長夕焼旅で書く文余白なし 田中裕明

所収:『山信』昭和54年・私家版


旅先にて時刻は早や夕である。少しく早い宿への到着となった嬉しさは誰に言うとなく、旅装をとく。あたらしい畳の匂いもまた嬉しい。宿の夕餉にはまだ早いから、いちにちのことを振り返りつつ、文机に向かい手紙を書こうと思い立つ。窓の外には夕焼が長引いている。旅愁というほどの上等の気持ちではないけれど、どことなく高揚した感覚が、快適に筆を走らせる。ぎっしりと文字の詰まった手紙は誰宛てのものだろうか。

さて、裕明の掲句、先日勤務校の休み時間に、暇潰しに高校生の教科書(三省堂)をぱらぱらとめくっていたら引かれていた。裕明ファンとしては隣席の教員の手をとって踊り出し、窓を開け、世界中に存在する数限りない愛に惜しみない称賛の気持を叫び、あらゆる精霊に接吻をしたい気持になった。なんと素晴らしいチョイスなのだろうと感嘆するのは(よくぞこのマイナー句を取り上げたという思いもあるけれど)掲句が裕明10代の句群をまとめた『山信』所収の句であるからで、ということはつまり、この句を書いた早熟詩人裕明と現代に頬杖つくZ世代の高校生が、時空を隔て邂逅することになるのである。かような場の用意こそ教科書に出来る少なくない最高のことの一つであろう。むろん高校生は掲句に立ち止まる可能性など微々たるものではあるのだけれど、でも、待ち合わせること、その本質的な喜びはこの傲慢にこそあるのではないか。十代の詩人裕明は、いつでも教科書の頁の中で待っていてくれている。

記:柳元

反復 吉川創揮

反復   吉川創揮

不意に朝其に躓ける蟇

夏休世界ルーペに間延びして

蝸牛法要にのみ遣ふ部屋

青大将踊りながらに食べ進む

炎昼は白柱終のなき鬼ごつこ

蜘蛛の囲に蝶の穏やかなる回転

八月はビルと空地を繰り返す

汗の腿挟みに回転木馬かな

夕焼や紙の袋の匂い抱く

水羊羹月見て月となるさなか

居るといふ蛍のにほひ真の闇 三橋敏雄

所収:『三橋敏雄句集』(芸林書房 2002)

辺りを闇に包まれて、おのれのいま居る場所こそ真の闇だろう、とひとりの人が合点するとき眼は闇を本当に見つめているのだろうか。どうも、視覚に頼っている限り「真の闇」という語に濃いのは観念的な色合いのように思う。闇を見つめながら人はみずからの心の内の闇――喪失感や失望感を重ね合せている。このとき眼前の闇は背景と化し、見ているものと言えば観念の色をべったりと塗りたくった、おのれで作り上げた闇である。つまり「真の闇」と呼んでいるのは心の内に浸透した、複数の意味をはらんだ闇である。

もし掲句がそうした「真の闇」から逃れ得ているとしたら、それは眼前に広がる闇に入りこもうとする誠実な態度からだろう。光を放つことでそれとなく居場所を教えてくれる蛍を見つけようとしながら、眼に映るものはなにもない。掲句はそこで諦めてまなざしを内に向けるのではなく、眼がダメならば今度は鼻で蛍に挑もうとする。いや、そうした意識すら持っていないのかもしれない。一個の人として闇の中に立つ。眼も鼻も耳も口も皮膚も渾然とした揺るぎのない個として闇の中に立っている。この時、眼でものを見るように鼻は動き、耳は「蛍が居る」という暗闇の呟きを嗅ぎつける。そして、渾然一体となっているのは感覚だけではない。辺りの闇も蛍もおのれも全てが一つに溶け合う感覚、それこそ真の闇と呼ぶべきだろう。

作り上げられた「真の闇」は確かに身の内に浸透するかもしれない。しかし浸透という語の前提になっているのは内/外の境界であり、境界を作り上げるのは人である。三橋は境界を作ることなく世界と溶け合いながら、その世界にどうしても屹立してしまう境界があることを知っていた。掲句や〈われ思はざるときも我あり籠枕〉といった句の裏側にあるのは、人々が茫漠とした世界に取り残された時に抱える普遍的な孤独だろう。

