柔らかく言う議員の笑いじわ〉とか、〈大理石っぽいテクスチャーのタイル 消しカスみたいなグラインド跡〉とか。大理石っぽい~の歌に関しては、お題が隠されていて、回答だけがあり、お題を後から想像する型と考えれば読解がしやすい。
 もちろんあるあるだけでは分析できない、〈次に会う時には次の良さだけどこの楽しさも固定できたら〉の「固定」みたいな選択も素晴らしいと感じた。

 良い歌の多い歌集だったと思います。読んだ後、手のひらで「グー」しました。

 

フリーペーパー「紙の帚」

 2022年8月10日に、紀伊國屋書店国分寺店で開催していた「短詩型フェア なつ空にじいろ自由研究」のコーナーにおいて、暁光堂さまの選書スペースにて「帚」のフリーペーパーを設置していただきました。

 その際のフリーペーパーの内容を公開いたします。ぜひご笑覧ください。
(サイズが大きいため拡大してご覧ください。)

pdfファイルはこちらから

 天體による永遠  柳元佑太

天體や精密しくうごく蟻の觸覺つの
寂しうて氣海えーてる立泳ぐ吾ら
草いきれ天文臺は午睡り
夏至前夜柱時計の狂ひ打ち
大宇宙年かたつむり片目瞑り
晝顏や思惟の渚の水音みのと聽く
八月や灣にいこへる海自體
蓄積たくはへて腦は藏なり黴赤く
足元に地下鐵疾驅はしる李かな
方舟に天道蟲は乘り損ね
夏痩や月の惰性を見て過ごす
光線と共に天使の天降あもる金魚かな
天體やもぐらの穴が縱橫無盡たてよこ
衝突ぶつかり星鑄直さる蟬夕べ
薄羽蜻蛉月にもありて綿津海

 思い思い  丸田洋渡

ふらふらと夏の水晶体は虚
夢で行ける塔一望の植物史
ここまで来ると雲も聞こえる玉簾
足が喋って顔落ちてくる昼寝覚
餡蜜や彫刻刀は久しぶり
膨らんで祭の中に家が入る
ねむいルビーの夜に婚礼滝の背景
月の孵化観る冷房の車から
青い部屋で蟻の代表者と話す
振り向いて夢遊の鹿はそれ以降
曇ったら傘が恋しくジャムの瓶
曲想に光を据えて噴水も
覚醒の映写機は海を流した
推敲は海にかもめを呼んできて
秋海棠思い思いの席に着く

 一部屋  吉川創揮

絵葉書を密にばら撒き避暑の景
歯磨きの余りの腕にうすく汗
水羊羹時計かちこちそんな時
一部屋に思考一杯しろめだか
かみ・なり縦書きによくつんのめる
香水に透くる映画の券の褪
グラジオラス写真の奥の扉開く
夏、空そこに立体の秩序が
雨音の遠近感や瓶に茎
水道を辿るイメージひょいと虹
西日差す壁に見えるは何か顔
閉じてふと手酷く遠き冷蔵庫
ビール飲む一口ごとにじつと見て
シャワー浴ぶぐつと爪先立ち気分
まどろみに湿布の匂い夏の月

 暮  平野皓大

而して小蛸とともに壺に住む
筒に棲む魚に杏の落としもの
あをあをと溶けて金魚の肉鱗
白目高岩を小突くも泡のごと
蟹来ると揺らぐ草の根木の皮
大なまづ糸に俗界へといたる
  *
青蘆を薙ぎわたり来る風の中
暮らしつつ径を覚えて河鹿笛
青田風口乾くほど日をかさね
愚かものどもを祭は祀るかな
絵団扇や湖のをみなが瓜実の
秋隣鳥の貌してシーシャ吸ふ

(紹介)

〇暁光堂さんのHP https://gyokodo.com/

〇紀伊国屋書店国分寺店 https://store.kinokuniya.co.jp/store/kokubunji-store/

日月潭  柳元佑太

 日月潭  柳元佑太

松島や春は名のみの千々の濤

 (前書)平野皓大、遲刻癖あり

朋友(ともがら)を長待つしまや春の海

旅に讀む本薄(いささ)かや濤も春

朋友(ともがら)來春外套を脫ぎながら

春の旅ごゝろよ着けば卽汲まん

晝酒に晝酒かさぬ榮螺をあて

火に榮螺噴くや榮螺の身かゞやき

蒲鉾の微發光せよ春の晝

 (前書)吉川創揮、事情通なれば

韓國(からくに)のidolばなし百千鳥

糟丘(さうきう)に坐し春の海眺めんか

幻視(そらみ)よや春を翁が浮步(うけあゆ)み

橋かけて渡らんとしき椿島

 (前書)丸田洋渡、園丁なれば

春や汝もはや植物學者哉

これよりは牡蠣殼島と申すべき

島々を花粉經廻りゐたる哉

さう思ふべしや花粉も過客なりと

霞なる舟霞なる島嶼(しまこじま)

