春の水とは濡れてゐるみづのこと 長谷川櫂

所収:『古志』(牧羊社 1985)

「とは」と見得を切った時点で一息に駆け下りなければならない膂力の質が、折笠美秋の〈あはれとは蝶貝二枚重ねけり〉 阿部完市の〈遠方とは馬のすべてでありにけり〉と並べた時、明らかに異なっている。折笠や阿部が「とは」と言う時に試みているのは「あはれ」や「遠方」の背丈を測ることであって、その丈を埋めるようにして以降の語は置かれている。この時、両者は一脈通じる感覚を手がかりにして、実在し得ない抽象語に肉を与えようとするのだが、掲句の作者はそうした肉付けを放棄する。元より質感を持つ春の水を「濡れてゐる」と形容をする事で、予め用意されている言葉の枠を揺らし、観念的な方向に流れ出すその模様を楽しんでいるのだろう。もちろん掲句の水は蛇口を捻る、もしくは池に溜っている水と呼ばれるものに、季感が溶かされているため、すでに肉は剥がれ落ちていると言えるのだが、作者の態度として実在の水に肉薄するのではなく存在を異化するかたちで言葉を費やしていることは注目に値する。そもそも実在の水に肉薄しようにも言葉はスポンジのようにどこまでも吸い上げ/吸い上げられるだろうし、写生はその点で空しく、しかし挑戦として見れば味のある行為だと言える。

掲句が志向するところを先に言ってしまえば、それは生の把握であり、存在の裏側にある観念的ななにかへの接近だろう。なにかに潜らせる言葉の色合いは、それを見出す側において異なっている。ちょうど水という無色透明なものに抹茶を混ぜるか、墨汁を垂らしてみるかの違いと同じで、言葉の色合いがなにかの表出の仕方を決定するのである。掲句について言えばそれは肉感的で艶めかしい色であった。「こと」と収めた時の立ち姿は「けり」と比較して有機的に「濡れてゐる」の肌感覚を読み手に伝える。ただ、こうした嫋やかさは「春の水」が本来持っていたものでもあるため「春の水」からなにかを抽出する意志が結果としてなにかの色合いを決定してしまうという、存在とのせめぎ合いが掲句にも見られる。そして存在となにかのあらゆる局面を切り抜けることによって、生が運動していくのだとしたら、それをまなざす意志とはつまり生を見つめる意志のことを指すのだろう。この意志が眼のうちにある限り、掲句が持つ膂力はなにかへと一足に飛び越える跳躍力になり、自らの生を顕示するように掲句は跳ねあがり、隠されたものの姿を我々に見せてくれるのだ。

記 平野

血を分けし者の寝息と梟と 遠藤由樹子

所収:『寝息と梟』朔出版、2021

子なり孫なりの寝息が、おのれの躰から産まれ落ちた人間という奇異な存在に、冬の夜の寝床の穏和な感覚をその優しさを保ったまま導いてくれる。外の梟の鳴き声が稀に聴こえるという。その遠い距離、種を隔て距離を隔てる梟の存在感には、不可侵性と分かり合えなさ、それでもどこか通じ合えているような感覚が準備されている。これが掲句においてはとても優しい。

江藤淳が指摘するような日本の母子密着型の類型がある中で、血を分けていても所詮他人であり、別個のものであるという感覚が、偶然を装った梟の登場により担保されつつ、あらためて、血を分けている者が、今ここで寝息を立てているということの不可思議を考えられる。

「血を分ける」という行為は胎盤をもて子を自然環境に適応出来るくらいまで育てあげる哺乳類独特の喩だと思う。魚類爬虫類鳥類のような卵を産むことにより生を繋ぐ動物では「血を分ける」という感じはしない。臍の緒で母体と胎児が血流を交換するからこそ「血を分ける」という表現が成り立つ。なにかその、哺乳類全体に通じるような、子を自然環境や外敵から守るための育て方まで含んで響くような感じがある。むろん、身体の組成が同じであるということ、身体の約13分の1の質量をしめる血液を同じくしていること(まあ厳密に言えば異なるけれど)に、おのれのレプリカント的な、シュミラクル的なある種の気持ち悪さがあることは当然として。

