バスが来てバスにゆだねるの刑 石田柊馬

所収:『現代川柳の精鋭たち』(北宋社 2000)

 「百句」中一句。先日、〈バスが来るまでのぼんやりした殺意/石部明〉に触れたが、同じくバスの一句。非常に滑稽な作品だと思う。バスが来て、それに乗ってしまっては、(自身で降りたい場所で降りるという自由は残されているにしても)バスに体を委ねなければならない。それを「刑」と捉えている。どこが面白いと思ったかを考えると、それを「刑」としたことではなく、「ゆだねるの刑」の言い方が大きい。この「刑」を誰かに処すとしても、自分に課すのだとしても、「ゆだねるの刑」はどこかふざけているような、牙の抜かれたような可愛さがある。「ゆだねるの刑~~」と伸ばして声に出すとますますその感が高まる。
 このような句は、ふつうの日常の現象を違う視点で見つめ直した、新しい認識で捉えた、というところに重きが置かれがちで、この句も、バスに乗ることを刑とした、そこだけで一句は出来てしまうはずだ。たとえば、「バスが来てバスにゆだねるという刑」など。こうすると一気に「刑」のシャープな切れ味が強まる。
 それを考えると、「ゆだねるの刑」は脱力させるような気の抜け方がある。そのため読み方としては、「バスが来てバスに/ゆだねるの刑」と77のリズムに寄せて読むのがより合っているだろうと思う。「バスが来て/バスにゆだねる/の刑」としてしまうと、先ほど述べた「刑」の着地・認識のシャープさが際立ってしまって、「ゆだねるの刑」の言い方と合わなくなってしまう。

 石田の他の句に、〈シンバルを十回叩けば楽になる〉があり、この句は可愛さのなかにぞっとする怖さがある。〈糸電話 鞍馬天狗はひとりでいます〉なんかは、素直に笑える面白い不思議な作品。「バスが来て」の句も、その時の気分によって笑えたり、怖くなったりするのかもしれない。次、自分がバスに乗るときに期待である。

記:丸田

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です