灣のもの皆霞むなり吾も又た

甲板に出て春風を縱(ほしいまま)

それも又た一興春の氣球詐欺

みらくる  丸田洋渡

 松島旅行に際して。

 みらくる  丸田洋渡

うどん屋のくもり硝子や大白鳥

絶筆の万年筆の音がする

松島は牡蠣味の風吹いている

絶景に大ウケうみねこも海も

今は何書いても海になるから書く

つぶ貝の音録れそうに春の宿

これでは私が海老大好きみたいになる日

露天風呂とは類想の気持ちよさ

眼に映れ トランプの春色の騎士 

    〇

みるからに夢の気球が飛んでいた 

    〇

生きるみらくる熱気球のりこむ春

 水の地球すこしはなれて春の月/正木ゆう子『静かな水』

熱気球すこし離れて春の地球

船に海ついてくるなり突き放す

春涛や友だちが詩を思いだす

お日柄も良く春風のサイゼリヤ

空調工事博物館の空調を浴びる。

手札には名句いくつも飛行機雲

春眠や城趾はいつまでも趾

していてもしたくなる旅さくら貝

これからの気球不足の空広々

【後日談】

 作中にある「城趾」は、多賀城市にある多賀城跡のことである。
「出題者が名句を一つ設定し、その他3人は質問をして、その名句が誰の何という句かを当てる」というゲームが多賀城駅付近から突然に始まったが、それがあまりに盛り上がった結果、多賀城跡に辿りついても、誰もまともに城のことを考えてはいなかった。城跡から城を想像するのと同じように、断片から立ち上がる名句を想像していた。
 出題者が一周して、(何かの跡の前に置かれているベンチに座りながら、)柳元くんが出題者となり、私たちが質問し得たヒント「季語は冬」「男性が作った」「定型ではない」「作者は昭和より前に亡くなっている」というところから、井泉水でも禅寺洞でもなく、橋本夢道でも横山林二でもなく……と考えて考えて考えた結果、雷のように閃いた〈咳をしても一人/尾崎放哉〉を答えて当たったときの快感と、そのときの強風に煽られて揺れていた青い竹の光景はおそらく死ぬまで忘れることは無い。

 それからしばらくのこと、この松島特集号を作るために原稿を調整していたら、付けっぱなしにしていたテレビから、耳馴染みの良い単語「タガジョウ」が聞こえてきた。
 2024年3月31日夕方の、そのときのテレビ画面に目をやると、見慣れた家族であるサザエさん一家が、家を飛び出して、旅行をしていた。日本三大史跡を回っていて、次は多賀城だ、仙台に行けば牛タンとずんだもちが食べられる♪ とカツオが言っている。
 どうやらサザエさんは放送55周年目前であり、旅行スペシャル回だったようで、一家はあっさり仙台に移動して、多賀城跡へ向かい、私が最近見たばかりの風景の場所に立っていた。波平やサザエが説明して、乗り気じゃなかったカツオとワカメも、城跡を目の前にして「見える!見えるわ!」とか言い始めて、CGのように空想の昔の多賀城がカラフルに立ち上がっていた。

 その様子を私はちゃっかり撮影して、早速、帚のメンバーに共有したところ、「われわれよりはしっかり見てる」という返信が来る。「間違いない」と私は返した。私の中での多賀城は、かなしくも、名句の中に埋もれている。

気球乗りたち  平野皓大

それは早朝というより、未明と呼ぶべきだろう。坂の上からのぞめるはずの松島湾も暗色に包まれ、近くのデイサービスセンターも閑散としていた。われわれのほかに起きている人の気配もなく、冷たい風が吹いている……。日が出ていても寒さののこる時期だというのにわれわれ四人、こんなに早起きをして宿を出たのは熱気球のためである。

熱気球に乗って、地上を離れ、海にうかぶ島々を一望する。旅程というほどの決まりきったものを持たないわれわれにとって、熱気球は唯一の旅程だった。気球でバカ早朝に起きて朝日を見るのでそのつもりでよろしく。旅行の一週間前にや氏から送られたラインは日々の生活に疲れたわれわれに活力を与えた。や氏にしてもふだんの口調とちがう強引さがあり、松島旅行をより充実したものにする妙案に自ら昂ぶっているようでもあった。

