所収:黒川孤遊編『現代川柳のバイブル─名句一〇〇〇』理想社、2014*
「乗せられ」の反転のさせ方が光る一句。
おそらく、エスカレーターに自分から乗っているにもかかわらず、「エスカレータに」運ばれているようだと考えた、という読みがシンプルだろう。一応、「乗せられ」は誰か他の人に押されてエスカレーターに乗ってしまった、という風に読むこともでき、そう考えると若干テイストが変わってくる。エスカレーターの中でぽつんと自分の発見が浮き上がってくるものと、他者によって無理矢理自分がエスカレーターに巻き込まれてしまうもの。ただ大晦日ほど人が集まっていれば、押されて乗ってしまうことは容易に起きそうだから、後者の読みだと「 乗せられ」があまり効かなくなってくるため、やはりシンプルな読みの方が合いそうだ。
この句が何故か新鮮に思えるのは、エレベーターとの感覚の違いからだと思われる。どちらも自分から乗るものではあるが、エレベーターは連れていかれる感が強い。エスカレーターは乗っている最中も自身は歩くことが出来るし、箱型のエレベーターよりも運んでくれる感は少ない(個人的に)。もしこの句が「エレベーターに 乗せられ」だったら、たいして驚くものは無かった。もしかしたら、エレベーターよりもエスカレーターの方が、私たちはナメてかかっているのかもしれないとも思ったりした。
ちなみに、私の地元は田舎であったため、町にエスカレーターは一基しかなく(農協にあった)、他の町に行ったときも、エスカレーターでさえドキドキしながら乗っていた。だから小学生のころの自分がこの句に出会っていたら、何を当たり前のことを(そりゃ「乗せられ」るものだろうと)、と思ったかもしれない。それを思えば、近くにデパートがあったり電車の駅があったり、そういう都市、都会の生活になじんでいる人の方が、この句に対する驚きは大きいのかもしれない。
蛇足ではあるが、個人的に「大晦日」以外のことも考えたくなる。生活感あふれる「大晦日」もいいが、もしこれが「天国のエスカレータ」であったり、「まひるまのエスカレータ」であったりしたら。それこそ最初に述べた通り、「乗せられ」が発見としての反転ではなく、乗せられることの恐怖に変わっていくことになるが、それはそれで面白そうである(そう書いていて気付いたが、大晦日であることによって、エスカレーターに乗りながら年を越してしまう可能性も匂わせられているような気がする。時をまたぐエスカレーターに乗っているような。大晦日のそんな時間まで動いているエスカレーターがあるかどうかは怪しいが、そういう時間というエスカレーターにも乗せられているような感覚も、なんとなくこの句を良い雰囲気にしているように思う)。
webサイト「週刊俳句」にて、樋口由紀子さんがこの句から「考えてみれば、人生は『させられ』の連続である」と述べている(2011年12月30日)。自分は自分で生きているかと思ったら、実は生きさせられているのかもしれない。そういう当たり前と思っていることが逆転するときの、寒気がするような不安と気持ちよさが、この句の一字空きに詰まっているのかもしれない。
*初出は、筆者は確認できていないので、この句が収録されているアンソロジーを置いた。上述した樋口さんの確認によると 「天馬」2号(河野春三編集発行 1957年)収録とのこと。
記:丸田