肺臓、と言っても水浸しの 救済は火炎瓶のような右手の不透明さ 石井僚一

所収:『死ぬほど好きだから死なねーよ』短歌研究社、2017

 詩的な面白さにも色々なタイプがあるが、これは分かりにくいことが面白いタイプ、語をランダムに継いでいくタイプである。

生きているだけで三万五千ポイント!!!!!!!!!笑うと倍!!!!!!!!!!

 勢い。見た目から面白いタイプ。無条件に人を肯定する短歌にも見えるが、果たして「三万五千ポイント」は本当に多いのか。そのポイントで何が得られるのだろうか。

雨の空に破いた遺書をさよならと放てば読めない文字は逝く蝶

 意味が取れやすい上で、「雨の空に破いた」というロマンチックな動きと、「遺書」「さよなら」「逝く蝶」という素敵さを感じやすい単語が上手いバランスとテンポで並ぶ。要素が多く映像で魅せるタイプ。

 この『死ぬほど好きだから死なねーよ』には色んなタイプの歌が並んでいるが、その中でも〈肺臓、と言っても〉の歌はとびきり分かりづらいタイプの歌である。
「水浸し」に対して「火炎瓶」があることの水と火のイメージと、何かぼんやりと救済の話をしようとしているという点だけはなんとなく見えてくる。それ以外はいまいち分からない。「右手の不透明さ」とは救済からして手術のようなことを言おうとしているのか……。救済の対象は水浸しの肺臓なのか、それとも、関係ない大きな概念の話なのか。一字空きにどれくらいのウェイトをおいているのかも分からない。

 個人的にこの歌は、ランダム要素を強く受け取って読みたくなる。肺臓→血→水浸し⇔火炎瓶→(瓶→不透明)投げる→右手。そのランダムな語を繋ぐ接続詞的な役割を「と言っても」や「のような」が担っていると考える。ランダムに(ランダムというか、連想というか)語を繋いでいくタイプの現代詩はままあるが、それと同じ読み方・面白がり方をすればスムーズなのかなあと思う。肺臓という語を出発点に、火炎瓶を経由して不透明さで着地する、その作者の感性を味わう。そしてその連想ゲームへ一つ差し込まれたように見える、中空に浮いた「救済」の存在。全体が異質な歌の中で、より一層異質に見える。

 ただ、これは私の好き勝手な味わい方であり、同歌集の他の歌を見ると、意味が強く、かつ取りやすい歌が多いため、この歌も「と言っても」の誰かへの説明の雰囲気や、「救済」「右手の不透明さ」という語をもっと重く捉えて、意味を考えていったほうが適切であるような気もする。と言っても、あまりに主体が見えてこない歌なので、作者あるいは主体が脳内の単語プールの中からばーっと適当に取りだし、それが偶然深い意味を持っているように見える文になってしまったと考えた方が、この歌を面白く読めるのでは、と思うがどうだろう。
 そもそも、短歌を面白く読むとはどういうことなのだろうかと考えてしまう。より面白く読むのが適切ではない作品もあるだろうか。つまらなく読む方が歌のためになる作品もあるかもしれない。それはまたのちのち考えていきたいと思う。
 話は逸れてしまったが、こういう意味の分かりにくい単語の連想ゲームみたいなランダムチックな歌はとても好みなので(ランダムであるからこその不利(何でもありになってしまうから)もあるが)、増えていってほしいなと勝手に思っている。

記:丸田

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