記 平野

樹になる  丸田洋渡

 樹になる  丸田洋渡

あちこちに林間学校の名残

変声の植物のような段階

りりかるに林立と落葉を聴く

古い風に惚れ惚れの蜘蛛が揺られる

円了忌空間で人擦れちがう

となれば誤記 夢中夢を増殖する鏡

まぼろしの空の鳩尾ながびく雨

樹の裡に在るああ空鳴りの反射炉

うつらうつら樹になるバグの五月を迎え

倚りかかるいま夏を夢みている樹に

*鳩尾(みぞおち)、裡(うち)、倚りかかる(よ-りかかる)

赤とんぼ大きい葬ありし村 飯島晴子

所収:『儚々』(平成八年、角川書店)

 飯島晴子の中でよりによってこれか、と思われたかもしれない。私も、たいしてこの句に愛情も無ければ、面白いと思っているわけでもない。

『儚々』は著者の第六句集であり、適当な、というと言い方が悪いが、第一句集にあったような、奇を衒いつつそれを大っぴらにしないようなテクニカルで気合の入った句は俄然少なくなっており、いかにも晩年という印象がある。
「赤とんぼ」から始まって、「村」で終わる。圧倒的に既視感のある、童謡的な田舎の風景。「大きい」という言い方も童謡である。
「葬」は「村」と相性がいい。葬儀があって村中の空気が変わっている感覚。風景としては変哲のないものだが、人々の意識の中では確実に変化があって、その重々しさを知らない赤とんぼは変わらずすいすいと飛んでいる。

 いかにも平凡な句であると思う。ただ私も、この句を平凡で下手だと言うために引いたわけではない。実際、この句の次に並んでいるのは有名句のひとつ「蓑虫の蓑あまりにもありあはせ」であり、好きに語る分にはこちらの方が向いていると思う。

 この「赤とんぼ」の句のいい所は、ストレートに平凡なところだと思う。これは俳句の一つの良さであると個人的に思っているところでもある。音楽で、使い古されたコード進行とスカスカの歌詞でもなんだかいい歌に聞こえてしまうことがたまにあるが、あれと一緒の感覚である。
 飯島晴子がどこまで狙ってこんな句を作ったのかは分からないが、自分のオリジナリティを出そうと思えばもっと捻って出来るはずの所を、ここまで薄っぺらく凡庸にすること。狙ってやったとしてもなかなか弱いと私は思うが、ここまでどこにでもある句にすることで、逆に迫力を感じた。こちらとしては、(村と赤とんぼの組合せなんて、行間を読むとかそういうレベルに到る前に判断しきれるような、味のしないガムのようなものだと思うので無視して、)「大きい葬ありし」くらいしか情報として読めるものはない。
 ここでギョッと思わされるのは、「葬」に大きい小さいがあるというところ。地位の高い人が亡くなったという意味なのか、飢饉や病気で大量に人が死んで規模が大きくなったという意味なのか、どちらにしても恐ろしいことだと思った。
 そして「村」で終えられているが、この「葬」はおそらく村中の人に知れたことだろう。またそこが恐ろしいと感じた。もちろんそれは「大きい」葬儀だったからこそ知れ渡ったことだろうが、個人的経験からして、「村」は、別にその葬儀が大きかろうと小さかろうと知れ渡って行くものである。全体の人数が少ないこと、都市部に比べて人同士の関係が密接で、閉鎖的になる部分もあり、そういう噂は一瞬で広まっていく。

 村全体が、村の全員が、その「大きい葬」を感じられていること。その雰囲気が、そのままホラーであると私は感じてしまった。だから、この語順は正解なのだと自分の中で合点がいった。仮にこれを「村に大きい葬ありけり赤とんぼ」とした場合、先に読んだような人間社会とそれに関せず飛ぶ赤とんぼ、の印象が強く残る。これが赤とんぼ始まりであることによって、もちろんその対比は残ったままで、村の入り口、またはその恐怖の入り口感が加わった。ホラー映画の映像を想像したときに、自分自身がこの村に入っていくなら、その入り口で赤とんぼを見ることによってなんだか嫌な気配を村から感じることだろう。