滾る、とよ氏がいち早く反応し、気球が頭から離れないとま氏がツイートした。

僕にとっても、気球はあこがれだった。祖父からカッパドキアに行こうと誘われたのは五六年前のことだ。今生の思い出に孫と旅をする。祖父の目的はハッキリとしていたが、僕としては長時間のフライトによる祖父の疲労と、こちら側の疲労を考えるとあまり乗り気になれなかった。

しかし勝手なもので、コロナウイルスが流行し本格的にカッパドキア行きが白紙になると惜しくなり、多少の申し訳なさとともにカッパドキアの黄褐色の大地と、そこに浮かぶ熱気球のことを考えるようになった。

熱気球の旅は大地にその小さな影を落とすところからはじまるだろう。家々の窓から差し伸べられた手は旗のようにひらめき、気球乗りたちは地上からでも視認できるように頭のうえで大きく手をふるにちがいない。岩を刳りぬいてつくったという家も、そこに住む人々もみるみるうちに小さくなり、地上の雑音は消え、カンカンと大地に照りつけていた太陽が、気球乗りの目の前で輝く。

そんな情景を僕は思い浮かべ、松島の熱気球を楽しみにしていた。
本当はまだ眠っていたい時間から外に出て、街灯しか頼るところもなく、風を避けるところもない道を歩いて来られたのも、気球というイメージの力に励まされたからだ。

だけど、実物の気球は薄っぺらなもので、コンクリート舗装の地面に広げられている球皮を前にして、こんなものに命を預けて良いものか不安になった。みずから提案したにもかかわらず高いところが怖いと言うや氏も、中空で泣くはじめての体験と軽くおどけていたよ氏も、寒さだけではない震えが口々に漏れはじめていた。

熱気球は、大型送風機で球皮をふくらませ、バーナーの炎の力で球皮の中の大気をあたためて浮いたり沈んだりする。

風任せに飛んでいるように見えて、風向きは高度によってちがっているんです。左右に動かしたいときは風の層を読んで、球皮の中の温度を調節しています。慣れれば、数センチ単位で自在にあやつることもできます。

ヤンヤンと名乗ったお兄さんの説明は、すこし理屈ぽかった。もっとロマンあふれる気球譚を話してくれれば心も温まっただろう。

約五十メートル四方の小さな広場がわれわれ気球乗りたちの舞台だった。予想と反した狭さではあったが、平生目にしない機材のならびに大がかりな実験がはじまるようでワクワクはした。デッカい昆虫や恐竜をかっこいいと思うのと同じ熱量で、送風機やバーナーの大きさ、そして風を溜めて起き上がりかけた気球にワクワクするのだ。

ヤンヤンの説明はクイズを交えながら、軽快に進んでいった。さて問題です、世界一大きい気球には何人まで乗れるでしょう・・・・・・8、はい、そこのお兄さん、10、15、5、なんだかオークションみたいになってきましたねぇ。

子ども向けのシナリオなのだろうから子ども相手に徹しても良いだろうに、ヤンヤンはシャイなのか、それとも単に子どもが苦手なのか、こけた頬にシワを寄せ、矢鱈とわれわれのほうを見た。テーマパークのキャストのような体に染みついた客向けの仕草はなく、端々に人間らしさを感じる好ましい振る舞いだった。

今日の風はどうやら微妙に強いらしい。気球はふくらんでも風に圧せられ、球皮に溜まったはずの空気がにげてしまう。ヤンヤンの背後を振りかえる回数も増えていった。子どもたちはわれわれと同じく気球を夢見て朝早く起き、この場にいるはずだった。気球に乗りたいという願いも自然の前では無力で、とうとう中断、様子見となり、親に連れられて車の中へ戻っていった。

かわいそうに。

と言ったのは、ま氏とよ氏のどちらだっただろう。

かわいそうに、このまま中止になったら耐えられないよな。自分が小学生だったらきっと泣いてる。

とどちらかが言うと、

本当に。きっとクラスメイトに、週末、熱気球に乗ることを自慢してきただろうに。

とどちらかが応えた。

正直に言うと、このあたりのことはあまりの寒さに耐えるばかりで記憶から抜け落ちている。それでも、鼻水を垂らしながら自分たちのことではなく子どもたちのことを心配する姿勢は、われわれの人柄の良さをしめすエピソードとして、書かざるをえない。

ありがたいことに、スタッフの方がピンクのうさぎやダルメシアンの描かれた可愛らしい毛布を貸してくれて、それを脚なり首なりに巻くことで少しは寒さが和らいだ。早く早くと僕は体を揺すり、ベンチの上で直向きに待った。

