本の山くづれて遠き海に鮫 小澤實

所収:『砧』 牧羊社・昭和61年

本の山のうえに本が積みに積まれた一室、そこには鬱々とした密度が立ち込めていて、本棚の高さは部屋の中心に向かって内容物に重力が籠ったもの特有の、押し迫った感じを投げかけている。表紙と背表紙の幾摩擦によって形作られた紙の束の塔の静止は、実のところ位置エネルギイの歓喜の解放を待ち望んでいる。

古書新書入り混じった和洋東西の小説に学術書、全集の端本に艶本、友人知人から拝借した本もある――どれもがおのおの崩れ落ち、重力に従い六畳一間の床めがけて(実のところその床にも本が散乱しているのだが)力をたたきつける機会を虎視眈眈と狙い、伺っている。書斎、図書館、古書店の暗がりに沈潜する緊張こそは、以上のようなものによってもたらされるものなのだが、掲句はそのエネルギイの解放、ほとばしりが、激流をなしておちかたの世界へと流れ込んでゆき、遠方は外海の深き溝、海溝、そこを回遊する鮫と接続してしまったさまを書き留めている。

山体崩壊を起こした本のエネルギイは見えざる川を為して(それは遅遅と進む大河ではいけない。それは川底けずり渓なすような急流でなければならない、山から海へ向かうものを川と呼ばずになんと言おう)、眼にも止まらぬ速さを保持する。その速さは、いやむしろその川は無論六畳一間の床ですぐに力尽きるのであるから、その速度だけが、その言葉の水流が保持していた速さのみが、遠きわたつみに住みなす鮫に届き、交感し得るのである。その速さのことをぼくらは便宜的に二物衝撃とよぶけれど、ようするに異なる二世界を結ぶ扉の出現を切れに託すという一瞬の賭けを、舌端に句をのせるたびに感覚できる読者は幸せである。鮫のするどく青白い鼻先に突き付けられたのは虚しい速度だけ、その潔さをこそ賞味すべきだろう。それで十分なのだから。ぼくらは寒くて冷たい海にゆける。

無論書斎から、突如外海に引き出された読者は戸惑うだろう。しかしそこに鮫が、冷たい海流に身をもまれ、筋肉を鍛えた、躰の引き締まった鮫が泳いでいることによって、ぼくらは存在に対して畏敬を払う手続きをはじめて、瞬時に掲句の手柄を理解する。つまり鮫の実体感が導いてくれた場所は既に書斎ではない。遠き海でもない。今ここが海なのだ。ぼくらはもはや遠さを、距離を手放す。「遠き海」という認識は鮫の存在に耽ることによって放棄せざるを得ない。鮫がここにいる。

ぼくらは自分の躰に冷たい海流に押され始めていることを理解し、昏い海面を頭上に見上げれば、冷たく差し込むひとすじの光は月光であろうか。溶暗溶光、バクテリアの塵がしらじらと上下し漂うている。鈍い青とも見える黒色の鮫の肌は、月光と感光してこちらまで照りを届ける。躰のすみずみ、五指の先端まで寒海の冷えがゆき渡っているのを、現実世界における読者諸氏は夢の名残として感得するのである。

小澤實は1956年生まれ。1980年に「鷹」新人賞受賞、1982年「鷹」俳句賞を受賞。1985年、「鷹」編集長に就任する。「鷹」時代には第一句集『砧』(牧羊社、1986)、第2句集『立像』(角川書店、1997)を上梓する。そして1999年、「鷹」を退会し、2000年に「澤」を創刊・主宰。第三句集『瞬間』(角川書店、2005)を上梓している。第四句集『澤』はいつ刊行されるのだろう。句集が待ち遠しいという気持ちを抱ける師に出会えたことがぼくは何より誇らしい。

