所収:「船団」1999・3
鑑賞にかこつけたエッセイ風の小文になるのでご海容ください。
昨日、すっかり日も暮れ、疲弊の手ごたえを背負って、講師をしている勤務校から帰ってくるとき、ジー、ジー、という蝉の音を聴いた。印象にハッとするような驚きがあって、というのも、その瞬間は今年初めて蟬の声を聴いたような気がしたからで、しばらく記憶を遡ってみたのだけれども、どうやら蟬の声を最近聞いたような気もするし、聞いていないような気もする。はて、と、自分の記憶の不確かさに呆れているうちに、いつの間にか蝉の声もやんで、とうとうほんとうに今聞いたのが蝉の声なのかどうかすら、危うくなってくる。そもそも、蝉の音というのが自分の躰にきちんと蓄積していないような気がしてきて、蟬とはそもそもどのような声で鳴くものであったか、という経験との距離が遠く、よそよそしい感じがした。聞いたことがありながら、直感的には聞いたことがないような、そんな感じがしたのだ。
この理由には実は思い当たるところがあって、昔、高校生二年生の時にエヌ・エッチ・ケーの密着取材を受けたことがある。といってもぼく個人ではなく、ぼくが所属していた文芸部が取材を受けたのであった。俳句甲子園という高校生向け俳句大会の全国大会常連校だった(なにせ地方大会の出場校はたった三校だけなのだ)ぼくの高校は、北海道に立地しているという物珍しさや、名物顧問が今年で定年という話題性も手伝ってエヌ・エッチ・ケーの興味を惹くところがあったらしい。ドキュメンタリー形式の一時間番組で放送されるようで、ディレクターとカメラマンと音声担当者の三人が愛媛から派遣されてきた。
六月の北海道は涼しい。六月は白樺たちならぶ丘陵地帯やうすけむりのような色のラベンダーの季節である。それに北海道には梅雨がない。愛媛からきたエヌ・エッチ・ケーの三人組は、事あるごとに北海道の気候のすばらしさに触れ、君たちはこんなところで育つことが出来、恵まれている、というようなことを言った。
ディレクターはまだ二十代半ばの男性だった。確かKさんという名前だったはずだ。重ためのマッシュ・カットに落ち着いた話しぶりで、知性とユーモアを感じさせる人だった。カメラマンと音声担当者の技術スタッフは、どちらも共に中年に差し掛かるくらいの男性で、ひとりは気さくでひとりは無口、しかしどちらも、大きなカメラや、収音マイクを抱えるための筋肉を、ポロの半袖から覗く浅黒い腕に、みっちりと張りつけていた。そんな技術スタッフを束ね、てきばきと指示をだす若きKさんは、いやらしくない、清潔な自信にあふれていた。年上の技術スタッフ二人が、彼のことをKさん、とさん付けしていることからも、なんとなく彼ら三人組における力関係というか、少なくともディレクターのKさんが技術スタッフから敬意を払われる人であることが伝わった。ぼくも年の離れたお兄さんのような感覚をもって、Kさんに好感を抱いた。
さて密着というか定期的な取材が始まって数週間が経って、Kさんは、皆さんが蝉をとる画がほしい、と言った。その年の俳句甲子園のお題の季語のひとつに蟬が入っていたのである。ぼくら生徒と顧問はさっそくロケ車に詰め込まれて、蝉を求めて、車で一時間ほどの自然公園の中に入っていった。スタッフが用意したのか顧問が用意したのかもはや忘れてしまったが、捕虫網と虫籠も用意されていたはずで、ひとまず傍目から見れば、ぼくら一集団は相当な浮かれようであったのは間違いなく、当人たちもいささかの滑稽さを自覚しつつも、まあ、やはり楽しんではいた。
しかしながら、結論から言えば、蝉は全然鳴いていなかった。これは考えてみれば当然のことで、本州ですら六月上旬は蝉がまだ鳴きはじめであるのに、北海道でこの時期、蝉が鳴いているはずがないのである。果たして捕虫網はひとたびも振り下ろされることなかった。まぎらわしいことにスマートフォンでYouTubeの蝉の音の動画を流すいたずらを試みるむじゃきな部員もいて(たぶん当人はよかれと思ってやっていた)、一瞬期待するから余計に失望の感が強いというか、この行為は明らかにエヌ・エッチ・ケーの制作陣スタッフを苛立たせたように思う。結局、空の虫籠をさげ、ぼくらは帰りのロケ車に乗り込むこととなった。蟬狩りは無念の空振りに終わり、山歩きの疲労もそれなりにあって、ぼくらはくたくただった。軽い日射病のようにもなっていた。
ディレクターのKさんはその帰りにサービスエリアに寄ってくれた。Kさんは、ロケ車に戻ってくるときアイスを人数分買ってきた。棒つきの氷菓子で、それはそのときのぼくらの気分にうってつけだった。現金なぼくらは疲労を忘れて大喜びして、Kさんにお礼をいった。すると、Kさんはそれには答えずに、いい画がとれなかった、と独り言ちた。ストレスがたまったときは散財に限る、というようなことも言った。それをきいたぼくらは無言になって、何か言いようのない罪悪感にとらわれながら(別に、それはけっしてぼくらのせいではなかったのだが)溶けてゆく氷菓子を必死で啜ったのだった。
後から聞くところによると、この番組はKさんのエヌ・エッチ・ケー愛媛における卒業制作のような位置づけであって、この政策を終えるとKさんは東京に転勤することになっていたようである。幸い、その年のぼくらの高校は全国大会でそれなりに勝ち上がったから、番組の盛り上がりにはそれなりに貢献出来たはずで、蝉の画が撮れなかったことを補って余りあるはずだった。しかし、蝉の音は真理として聞こえないものである、知覚しえないものである、というような不可思議な感覚を、今もなお、ぼくは引きずり続けているのであった。
ところで蝉といえば、最近、大学院の先輩の中国人留学生の張さんの随筆を読む機会があった。これは和辻哲郎のある文章を下敷きとしながら、蝉の音について述べる「蟬音」と題された巧みな小文であった。ぼくはこのタイトルを初めてみたとき「蝶音」と空目したことを告白しなければならない。おそらく張――チョウ――という名前の響きが、どこからともなく一匹の蝶々を連れて来ていたのだと思う。ぼくは蝶音というものを想像したとき、意外にも、簡単にその音を思うことが出来た。ぱたぱた、などという音は、無論じっさいには聞こえない。けれども、するするとストロオを伸ばしたり縮ませたりして、巧みに花の蜜を吸い上げる音だとか、風の中で羽根をふるわせるときの葉擦れのような音、あるいは鱗粉をはらはらと地に落とす音というのは、聞いたことが無いのに、直接的に聞いたことがある。そのような気分にさせるのであった。
記:柳元佑太