送風機の停止と、諦めることのない再開。何度もくり返されるその光景は、中止という結末におわる可能性が高そうに見えただけに愛おしかった。

中止じゃないだろうかと僕は言った。そう望む気持ちもどこかにあった。気球という天気商売の、風や雨に振り回されてしまうどうしようもなさが気球というものの本質のようにも思え、それが見られただけで十分じゃないか、と言いたかった。

中止だろう、と僕はもう一度言った。スタッフの方々もどうしようもないことが分かっていて、それでも素っ気なく中止を宣言するとバツが悪いから頑張っているのではないだろうかと、寒さで殺伐とした心の中で考えた。

限界だった。足の指先が痛み始めていた。気球から見るはずの朝日によって、東側の空は明るく染まっていた。帰ろうと思った。

写真撮りまーす、と呼びかける声が聞こえたのは、ちょうどそのときだった。

松島に来てからというもの、頭のあがらないことばかりである。遅刻はするし、誰よりもはやくくたびれてしまうし。風に流されるままふらふらと浮いている熱気球はまるで、気の良い帚の面々みたいだなどと、旅の準備をしながら思いをはせていたものだが、それは僕がとりわけのんきだから、彼らのこともひとくくりにのんびり生きていると考えてしまうのだろう。

彼らはこまやかに気を回し、僕などにはとうていうかがい知ることのできない苦労をかさね、みずからの内と外の間を生きている。こんな言い方をすると、彼らのことをキチンとした人であると主張しているようで、僕としては不服だし、もちろんそんなエラい人々ではないのは確かである。

月が出ている、良い匂いがする、など、ふとしたことに気がつき、時には、足もとがぶよぶよすると、その場で跳ねて土ぼこりを上げるよ氏にしても、足場の悪いテトラポットをひょいひょいと渡り、冷めているようでいながら興味のおもむくまま進んでいくま氏にしても、広島の牡蠣はホタテの外殻を使って養殖をしているという話に、それはホタテも怒るでしょとよく分からないことを言うや氏にしても。

彼らにはむじゃきさと、好奇心があって、そのあたたかな空気に支えられながら僕は今回の松島旅行を乗り切れた気がする。

きっと僕のことなので、次も遅刻をするだろうがそれでも良ければ、次回はみんなでカッパドキアに行ってはくれないかと思う、それくらい、気球は楽しかった。

どーですかぁ、とヤンヤンは言った。

その呼びかけに応えたものは誰もいない。知らないうちに脚幅が開いて、膝がまがり、恐怖に堪える姿勢をとっていた。今にも抜けてしまいそうな腰にムチを打ち、立っているのがやっとだった。

地上からはスッカリ離れているのにスニーカーの中で指を曲げ、地面にしがみつこうとしているのだから思えば滑稽だ。

風のせいで気球はやはり揺れ、それでも高度はまだなかばといったあたりでゴンドラから垂れ下がっているロープもたわんでいた。それじゃあ、どんどん昇っていきましょー。操縦士ヤンヤンのかけ声とともに、バーナーから巨大な炎が噴出される轟音が耳もとで響いた。

しばらくしてバーナーの音が消えた。まわりの景色が明るく見えると、どーですかぁと、またもヤンヤンがいきいきと言う。どうもこうもない、ひろがる海とそこに浮かぶ島々、見たかった風景が広がっている。

気球で昇ってみて、地上で見えていた島のさらにうしろに島が連なり、そのずっと向こうにも島があり、白くぼやけるほど奥までつづいていることを知った。風を受け、ぼーっとしていると、ウミネコが二三羽、羽の裏側を見せつけるように海と空のあいだの広いところを、輪を描いて飛んだ。

時間にして、十分にも満たないくらいだろう。球皮の中の空気が冷えるにまかせ、ゆらゆらと地上に戻ってくるまで、われわれは気球から見わたす松島を堪能した。

怖かった。

ああ、怖かった。

無事に帰ってこられた解放感からハイテンションになり、示しあわせたように怖かったと言い合う中で、仕事の関係で高いところに登ることも慣れているま氏もまた、怖かったと言う。

スマホ落とされたらどうしようかとおもった。そんな補償はないだろうに・・・・・・

どうも操縦士ヤンヤンは、怖がっているわれわれが面白いらしく、こちらが慌てるような無茶を平気でやってのけた。ま氏のスマホを奪い取ると半身をゴンドラからのけぞり、写真を撮ったのもその一つだ。

宿に帰ると、ま氏が写真を共有した。

気球乗りとなったわれわれは青みがかって広く見える空の手前で疲れ切った笑顔を浮かべていた。

影踏み 吉川創揮

影踏み  吉川創揮

  