記:柳元

もとわれら神人なれば天降るべく電気洗濯機の渦を見下ろす 阿木津英

所収:『天の鴉片』不識書院、1983

「天降る」には「あもる」のルビがふられている。

 阿木津は、ややグロテスク趣味な歌に特徴があり、散見される。代表歌である〈産むならば〉も、強引な一つのメッセージであるが、「世界を産めよ」をリアルに想像していけばいくほど生々しい痛さがある(男性主義的な社会の、それ自体のグロテスクさに対して、突き付けるようにメッセージを述べようとすると、自然とそうなっていくのかもしれない)。掲歌も、「たそがれのはくもくれんを嘴がみぎにひだりに裂きて啄む」、「聖処女の腹部剖けばむらさきの子宮けぶれる夏のゆうぐれ」に連続して収録されている。

 そういったグロテスク気味な歌には、それを演出する単語が用意される。
 先述のもので言えば、「裂きて」、「剖けば」、「子宮」、他の歌から要素を引き抜くと「腸」、「腹腔」、「首を掻く」、「蠢く」など。体の部位を異様に着目したり、直接臓器が裂かれたり意識されたりする。
 そして、上に挙げた〈聖処女の〉のように、神秘的で神話的で宗教的な単語も同時に挙げられることが多い。聖なる、神性を持つものが失われていったり、人のような下等(神に比べて?)のものによって汚されたりする。

 そういう、なんとなく破滅的でグロテスク気味な視線を感じながら掲歌を見ると、素通りできない恐怖があると私は感じた。
「もとわれら神人なれば」と豪快な入りで、「電気洗濯機」とかなり人間的な道具で終わる。「見下ろす」というのは神→天の印象から繋げられて出てきた動詞だろうと思われる。
「渦」。焚火を見るような感覚で洗濯機の様子を眺めることは無くはないが、この「見下ろす」は微妙に長い時間な気がしている。見たことも無いので想像がつかないが、「天降る」には、それなりの時間が必要だと思う。電気洗濯機からその「天降る」のイメージにつながるということは、それなりに見つめていたのではないか。「渦」をながながと見つめている人。「渦」……。

 さらりと読んだだけでは、天や神のイメージから、電気洗濯機という(歌が詠まれたころより現在はさらに)卑近な存在に流れていく面白さ、という消化の仕方で終わってしまう。この「神人」が電気洗濯機の渦なんかに落ちていく、そのひとつの残酷さが後ろに透けていて、前半の威勢の良さと「渦」という一文字がやけに怖くて仕方がない。

 最後に、私は「天降(あも)る」を目にしたとき、「アモール」(愛)と「雨漏」(あまもり)を連想した。愛とグロテスクさの関係、天と雨漏りと洗濯機の関係を一瞬にして想像してしまって、この一首を読んだだけでかなり疲れてしまった。なんてことのない、要素で語るだけの歌だと思うが、その要素が綺麗に刺さってしまった。連想させやすい歌、という目線で他人の短歌を見ていくと面白いのかもしれないと感じた。

記:丸田洋渡

蓮飯の箸のはこびの葉を破る 皆吉爽雨

所収:『自注現代俳句シリーズ・Ⅰ期 皆吉爽雨集』(俳人協会 1976)

蓮飯というと観念のほうに寄ってしまいがちになるが、掲句は写生句らしく実体、質感を描き出している。飯の湿度でふやかされた蓮の葉を箸が破いてしまう。景に焦点を当てるならば〈箸に葉を破る〉のような絞られ方がなされて良いところだが、掲句はそうではなく破いたときの質感がより伝わる書き方が選ばれている。「はこび」という言い回しが巧みで、故意に破いたのではなくただ食べているうちに偶然破れてしまった素朴な哀しみが感じられる。また「は」音がくり返されているなど、作者の手つきが色濃く伺える句のようにも思う。自註によると「蓮の葉に白飯を盛った仏家の蓮飯を饗された。箸使いで破れる蓮の葉の瑞々しさ」とあるが、どちらかといえば蓮の葉が刻まれ白飯に混ぜ込まれているものとして読んでいた。それは好みによるだろう。しかし「破る」の感や、死と瑞々しさの対比は自注の方が強い。