 この句の主体はこの村の人なのか、村の外の人がその村に入っていって知ったことなのかによって、そういうホラーの成分の大小は変わってくるだろう。現代に生きている私からすれば(現代の今でもそういう地域は全然残っているだろうが)そういう「村」って怖いなあと純粋に思う。村で起きたことを、村全体が感知していて、村全体が喜んだり哀しく沈んだりする。これを幸せなことだと思う人もいるだろうが……。

 正直なところ、ここまで平凡な句に目が留まったのは、ただ褒めるだけの鑑賞を書いてもなという気持(敢えて下手なものを取り上げて、そこから敢えての別の読み方を考えてみたいという)が大きかった。が、それで結果良かったと思う。大家でこんなに適当で類想が莫大にある句ってどういうことなんだ、と思えたおかげで、「葬」と「村」の厭な空気感を感じられることが出来た。別に似てもいないが、映画『ミッドサマー』や三津田信三の小説(刀城言耶シリーズ)を思い出した。

 最後に、蛇足だが、この句を「葬儀があって落ち込んでいる村を癒して包み込むかのように赤とんぼは飛んでくれている」という風には私は絶対に読みたくない。人間の都合を勝手にそんな動物(もっと言えば「季語」)に背負わせたくはないからだ。いつもは微かに思っている程度だが、「村」の文字をずっと見ていて、そのことを強く意識することになった。

記:丸田

スーパーカブに乗れば敵なし雲の峰 木田智美

所収:『パーティは明日にして』(書肆書肆侃侃房・二〇二一)

スーパーカブと言うのは本田技研工業が製造販売している世界的ロングセラーのオートバイである。累計で一億台以上のカブが世界を走り回っているらしい(これは世界最多の生産台数および販売台数である)。猫も杓子もカブライダー、詳しくない人向けに言うならば、蕎麦屋や中華料理屋が出前に使うときに乗る出前機を装着したバイク、あるいは郵便配達夫のまたがる赤いバイク、新聞配達夫のバイク、あれがカブである。小回りが利く愛くるしいボディのわりにとにかく丈夫で頑丈で屈強、一九五〇年の発売開始以来様々な人が走り倒していて、高度経済成長の記憶はカブと共にあると言っても過言ではないといってもよいくらい、日本の戦後とともに歩んだバイクである。いったいこの七○年間でカブが蕎麦を何億枚運び、何億杯のラーメンを運んだのだろうか。いったい何億通の手紙を人から人へ手渡し、激動の情勢記す朝刊夕刊を配ったのか。飛行機や車や電車のような乗り物とは比較の出来ないほどカブというのは生活に根を張ったバイクなのである。

さて句に立ち戻れば、木田氏が「スーパーカブに乗れば敵なし」というときのこの幼児的万能感、これは、前述のような歴史に支えられているのである。このときカブに乗っているのは私だけではない。日本戦後史であり、過去の人々の営みそのものなのである。しかも「雲の峰」という季語が単なる高揚した気分だけでなしに、経済成長に胸を膨らましていた時代へのノスタルジア、いわば「三丁目の夕日」的な懐古を一瞬行うかに見せながら、しかしカブの動力が力強く加える推進力に導かれる車体のように、やわらかく風を切って、確かに現在未来において前進してゆくのである。「雲の峰」が遠景である以上、目線は落ちておらず前をしかと捉えて進んでいる。

この今・ここへの疑いの無さ、この判断速度の速い肯定一瞬もメランコリアの侵入する余地のない底抜けの明るさこそ、木田氏を特徴づけるもののように思う。しかしこの口語的素直さはたとえば何かへの世代的な不信によりもたらされたものであって、たとえば同じ口語的な作家でありやや年長の神野紗希氏のものとは明らかに質が異なる。神野氏は近代的主体を前提にしているように思われるけれど、木田氏はもっと表層の近くにいて、深さと手を結ぼうとしない。ぼくはここに(ほぼ)同世代として木田氏に共感を強く感じるのだけれど、たぶん帯文が神野氏であることなどから察するに、あまりここは意識されていないのだと思う。それでも、ある意味においては、実のところ神野氏と木田氏ほど最も遠い位置にいる対照的な作家はいないのではないだろうか、とひそかに思うのだけれど、ジャーナリスティックに過ぎるだろうか。