だからこそ、梟の他者性と並列であることが、なんだかとても嬉しい。この種の愛情が降り注がれる子は幸福だったろう。

『寝息と梟』は遠藤由紀子氏の第二句集。50代前半から60代前半の375句を収めている。

記:柳元

夢中  平野皓大

 夢中  平野皓大

馬むかし宛なく走る椿かな

若駒や夢中を生れ来る如く

戻るには遠くありけり花筏

後朝の眉間のいろの土匂ふ

木蓮にしばらくぶりの雨女

春の雨猿股猿の如く濡れ

金閣のパズルを飾る春夕べ

わしづかむ本四五冊や春の夢

囀りや老婆の口のさぞ乾く

蛇穴を出でてしきりに腹を巻く

ひとつだけ台詞が言える夜のおばけ いい天気だねー おばけは言います 谷川由里子

所収:『サワーマッシュ』(左右社、2021)

 幼いころからバレエを習ってました、という人の体の柔軟さに驚く。あの柔軟さは、幼いころからやっているかどうかで決まるらしいとテレビで見たことがある。大人になってから体を柔らかくしようと頑張っても難しい、らしい。それと同様に、絶対音感的な音感も、幼いころで決まるらしい。8歳ごろには聴覚が完成してしまうから。

『サワーマッシュ』を読んでいる間、ずっとそんなことを思っていた。めくるめく突飛な歌たち。それが、尖っていたり、ぶっ飛んでいるというわけではなく、あまりにもふつうの感じで並んでいる。凄い柔らかい着地を決めたり、凄い音程とリズムで歌ってみせたりする。それが、どう? 凄いでしょ? 的なものではなく、幼いときからそうなので今もそうです、みたいな軽さで、これだけの質でこれだけの量を集めるには、真似では到底無理で、もともとそうでなければ生まれ得ない気がした。だから、読んでいて、序盤は真似したい! と強く思ったものの、途中からもう諦めた。

お土産を貰って少し置いてから食べた 置いていた場所がさみしそう

 こういう発想の切り替えは、ダンスをやったことなくても出来そうな気がするが、

子どもって奇跡をひき起こすとき どうして発狂しないんだろう

 ここまで滑らかに動かれると、急に差が開いてしまう。

ルビーの耳飾り 空気が見に来てくれて 時々ルビーと空気が動く

 綺麗な曲と綺麗なダンス。しなやかすぎる。

いままで報われなくてよかったな コブシが群生している道もよかったな

 短歌、という目線で見たら、定型だとか、そこから逸脱しているとかいう気づきになるのだろう。この人の中で流れている音楽はこの人のリズムで、それはこの人の体のやわらかさとリズム乗りの才能によって決まる。この人の中で、「コブシが群生している道」は、短歌というフィルターを通って推敲されなかった。それはとても幸福なことだなと私は思った。この人の音楽が聴けて素直に嬉しいと思う。

 さて、タイトルに揚げた夜のおばけの歌に移る。谷川の歌は、基本的に生活上で出てくるシーンやワードから出発している。そこから色んな所に着地してみせる。その中で、このおばけの歌は、珍しく、はっきりと「設定」からスタートしている。「ひとつだけ台詞が言える夜のおばけ」。ひとつだけ喋る、ではなく、ひとつだけ「台詞が言える」だから、何か役を与えられた人の話かな、と思う。それにしては「夜の」がかなり「おばけ」の世界に寄っている言葉だから、本物のおばけの話をしている可能性もある。どちらでもとれそう。
 何の台詞を言うんだと思ったら「いい天気だねー」。なんじゃそりゃ、と気が抜けるとともに、可愛い光景だなと想像する。夜のおばけにとっては夜が活躍時なわけで、それは人間にとっての朝とか昼みたいに、いい天気なら嬉しいものなんだろう。それを(おばけの仲間に?)(人間に?)相手に伝える。「だねー」の部分がやけに慣れているというか、くつろいでいる。友達に言っているみたい。
 そこからのオチ「おばけは言います」。こんなに柔らかい捻り方をする人もいないだろう。前半に戻すタイプのつくりであれば、たとえば「いい天気だねー やさしいおばけ」みたいにするのが妥当な気がする。おばけを振っといて、「いい天気だねー」が本当は面白部分なわけで、変わった部分だから、最後は「いい天気だねー」以下の力でさらっと終えておけばいい。
「おばけは言います。」力が強い。ああ、言ったんだ、一つだけのセリフで、そんな気の抜けた言葉を……。急に絵本みたいな要素も追加された。さらっと一気に光景を確かなものにしていった。どんなおばけだよ、どんな設定だよ、と思っているところを、「おばけは言います。」、言うんです、とちゃんと言うことで、ちゃんと言うんだ、と思う。一首で、ルール説明と、そのゲームの習得がなされた。