記 平野

春夏秋冬/母は/睡むたし/睡れば死なむ 高柳重信

所収:『遠耳父母』1971

俳句の多行表現に関しての知識は浅い身なので、その観点から句を上手く掘り下げることはできないとは思うが一応触れておこう。意味内容での切れは「春夏秋冬」の後にしか存在しないが、その後のフレーズも多行書きという視覚的な切れを用いることで、読者がこの句を読むスピードが通常よりも遅くなるような気がする。それが、「春夏秋冬」と母の老い(もしくは病の進行?)という2つの時間の流れを補強しているともとれる。

春夏秋冬という永遠とも思える時間の繰り返しの運行と、人間が生きている限りにおいて繰り返す睡眠が並置されることで、睡眠と死が隣合う人の時間の危うさと季節の永遠が対比される。

象徴としての「母」の持つ生命を育むイメージは四季に通じるものであると考えると、この句における母と同じくして、「春夏秋冬」もまた、不意の終わりの可能性を持った危ういものとしてこの句に表れている、意味的に「春夏秋冬」と「母」が並列のようにも感じられる。

記:吉川

錆  丸田洋渡

 錆  丸田洋渡

ゆきやなぎすべての車引き返す

木には木の病空には空の餐

紙匂う椿めくれる大きな手

行きとどく花のからだに鳥の恋

そこにゆれる知子どもたちは雪を催す

凍滝と同じやり方で 話す

ヒヤシンス声錆びてきて夜な夜な研ぐ

天にある楽器・楽器屋・御茶ノ水

この世この夜サイダーを花茎で飲む

空間大切ぴったりと蝶いることで

きらきらと魚卵こぼれる 君といて眠ったように話すいつでも 嵯峨直樹

所収:『みずからの火』角川書店、平成30年

「きらきらと」という言葉は、それ自体きらきらとしており、なかなか私は使いどころが難しい語だと思っている。ここでは「魚卵」のこぼれる様に用いられている。魚卵自体がきらきらしていて(いくらみたいに)、だからスムーズに「きらきらと」と言えたのか、ただ魚卵が零れているのを、君と話す時のことを思い浮かべて心にはきらきらと映って見えたのか。私は魚卵に対して「きらきら」という感覚を抱いたことが無いため、心のなかで思ったことなのかなと推測した。

「眠ったように話す」。滑舌とか話のテンポが異様に遅いとかの実際の話ではなく(そう取るとまた違う面白いこうけいが想像されはするが)、身を任せてうとうとと眠ってしまえるような心地よさの中であなたと話す、ということだろう。ここで効いてくるのが「いつでも」。眠るという行為を人間が常に行いつづけているように、君と話せばいつだってそのように安心できる。そのとき偶然、というのではなく。
 さりげなく倒置がなされているのも、安心していることを安心しながら君に伝えているようで、主体ののんびりした性格や「君」との良好な関係性を思わされる。

 そこまではいいとして、はたして「魚卵こぼれる」はどう関わっているのか。いくらの軍艦的な寿司を頼んで、私を君を挟んだテーブルの上でいくらがきらきらとこぼれた、とかそういう光景にすれば辻褄(?)は合うものの、なんだかぎこちない。
 後半部の語彙や温度感に合わせるなら、「魚卵」の部分は、炭酸の泡がグラスの中を上って行ったとか、その程度で収まったのではないかと思う。君との穏やかな関係を穏やかに述べるにしては、「魚卵」はイメージが強すぎるように思う。
 そこがだめだ、と言いたいわけではなく、この歌は完全に「魚卵」の奇怪な、不自然なイメージの強さによって、不思議な余韻を生み出しているのだと言いたい。何度読んでもいまいちその光景や、主体が何で「君」の話をするときに頭に「魚卵」が浮かんできたのかは分からない。そのせいで、「いつでも」の倒置も謎に効いてきてしまって、「君」との話の最中、(現実か脳内かはさておき)度々魚卵が零れてはいないかと想像してしまう。