余談だがぼくにとってのカブは「水曜どうでしょう」で大泉洋が乗り回すものである。

記:柳元

在廊  柳元佑太

 在廊  柳元佑太

若鮎や宙で給油の戦闘機

腰かけてピアノ冷たし鯛の海

囀や金緣眼鏡放光す

キャラメルの銀紙に春惜しみけり

鯉幟渚の砂の冷たさに

在廊の画家のはにかむ金魚かな

はつなつのとほきくぢらをおもふなれ

音もなく鬱にぢり寄る簾かな

ぢつとしてゐる沢蟹と鬱を分つ

国破れても五輪とや冷蔵庫

つぎつぎに蜜柑を貰ふ旅の空 矢野玲奈

所収:『森を離れて』 角川文化振興財団  2015

旅行などと言っていられるご時世ではないが、旅行の句を。
私の大学の同級生が広島の離島に実習に行った際に、実習先の方がその場で蜜柑をくれただけでなく、後日箱いっぱいの蜜柑を郵送してくれたということがあったらしい。「つぎつぎに」蜜柑を貰うなんて素敵な旅も現実にさもありなんという感じである。

「旅の空」という語で句を締めるのがとてもよい。蜜柑は旅人の手元にあるのだが、空という広い景色の語の印象で蜜柑畑まで見えてくるような気がするし、何より気持ちがよい。上5中7はあくまで旅の1エピソードだが、下5が旅の景色やイメージをぐっと広げてくれることで、ただのエピソード披露の出オチに終わらない魅力を醸している。

記:吉川

沖にある窓に凭れて窓化する 筒井祥文

所収:小池正博編『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房、2020)

 窓化。

革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ 塚本邦雄『水葬物語』

 こちらは液化。
 窓にもたれていると、窓になってしまった。これは一体、どこに要因があるのか。もたれかかってきた人を例外なく取り込んでしまうような驚異的な窓なのか。別に窓になっても良いかもしれない、と主体が油断したからなのか。窓になりそうな凭れ方をしてしまったのか。「沖にある窓」だったからそうなったのか。
 なりたくてなったのか、なりたくないのになってしまったのかで、印象は変わってくる。「沖にある」という入り方から、自ら窓の世界に寄り添おうとしている雰囲気(適当に窓を選んでいないというか)があり、窓化してしまってもそこまで嫌な気持ちはしていないのでは、と推測している。

 窓化という語のパワーに惚れてこの句を引いたが、句としてはやや粗いように思っている。先に引いた塚本の歌であれば、「すこしづつ」がかなり効いており、実際に無い光景のはずが、本当にピアノが滴ってぐにゃりと液化していく様子が想像できる。一方窓化は、どういうふうに窓化するのかが全く想像できない。主体は人間だとして、体の一部分が物理的に窓に形状が似ていくことを指しているのか、精神的な面で窓になっていくのか、透明という特質が伝染って透けてくるのか、まるきり窓に変身してしまうのかが、分からない。そこが分からないのもまた良さで、とも思うものの、ここにもう少し具体性があるほうが個人的には好みだった。
「液化してゆく」に対し「窓化する」とある。「する」、とはその経緯がすっかり省略されている。ゆっくり窓になったのか、一瞬にして窓になったのか分からない。

 ここで思うのは、これが一瞬にして窓、だったらつまらないなということである。確かに、その方が窓っぽく、「窓化する」と間を省いた言い方にも合ってくる。ただ、それなら「沖にある」はのんびりし過ぎている。突然変異的に、押入れを開けたら異世界に繋がっていた的なことなら、その窓がどこにあろうとさほど変わらないと思う。「沖」があまりに雰囲気でしかなくなってしまう。
 この「沖にある窓」を選んで、さらに眺めるだけでなくて「凭れ」た、その時点で、かなり思考は「窓化」しているように思われる。かなりゆっくり窓化した、それを窓側でも主体側でも許しあっていた、とそのような空間を想起した方が、「沖にある」が効いてくるのではないか。