 上中下で三つ凄いことをしている歌で、なおかつ元から備わっている柔らかさと音感を十分に発揮している歌。こんなにさらっとしているのが憎たらしいくらいに素敵だと思う。

 ところで、序盤からその先天性感というか、幼いころからの才感をしつこく出しているが、それだから凄いのだと言いたいわけではない。『サワーマッシュ』を読めば分かるが(読む以前に、その装丁や本自体の構成からして)、それを慎重に駆使するクールな知性が裏にあることが感じられる。どこか遠くで流れている川の小さな音が、温度感として伝わってくる、みたいな。ここまで徹底的に作られていると、なすすべがない。
 今忙しかったら明後日でもいいから、ゆっくりと読んでほしい歌集。ぜひ手に取ってみてほしい。

記:丸田

裏坂をのぼり来るも月の友 五十嵐播水

所収:『ホトトギス巻頭句集』(小学館 1995)

月を求めて人は高台にのぼる。丸く大きな月に立ち向かい、あたりを一望して友と語りあう。夜気は曇りなく、思いもよらず声が通る。しんと静かに、しかし意識すればそれなりの虫がそこかしこに潜んでいるらしく、心を任せるそのうちに月は高く、見上げるまでになっている。とん、とん、と軽い靴音がうしろからやって来て、誰かが、月夜と思われないほど暗い坂をのぼっている。その正体を怪しみながら、しかし心はすでに知っている。そいつが昔からよく親しんだ仲であることも、そいつが、この世ならざる者であることも。此岸と彼岸に人は挟まれながら、生人も死人も入り混じりぼんやりと月を見上げる。永井龍男は書いた。「ここからどこか、さらにどこかへ入って行けそうな気もしてきた」(『秋』)不思議な月夜のことである。

記 平野

腹案はある杉菜へとまづ歩け 島田牙城

所収:『誤植』(2011、邑書林)

近代科学が頭蓋にメスを入れてどうやら脳味噌がものを考えていることを明らかにしたわけだけれども、ところがどっこい、何も人間は脳味噌でばかりものを考える訳ではない。「腹黒い」とか「腹を割る」とかいうようにお腹だって立派なこころの在りどころだったのである。

「腹案」という語が妙に面白いのは、人間が窮地に立たされたときに練りに練った案を開陳するというシリアスな局面にも関わらず、お腹でものを考えてお腹に溜め込んでいたものを大儀そうにとりだすような感じがするからなのかしらん。

悲しいかな、得てして「腹案」というものは大したものではなくて、不発不適切打つ手なくなり観念するしかなくなる一歩手前の悪あがき死亡フラグ、破滅の予告なのである。「腹案」はこういうものだから、周囲の人間からしたら厄介極まりないものなのである。悲劇の始まり。滑稽未来の決定。もう終わりだ。やめだやめだ! 腹案はある。嘘だ! 腹案なんてとんでもない。腹案はある。それは無謀の別名だ! 破局へ動き出す運命の機関車! もはやブレーキは踏み損ねた! 惰性でレールを滑るだけの鉄塊! 否、藁にもすがる思いで耳を傾けようではないかその腹案とやらに。「杉菜までまづ歩け」。嗚呼!

記:柳元

春の夢 吉川創揮

 春の夢   吉川創揮

ささくれの喉まで花の夜の降りる

乾杯の高さに春の月ありき

鶯や手首に青を催して

恋歌よ時間は桜呑み干せる

長き日の嘔吐に遣ふ筋あまた

草餅や公園に散る白きこゑ

空耳の木々を光ながらに風

瞬きとしやぼん玉とが搗ち合へば

行く春の扉に小さき扉あり

白魚や目で天井に夢記す

ゆふぐれをさぐりさゆらぐシガレエテ 小津夜景

所収:『フラワーズ・カンフー』ふらんす堂 2016

シガレエテとは紙巻き煙草のこと。視覚で捉えた煙草の煙のイメージを音韻という切り口で表現しているのがおもしろい。

3度でてくる「ぐ」の音の強烈な印象と、それとは対照的なやわらかな印象の「ゆふ」「さゆ」の響きが混在することで、音に緩やかなメリハリが生まれ、煙が昇る様を思わせる。
「さぐり」「さゆらぐ」の頭韻、「ぐれ」と「ぐり」の相似の響き、シガレットではなくシガレエテという語を選択し促音を避けたことなど、音韻への心配りが1句全体に行き届いており、口に出すと呪文のようで楽しい。

記:吉川

土曜日の午前と午後のさかいめをカーニバルめく自転車屋あり 北山あさひ

所収:『崖にて』(現代短歌社、2020)

