畑打や鍬の光のたとへなく 小杉余子

所収:『余子句選』(岩岡書店 1936)

愉楽というか、恍惚とした世界がある。掲句を鑑賞しようとすると、大げさな表現をとるより他なく困る。

土を掘り起こす行為は、作物に命を宿す始まりとしてある。生きるために土を耕し、そして作物から命を頂戴するみたいな話である。自然と一体化した人間という言葉も浮んでくる。

土を耕す道具である鍬が、たとえようもなく光っているという。たとえようもない美しさと景を片付けるのは簡単で、しばしば決まり文句として使われる。しかし真実たとえる術ない美しさに出会ったならば、深く感じ入るより他はなさそうだ。表現しようと試みれば言葉が追いつかず、かえってその美を損なう結果になる。

光の度合いが人知を超越していることを、たとへなくは端的に表すが、陳腐に陥るおそれもある表現である。それが上手く活きている。

光という生の充溢、それを捉えられるだけの心境の深まりを思わせる。あらゆる事象の真実を直感する、といえばさらに胡散臭くなるが、自らの眼を欺かず、純粋な自然とのつき合い方である。またそうしたつき合い方でないと、たとえる術なき美とは出会えないのかもしれない。近年、こうした方面での佳句は少なくなったのではないだろうか。

                                  記 平野

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です