 バリー・ユアグローの短編に、「水から出て」という掌編ながら奇想天外な魚に関する短編があるが、それを思い出した。この魚卵のきらきらなこぼれについて、もしかしたら主体と「君」は、人間ではなく、魚側なのではないか……自分たちの子どもを見て、「きらきら」と言っているのではないか……。流石にこれは飛び過ぎた読み方だと思うが、そういう読みを喚起させるほどに、「きらきら」「魚卵」「いつでも」には独特な輝きがある。

記:丸田

岡田一実『光聴』を読む

柳元佑太

『光聴』(素粒社、2021)は岡田一実氏の第4句集である。氏の第3句集『記憶における沼とその他の在処』(青磁社、2018)が筆者のフェイバリットであったから当然本句集の期待値も高く、そして実際の読後の印象も、句集の構成や志向するものが変遷している(後書にもあるように本句集は編年体をとり、句群の背後に句を記し纏め上げた作者の虚像が結ぶようにセッティングされている。これは第3句集のテクスト論的な潔癖さとは異なっている)けれど、期待を裏切らないものであったことは最初に記しておきたい。装丁も素敵だった

そしてひとまず、本稿を書くにあたってのスタンスを示しておこうと思う。これまでの句歌集鑑賞で取り上げてきたものは現代で短詩を書くにあたっては古典と言えるものばかりで、刊行されたばかりの句歌集は取り上げてこなかった。というのも、刊行されたばかりの句集というのはジャーナリズムの海に出て帆を立てたばかりの船であって、すでに古典となり押しも押されぬ立ち位置を築いた句歌集とは別の批評の手続きが必要である。古典に関しては適当な戯言ばかり言っていても、失われるものはぼく及び帚の面々の信頼のみであるからまあどうてことないのだけれども、こちらはそうはいかぬ。聴くところによると以後読書会も控えているようだし、持ち上げるばかりでなくて少なくともその試金石となるようなことくらい書かねば格好がつかぬだろうし著者にも句集にも失礼であろう。とはいえつらつらと句から感じたことを書き連ねることしか出来ないから、一読者の愚なる一感想であること、諸氏は心に留めおかれたい。

さて、本句集で惹かれた句をまず幾つかあげてみると、冒頭の

疎に椿咲かせて暗き木なりけり

から始まって、

牡丹の蕊灼然と枯れにけり
海風や葵の揺れが地に届き
金魚田に空映る日の金魚かな
世の雨の縦にすぢなす雨月かな
冷酒やあはあは昨日【きぞ】の水平線

など、比較的集中においては端正(で程良く修辞として華美な)句群を筆者は好んでいる。動植物のいわゆる俳句的な素材にも心を寄せ、伝統的な価値との連帯も過度に厭うことなく、定型を冷やかに充たすような構築的な書きぶりから受ける印象は、前句集『記憶における沼とその他の在処』から引き継がれているように思う。おそらく岡田氏にとってもこのような文体はまだ書き尽くしていない、擦りきっていないという思いがあるのだろう。筆者にとっても、自分がこう言った書きぶりに対して反発することなくむしろ歓待の心をもって頁を繰ることが出来るのだなということに気づけた。

またトリビアルな書き振りも、岡田氏が変わらず磨き上げてきている技であって、以下幾つか引用するけれども、この精度、技術には舌を巻くしかないだろう。

熊蜂の花掴み花揺らし吸ふ
顔うづめ蒲公英を虻歩きけり
触覚で葉に触れ蟻の歩み止む
水馬の水輪の芯を捨て進む
向日葵の芯つぶだちて盛り上がる
熊ん蜂釣船草に頭を深く

