わあわあと/みあげている/ありあまる/あおぞらのあおが/おもしろい 早坂類

所収:『早坂類自選歌集』(RANGAI文庫 2019)

『ヘヴンリー・ブルー』中の一首。本来は縦書きだが、近づけて記せば、

  わあわあと
 みあげている
  ありあまる
   あおぞらのあおが
    おもしろい

となっている。(横書きにすると鳥みたいに見える)

 私は浅学のため早坂類について全くといっていいほど知らず、ニューウェーブの世代であることと、『風の吹く日にベランダにいる』の〈かたむいているような気がする国道をしんしんとひとりひとりで歩く〉、〈海からの風みたいだなごうごうと通過電車に吹かれてみんな〉、〈カーテンのすきまから射す光線を手紙かとおもって拾おうとした〉など有名な歌を記憶しているだけだった。そのため、あとがきに書かれているように、口語に徹するようになった経緯や、青木景子名義で詩をやっていたり、吉増剛造選でユリイカの新人になっていたりを知らなかった。
 そのため、この『ヘヴンリー・ブルー』の歌が私の中の早坂類のイメージと全く違っていて、こんなに柔軟で浮遊感のある詩的な作品が多いとはと驚いた。

『現代短歌のニューウェーブとは何か?』(書肆侃侃房、2020)を確認すると、ニューウェーブの揺りかごとしてのインターネットを回顧する内容の文章の中で、歌葉に感化されて応援の意味も込め写真歌集として『ヘヴンリー・ブルー』を出したとある。写真家・入交佐妃と費用を半々で出版したとのこと。
 実際にその歌集が手許にあるわけではないため何とも言えないが、そういう時代の感覚を考えると、納得がいく気もする。

『ヘヴンリー・ブルー』の中では(自選されたものであるので全体は見れていないが)、同じ言葉がバグを起こしたかのように繰り返されるものがいくつかある。

  なにもないすることがなにもない何もないです 前略かしこ
  黒色の落書きは叫ぶ わたしを消してわたしを消してわたしを消して
  こなごなの夏の終りのはじまりの、ひかり、ひかり、ひかり、ひかり、ひかり

 リフレインというよりは、バグったみたいに見える。執拗なほどの繰り返しに詩的な怖さがある。こういうところにインターネットというものを考えると読みやすくなるのかもしれないと思う。
 また、多行作品がいくつか見られる。

  まっすぐにまっすぐにゆけ
            この夏の終りの道を
              たったひとつの

 これはおそらく小野茂樹の〈あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ〉(『羊雲離散』1968)を軽く踏んでいるだろう。ストレートに読めば、歌謡曲のような応援メッセージになる。最後が倒置されて、多行の形を取ることで、「たったひとつの」が、「夏の」だけで引っ張ってこられたかのような感触を産む。夏、といえばあの歌ですよね、みたいな感覚で。よく考えれば、「まっすぐにゆけ」も、表情をこちらに見せることもしないで、というふうに読んでいくこともできるが、言ってみれば雑な、即座に思いだしたかのような「たったひとつの」が面白い。

  疾駆する。
    ブレる。
  無尽蔵の
  背景になる。


          諸々了解。
          諸々OK。

 この一首はページをまるまる使って書かれている。個人的に早坂類の短歌の中で一番好きな歌である。おそらく、何も知らないままで、この歌に出逢っていたらぽかんとしてしまうところだったと思うが、詩を長いことやっている(小説も書かれているが)ことを思うと、スムーズに理解できる。こういう、やわらかい型の使い方、言葉の操り方が出来る人なんだと知れてよかった。
 写真歌集ということに目配せされた一首なのだろう。「無尽蔵の/背景になる。」はパワーがある。先ほどのインターネットのことも思わされる。「諸々了解。/諸々OK。」も、オチとして不思議で、勝手に話が進んで、勝手に合点がいっている主体という妙な置いてけぼり感(にしては不快ではない)がある。先ほど引いた「前略かしこ」もこれに似ている。

 ここで最初に挙げた〈わあわあと〉の話に戻る。こういう、空が「ある」ことの面白さというか、空を見つめ直して感嘆するという作品は俳句・川柳・短歌・詩に山ほどあるだろうし、この歌もそこから大きく抜きん出ているかと言われればそれほどでもない作品だとは思う。ただ、「わあわあと」の入り方の秀逸さと、「みあげている/ありあまる」の展開の仕方、「あおぞらのあおが/おもしろい」という素直な言い方が、ちょうどよく相まって、心地いい巧い作品になっていることは間違いないと思う。

 川田絢音の詩の一節、〈青空に 近い広場で/好きな人を/ひとりずつ 広場に立たせるように思い浮かべて/酢みたいなものが/こみあげた/ここで みんなに 犯されたい〉(「グエル公園」より一部、『ピサ通り』1976)を思いだす。青空には何か、素直な感情を吐露させるような力があるのかもしれない。
 早坂類の短歌を、詩を強めに思いながら読むと新しい発見が幾つもある。また折に触れて歌を鑑賞できればと思う。

記:丸田

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