 川柳を読んでいて度々思うことだが、(もちろんストーリー性のあるものもあり、長律で展開までつけるものもあるが)それが奇想であり、その出発点であればそれでいい、そして単語選びやその接続が独特であればまた良い、という心で作られた作品がかなり多い気がしている。短いためその後まで言えないからそうなっているというのは十分承知しているが、そういう飛び道具的なものは個人的にそこまで記憶に残らない。どちらかというとこの筒井の句もそういう句になると思われるが、「沖にある」が最後までそう読ませるのをとどまらせてくれた。窓化という単語の発明のみに終わっていない、その窓化が行われた空間と時間、そして「その」窓と主体の関係性を思わせるきっかけが用意されている、優しく飛んだ句であると思う。
 読みようによって駄句と良句に分かれる、その幅が(俳句や短歌よりも)非常に大きいのが(良くも悪くも)川柳だと私は思っている。少なくとも川柳の鑑賞においては、できるだけその句が良くなるように、という気持で読んでいきたいと思っている。

 窓化したあと、主体はいつまで窓であるのか。もし戻るのなら、どうやって戻ったか。窓になる時と逆向きに戻ったのか、違うものを経由して戻ったのか。戻らないなら、主体はどんな気持ちでいるのか。周りから誰かが見ていないか。
 まだ色を塗っていない塗り絵のようで、まだまだ多くの可能性が考えられる。過剰に読み過ぎるのも良くないかもしれないが、この句については、読み過ぎるほど「窓化」がより良くなっていくのだろうと確信めいた感覚を抱いている。

記:丸田

春の水とは濡れてゐるみづのこと 長谷川櫂

所収:『古志』(牧羊社 1985)

「とは」と見得を切った時点で一息に駆け下りなければならない膂力の質が、折笠美秋の〈あはれとは蝶貝二枚重ねけり〉 阿部完市の〈遠方とは馬のすべてでありにけり〉と並べた時、明らかに異なっている。折笠や阿部が「とは」と言う時に試みているのは「あはれ」や「遠方」の背丈を測ることであって、その丈を埋めるようにして以降の語は置かれている。この時、両者は一脈通じる感覚を手がかりにして、実在し得ない抽象語に肉を与えようとするのだが、掲句の作者はそうした肉付けを放棄する。元より質感を持つ春の水を「濡れてゐる」と形容をする事で、予め用意されている言葉の枠を揺らし、観念的な方向に流れ出すその模様を楽しんでいるのだろう。もちろん掲句の水は蛇口を捻る、もしくは池に溜っている水と呼ばれるものに、季感が溶かされているため、すでに肉は剥がれ落ちていると言えるのだが、作者の態度として実在の水に肉薄するのではなく存在を異化するかたちで言葉を費やしていることは注目に値する。そもそも実在の水に肉薄しようにも言葉はスポンジのようにどこまでも吸い上げ/吸い上げられるだろうし、写生はその点で空しく、しかし挑戦として見れば味のある行為だと言える。

掲句が志向するところを先に言ってしまえば、それは生の把握であり、存在の裏側にある観念的ななにかへの接近だろう。なにかに潜らせる言葉の色合いは、それを見出す側において異なっている。ちょうど水という無色透明なものに抹茶を混ぜるか、墨汁を垂らしてみるかの違いと同じで、言葉の色合いがなにかの表出の仕方を決定するのである。掲句について言えばそれは肉感的で艶めかしい色であった。「こと」と収めた時の立ち姿は「けり」と比較して有機的に「濡れてゐる」の肌感覚を読み手に伝える。ただ、こうした嫋やかさは「春の水」が本来持っていたものでもあるため「春の水」からなにかを抽出する意志が結果としてなにかの色合いを決定してしまうという、存在とのせめぎ合いが掲句にも見られる。そして存在となにかのあらゆる局面を切り抜けることによって、生が運動していくのだとしたら、それをまなざす意志とはつまり生を見つめる意志のことを指すのだろう。この意志が眼のうちにある限り、掲句が持つ膂力はなにかへと一足に飛び越える跳躍力になり、自らの生を顕示するように掲句は跳ねあがり、隠されたものの姿を我々に見せてくれるのだ。

記 平野