「よく見たね」「じっと観察したね」であるとかなんとか、言葉の問題であるものを視覚の問題であるかのように転倒した評をしてしまいそうになる。流石である。

ただ、これは難癖だと思って聴き流していただいて構わないのだけれども、素材の拡張を伴わないあくまでも花鳥風詠的な素材を用いたトリビアルな書きぶりは、もうある種のレトリックに成り下がっているのではないか(もちろん全てはレトリックであるのだけれども)。もう少し具体的に言えば、これまでは偏執的な眼差しのみがもたらし得たトリビアルさは、昭和30年世代以降、具体的な名前をあげれば岸本尚毅氏や小澤實氏以降、まなざし抜きの言語的操作のみで表象可能になっていると思うのである。この主張をぼくは散々しているのだけれど、わりに顰蹙を買うばかりであまり共感された試しがない。岸本氏や小澤氏が(むしろそれゆえに)眼差や実感への回帰を説いているから、入り組んでいるのかもしれない。引用した句に沿って具体的に述べるならば、例えば「虫」と「花」を季重なり的に一句の中で処理すると、季語が季語性を喪失する代わりに「ものとしての側面」をあらわにするというメカニズムがあって(これを指摘したのは小川軽舟氏である)、これがコード化され技法として遺産化しているのだ、というのが筆者の主張である。岡田氏はこのコードを利用している。

であるから、こういうトリビアルな写生句は、岡田氏の技術の保証にはなっても、本質的な魅力にはなり得ないと思う(TOEFL何点とか英検何級などの資格がその人の技術を保証しはしても、人間的魅力を表す指標ではなかろう、変な喩だが)。しかしこれはもちろん誹りではなくて、TOEFLや英検が、しかし何がしかを指し示すように(たくさん勉強したんだろうな、とか)、そういう意味で岡田氏はここで信頼を稼いでいるのだ、と見ることは出来るし、実際のところこういう句がもたらしてくれる安心感が他の挑戦的な句づくりを土台で支えているのである。

また本句集は、生活や人事などに対する醒めた眼差しを機知で練り上げたような、ユーモラスな句も存外多く、こういった傾向の句を大いに楽しんだ。この傾向は有る程度文体が抑制的であればあるほどこちらとしては乗れるように思えて、

ハイターに色抜けにけり風呂の黴
話しあふ忘年会を思ひ出し
吾がキャンプ他家のキャンプと関はらず
興湧かぬまま大蟻の歩を眺む

くらいのドライでシニカルな文体で書かれるとつい誘われて笑ってしまう。十分に一般性を獲得していると思うし、その中でも

可笑しいと思ふそれから初笑

はかなり好きで、笑いという現象が実はかなり社会的なコードに依存していて、身体の奥底打ち震え、込み上げてくるような肉体的な笑いよりも先行して、観念としての笑いのような、社会に規定されている笑いのようなものが実はあって、それが先行して感覚される感じは体感的に納得する。この微妙な感覚を、言葉で表象し得たというところにも、驚く。もちろん、このラインを行き過ぎると、つまりある種の面白さが文体の抑制を超えてしまっていると、やや大味にも思えるというか、

句を残すため中断の姫始
タレ甘すぎて白魚のあぢ不明
汗染むる衣脱ぎにくし脱ぎ涼し
霊魂に信うすし盆菓子は欲し

くらいになると、面白すぎてやや興が醒める感も少しだけ、ある。

それから、これは書き方が難しいのだけれども誠実な感想として記すと、「幻聴譚」という詞書が伏された六句(もっと言えば、集名『光聴』、あるいは編年体という私性が前傾化する編み方が印象づくるようなありよう)に関しては、ぼくは少し乗り切れていないと思う。あくまで一般論として、私性を物語化して背後に忍ばせたとき、語る自分と語られる自分に乖離が生まれざるを得ないために、自己演出の匂いを消し去ることは困難であると思うのだけれども、ぼくはこの匂いに関して過度に敏感であるというか、気にしすぎというか、素直に乗れたことが殆どない。といっても、石田波郷や折笠美秋、あるいは晩年の田中裕明、歌人なら笹井宏之らですら、何らかの読み難さ(テクストの読み難さというよりも、そのテクストをいかに消費し得るのかという自分の倫理的態度を常に問われ続ける)を感じつつ読まざるを得ないのだから、これは岡田氏の責という訳ではなくて、むしろ自分の病理であると思う。ただやはり、句としての強度を志向するときには「幻聴譚」はやや直截的でありすぎたのではないかな、と思う。

