もとわれら神人なれば天降るべく電気洗濯機の渦を見下ろす 阿木津英

所収:『天の鴉片』不識書院、1983

「天降る」には「あもる」のルビがふられている。

 阿木津は、ややグロテスク趣味な歌に特徴があり、散見される。代表歌である〈産むならば〉も、強引な一つのメッセージであるが、「世界を産めよ」をリアルに想像していけばいくほど生々しい痛さがある(男性主義的な社会の、それ自体のグロテスクさに対して、突き付けるようにメッセージを述べようとすると、自然とそうなっていくのかもしれない)。掲歌も、「たそがれのはくもくれんを嘴がみぎにひだりに裂きて啄む」、「聖処女の腹部剖けばむらさきの子宮けぶれる夏のゆうぐれ」に連続して収録されている。

 そういったグロテスク気味な歌には、それを演出する単語が用意される。
 先述のもので言えば、「裂きて」、「剖けば」、「子宮」、他の歌から要素を引き抜くと「腸」、「腹腔」、「首を掻く」、「蠢く」など。体の部位を異様に着目したり、直接臓器が裂かれたり意識されたりする。
 そして、上に挙げた〈聖処女の〉のように、神秘的で神話的で宗教的な単語も同時に挙げられることが多い。聖なる、神性を持つものが失われていったり、人のような下等(神に比べて?)のものによって汚されたりする。

 そういう、なんとなく破滅的でグロテスク気味な視線を感じながら掲歌を見ると、素通りできない恐怖があると私は感じた。
「もとわれら神人なれば」と豪快な入りで、「電気洗濯機」とかなり人間的な道具で終わる。「見下ろす」というのは神→天の印象から繋げられて出てきた動詞だろうと思われる。
「渦」。焚火を見るような感覚で洗濯機の様子を眺めることは無くはないが、この「見下ろす」は微妙に長い時間な気がしている。見たことも無いので想像がつかないが、「天降る」には、それなりの時間が必要だと思う。電気洗濯機からその「天降る」のイメージにつながるということは、それなりに見つめていたのではないか。「渦」をながながと見つめている人。「渦」……。

 さらりと読んだだけでは、天や神のイメージから、電気洗濯機という(歌が詠まれたころより現在はさらに)卑近な存在に流れていく面白さ、という消化の仕方で終わってしまう。この「神人」が電気洗濯機の渦なんかに落ちていく、そのひとつの残酷さが後ろに透けていて、前半の威勢の良さと「渦」という一文字がやけに怖くて仕方がない。

 最後に、私は「天降(あも)る」を目にしたとき、「アモール」(愛)と「雨漏」(あまもり)を連想した。愛とグロテスクさの関係、天と雨漏りと洗濯機の関係を一瞬にして想像してしまって、この一首を読んだだけでかなり疲れてしまった。なんてことのない、要素で語るだけの歌だと思うが、その要素が綺麗に刺さってしまった。連想させやすい歌、という目線で他人の短歌を見ていくと面白いのかもしれないと感じた。

記:丸田洋渡

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