  夜行バス一杯のゆめ窓余寒

  風が春はじめる竹帚の並び

  壺焼や松ごしの海平らかに

  春の潮秩序正しく崖の層

  縄があるゆるく春泥に捩じれて

  三月の旅道連れの影を踏み

  口ぶりの長き受付フリージア

  春の海てふ航跡の混ざり様

  糸桜むかしばなしの夜の暗さ

  幽景に半月貼つてゐる宴

  靴は白春のこの夜を抜け出すに

  いぬふぐりすぼむ気球を寝かせ置く

  一息を長く気球操縦士の遣ふ

  気球灯す春のどこかの曙に

  うみねこのひらめきあえば春日傘

  時折の桜車窓を長回し

  なぞなぞに感嘆の声春の山

  春シャツや波の端なる泡その後

  春の暮れなずみに地下のサイゼリヤ

  帰路朧画中人にも手を振りて

松島号〈特集・旅吟〉

2024年3月16日・17日、帚のメンバー4人で松島に一泊二日の旅行に行きました。
各人による旅行記・旅吟を掲載しています。
それぞれの内容から、旅行の様子や、松島の風景を想像しながら、ご笑覧ください。

(以下、各タイトルをクリックすれば作品へ飛びます)

・平野皓大 エッセイ「気球乗りたち

・丸田洋渡 俳句20句「みらくる

・柳元佑太 俳句20句「日月潭

・吉川創揮 俳句20句「影踏み

 

宿の窓から見渡せた松島

プリズム 丸田洋渡

 プリズム 丸田洋渡

さらさらと秋は絶版海の石

濡れる石英の構造の荷解き

 ◇

月もまた飽きれば毒に観覧車

雷の遠いむかしの木のおもちゃ

弟はうとうととびたとうとしている

階段は屋上止まり金水引

来たる日の明くる日の洞みたいな戸

秋分の午後のぷりずむぷりずまず

脚色はきみを神へと七竃

 ◇

火星にも霊いたりして掘炬燵

長月のつなげてレゴブロックの家

封筒の入る封筒秋暑し

カンパニュラ通りすがりの時計店

のうぜんかずら猫は集会の時間

かろやかに浮く風神の風贔屓

鯛飯や城なくしては籠城も

鯛の目の上を醤油が濡れている

部屋よりも足跡多く塩鰹

地縛とは霊とは紅葉狩のこと

袖みえて舞だとわかるデルフィニウム

 ◇

ホルンに手突っ込んで吹く未草

船内にピアノが無くてピアニスト

夢よりも喇叭細かく描けるはず

ふくろうの毛布のごとき掛布団

蝙蝠のうわさうのみのうわのそら

犬つれて行くべき祭たとえ雪でも

 ◇

考えたオーロラのこと旅のこと

雪の日の白米に沢庵なんて

雪の鹿 悪はあるべくしてあるか

憂いとは螺旋するもの雪の花

雪が糧 熊のねむりが底つくまで

これ以上温泉に雪よ降りやめ

夢溶けて銅に鋼に春の犬

 ◇

さすらいの卵八ヶが丘の春

桜には夢と機関車予め

骨董に菫のかおり灰神楽

花みずき醤油皿にもお気にいり

口からも言葉でてきて蓮華躑躅

蝶にのみ聞こえるのなら喜んで

 ◇

草原に気球の影が消えていく

リーフ・スタディⅠ 柳元佑太

リーフ・スタディⅠ  柳元佑太

百餘回廻はる落葉や地に着く迄

無音世界落葉の上に落葉降り

ひるひなか落葉溜の匂ひ立つ

生乾きなる落葉あり落葉のなか

大落葉乾らび卷きなり草まき込み

落葉屑ふやけ浮かむや池の淵

鯉の頭にひつ付いてゐる落葉屑

白鳥の羽と落葉の混じり合ふ

永遠は徑の落葉の踏まれ待ち

焚き終はり落葉の印象が残る

鯉魚尺素 柳元佑太

鯉魚尺素  柳元佑太

卓に桃時間が萬物(もの)に死を與へ

ナクバ今も続く 

ガザ空爆檸檬は無限角形たり

鯉魚尺素は手紙のこと。ガザ完全封鎖なれば

月は太虚(そら)()け鯉の群れ引連れて

吾が四肢も紅葉づる氣配充足(みちた)らふ

おそ秋を繪とし思ほゆわれらも繪

落鮎や郵便局に紙幣(さつ)おろす

花野のうへ飛びて水汲む(びやう)ありき

湖を見に旅ともつかず秋晝寢

驛前にタクシー溜る鯛の秋

彗星の研究に秋闌けにけり