紫と雪間の土を見ることも 高浜虚子

所収:『虚子五句集(下)』(岩波書店 1996)

見ることも、と流すことで普段見る雪間の土が紫ではないことを示し、同時に雪間の土に親しい環境で生活していること、そして雪の積もる地帯で冬を越したこと、などの背景を想像させる。そのため、ふとした拍子に見た土が紫であったという一回性を楽しめばそれで足りるかもしれないが、今回は「紫」に比重を傾けて鑑賞したい。

見ることも、はこう解釈することも出来るだろう。いつもと同じ雪間の土のはずが、今日の精神状態だと同じようには見えなかった。例えるなら「紫」を見ている気分だ。というような実際には土の色が紫ではなかったとする考えだ。このとき重要になってくるのが先行する「紫」のイメージであり、実景から言葉の領域へと意識は飛んでいく。

では、紫のイメージとはなんだろう。ここで思い出したのが蕪村の〈紫の一間ほのめく頭巾かな〉の句。この句もまた「紫」が一句において決定的な役割を果たしている。ちらりと一間を覗いてみたら、紫色の頭巾が置かれていた。紫色の頭巾とは多分「梅の由兵衛」に由来している。元禄期の悪党・梅渋吉兵衛をモデルとする歌舞伎や浄瑠璃を指して「梅の由兵衛」と呼ぶ。ここでは紫の頭巾という扮装姿が一つの型となっているらしく、それは1736年に『遊君鎧曽我』で初世沢村宗十郎が演じてからの型だという。1736年と言えば蕪村は二十歳ぐらいのため、同時代的な影響があったかもしれない。

つまり、紫色の頭巾が置かれているのを見ることは、一間にいる客人の正体を暴くことと同義になる。虚子の句にもこうした紫のイメージが流れているのではないか、と想像を巡らしたい。頭巾の下に誰か客人の正体を暴くように、雪が溶けたところの土は普段見ている土よりも数段素顔に近い「土」で、奥深い、本質的な色を見せていたのだろう。次第に掲句は現実を離れていく。

記 平野

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