けれども、本句集の構成が、作者というのは自分が所属する時代規範や社会、環境、自分の身体や精神から間逃れることが不可能であり、自分は時代精神のペンと紙であるということに向き合った結果であるということを重んじるとき、おのずから同時代の歴史の体重がのる句というのが稀に書かれると思っていて、その充実を集中に見れるのは幸福なことだと思う。参照性や構築的がどうしても呼び起こしてしまう虚無を、それらは追い払う。例えば、

疎に遊ぶ卯月の海に脛【はぎ】濡らし

のような掲句をCOVID-19と結びつけることは不必要な読みの手続かもしれないけれども、社会詠がリリカルさの質を高く保ちながら詠まれるということが困難であることを思えば、掲句が密集を避けながら浜辺にて戯れる卯月のこころもちに心を寄せない訳にはいかないし、

コスモスの影朦と落ち揺れてゐず

のような、朦朧とした感覚(じっさい、これは幻聴を描いた句群や、偏執的に向日葵を描写する連作が、丹念に時間をかけて準備してきた実に手の込んだ感覚である!)がコスモスの花影に仮託されたとき、最も素晴らしいかたちで、『光聴』が志向するものが立ち現れているように、ぼくには思われたし、引用していないだけで、こういう句が集中にはたくさんあるので、ぜひ手に取っていただきたく思っています。

耳は貝 柳元佑太

 耳は貝 柳元佑太

蝶も夢老子も夢やウヰスキイ

折紙の禽獣に春闌けにけり

水の世に椿童子と愛し合ふ

耳は貝卒業式を少し寢て

卒業はせずに煙草をぷかりかな

輩と旅路を分かつ櫻かな

戀猫と一萬圓と似非易者

学位記や夜櫻樹下に一人酌み

英語讀本に冒險譚や燕

珈琲や入学式をサボりゐて

流れ合ふ卒業式の心かな 京極杞陽

所収:(調べて追記します)

「流れ合う」というフレーズは見慣れないものであるし、この句においてはその主語もはっきりしない。それに加えて「心」という抽象的なものを扱っているので、この句は私には捉えどころがない。

複数の人それぞれの心がお互いに流れる、つまりそれぞれの人の感情が川の流れのごとく緩やかに内面から外面へと表出されているということだろうか。実際、卒業式には喜びも悲しみも様々な感情が表情や会話に表れる。
以上のように意味を嚙み砕くことが可能であるならば、内容は特段珍しくない。しかし、その角度から読んでも、この句の良さは十分に分かっていないような気がする。

「流れ」「卒業」の取り合わせによって、時間、感情、川などの多様なイメージが「流れ」という言葉によって束ねられることで生まれるぼんやりとした抒情は、不明瞭な書き方によって引き立てられている。
先週私は卒業式を迎えたが、あの時間に感じたぼんやりした感情を反芻するようにこの句を読んでいる。

記:吉川

日々 平野皓大

 日々   平野皓大

卵焼く卒業式の日とおもふ

快敗の名監督はさつと死ぬ

卒業式やたら大きな大学の

三月や人垣を人あふれだす

落第の日々は鞭なる桜かな

卒業の傘泥棒になりにけり

快杯の拍子を花に任せやる

やきとりの赤提灯や卒業す

快牌のをとことなりぬ浮氷

袖珍の皺みてゐたる新社員