 ちょうど良い場所に鍼を打たれているような気持ちになる一首。
「土曜日」という、日曜日を控えた実質一番気を抜ける日の、「午前と午後のさかいめ」。語の意味からいえば、正午の前が午前で後が午後になるわけだが、体感としてはたしかに「さかいめ」のぼんやり浮いている時間は存在する。午前だとも午後だとも言い切れない、正午あたりの時間帯。そこを「カーニバル」のように「自転車屋」が存在している。カーニバルの動きのイメージからすると、自転車の動きがどうのこうのの歌かと思ってしまうが、ここでは「自転車屋」で、そういわれると確かに、あれだけ狭い空間に(大きい自転車販売店もあるだろうが、ここでは狭い地味な町の自転車屋が自動的に想像された)自転車がぎゅうぎゅうに且つ綺麗に飾られているのは、カーニバルだなあと共感する。

 この主体が、土曜日のその時間帯にそのカーニバルのような自転車屋を目撃して、その後どうなったかが気になる。ただカーニバルめいてるなと思って通り過ぎてその後何もなかったのか、カーニバルっぽいからこそなんだか楽しそうだぞ、と思って自転車屋の中に入っていったのか。「さかいめ」と捉えているところや「あり」の言い方から、その時間にちょうどその自転車屋を目撃できたこと自体が素晴らしいことであって、別に自分が入って行こうという意志まではない、もはやその自転車屋の状態をそのままに保存しておきたいとまで思っていそうな雰囲気がある。もし中まで入っていったとしたら、どうなってしまうのだろうか。変な時間軸の世界に飛ばされて、その世界で自転車と踊り狂わされ続ける、という未来もあったような気がする。

 自転車屋といって思い出されるのは、塚本の有名歌〈医師は安楽死を語れども逆光の自転車屋の宙吊りの自転車〉で、個人的に塚本邦雄の歌の中でもトップ3くらいには好きな歌である。北山の歌も多少この歌を意識しているようには思うが、自転車屋独特の(自転車が大量に整然としている様子独特の)不穏感、眩しさが短歌で生き生きしていて面白く読んだ。上の句は雰囲気の演出として、実質この歌は「カーニバル」と「自転車屋」という語の印象だけに身を任せているなかなか豪快な作品だが、それでも十分想像が止まらない楽しい一首であると思う。

 先日『崖にて』は第65回現代歌人協会賞、第27回日本歌人クラブ新人賞を受賞した。これを機にまたこの歌集が多く読まれることを、『崖にて』を好きな一読者として願う。

記:丸田

紫と雪間の土を見ることも 高浜虚子

所収:『虚子五句集(下)』(岩波書店 1996)

見ることも、と流すことで普段見る雪間の土が紫ではないことを示し、同時に雪間の土に親しい環境で生活していること、そして雪の積もる地帯で冬を越したこと、などの背景を想像させる。そのため、ふとした拍子に見た土が紫であったという一回性を楽しめばそれで足りるかもしれないが、今回は「紫」に比重を傾けて鑑賞したい。

見ることも、はこう解釈することも出来るだろう。いつもと同じ雪間の土のはずが、今日の精神状態だと同じようには見えなかった。例えるなら「紫」を見ている気分だ。というような実際には土の色が紫ではなかったとする考えだ。このとき重要になってくるのが先行する「紫」のイメージであり、実景から言葉の領域へと意識は飛んでいく。

では、紫のイメージとはなんだろう。ここで思い出したのが蕪村の〈紫の一間ほのめく頭巾かな〉の句。この句もまた「紫」が一句において決定的な役割を果たしている。ちらりと一間を覗いてみたら、紫色の頭巾が置かれていた。紫色の頭巾とは多分「梅の由兵衛」に由来している。元禄期の悪党・梅渋吉兵衛をモデルとする歌舞伎や浄瑠璃を指して「梅の由兵衛」と呼ぶ。ここでは紫の頭巾という扮装姿が一つの型となっているらしく、それは1736年に『遊君鎧曽我』で初世沢村宗十郎が演じてからの型だという。1736年と言えば蕪村は二十歳ぐらいのため、同時代的な影響があったかもしれない。

つまり、紫色の頭巾が置かれているのを見ることは、一間にいる客人の正体を暴くことと同義になる。虚子の句にもこうした紫のイメージが流れているのではないか、と想像を巡らしたい。頭巾の下に誰か客人の正体を暴くように、雪が溶けたところの土は普段見ている土よりも数段素顔に近い「土」で、奥深い、本質的な色を見せていたのだろう。次第に掲句は現実を離れていく。

記 平野