どんな三角形にも黒猫が似合う 罪あるかぎり 罪あるかぎり 我妻俊樹

所収: 『足の踏み場、象の墓場』(「率10号」誌上歌集 2016)

 三角形と黒猫の語の衝突と、「罪あるかぎり」の繰り返しがおしゃれで強烈。三角形に黒猫が本当に似合うのか? と考えるところから読者は出発する。

 三角形と黒猫と罪。私の浅い知識を辿ると、直ぐに思いつくのは推理小説の、森博嗣『黒猫の三角』。瀬在丸紅子のVシリーズの一作目にあたる。私の中でこの三つの要素は、どうしても推理小説にむずびつく。ミステリ最初期の作品である、ポー『黒猫』も思いだされる。これによって今でも黒猫が登場する推理小説があるが(個人的に一番強烈な黒猫は、麻耶雄嵩『夏と冬の奏鳴曲』)、そういう空気感を「黒猫が似合う」で捉えていると感じた。
 そこで見ていきたいのが「どんな三角形にも」の部分。(三角形といったら黒猫だ、というような親和性の高さやそういう習性があるのであればそれで解決するが)私の中には三角形と黒猫が直通で繋がるものは推理小説しかなく、下の句の展開からもそれが誘導されているようにも思う。そのとき、「推理小説には黒猫が似合う」(またはその逆)はスムーズに通る。そして、海野十三「三角形の恐怖」、内田康夫『不等辺三角形』のようなものを思うと、「推理小説には三角形が似合う」もまあ通るかと思う(綾辻行人『十角館の殺人』のような多角形の雰囲気も加味して)。その中で「三角形には黒猫が似合う」だけは、通らない。森の『黒猫の三角』はあるにしても、「三角形には黒猫が似合う」の一文だけであれば、不明度が高い。

「どんな三角形にも黒猫が似合う」。「黒猫には三角形が似合う」、ならまだ個人の感覚度合いが強いが、「三角形にも」となると倒錯している。それに、「どんな黒猫にも」なら黒猫の多様さが想像できるような気もするが、「どんな三角形にも」と言われると不思議な感覚になる。三角形、と言われて思い描くのは正三角形のようなシンプルなもの(概念というか、イデアというか)で、そこに「どんな~にも」が付くと、頭の中の三角形がぐにゃぐにゃと変形してくる。それに黒猫が似合うと言われれば、混乱が極まる。

「罪あるかぎり」。この一言によって、絶妙なバランスで上の句が存在できたのだと思う。推理小説という言葉を出さずにその風味を醸し出すことで、透明になった「推理小説」が、「三角形」と「黒猫」を繋ぎ、「どんな三角形にも黒猫が似合う」が成り立つことになる。言葉同士の衝突の結果を、既に分かり切っているかのような配置で、ものすごく几帳面で、親切で、でも少しあくどいような主体(引いては作者)が見えてくる。

 ただ、二回目の「罪あるかぎり」は、纏っている空気が違う気がする。念押しのように、本当に「どんな三角形にも黒猫が似合う」のだ! と言いたいのではなくて、もっと不穏なもの……。探偵が、殺人事件が起きた村に入って最初の村人に言われるときの感じ……。もしくは悲痛な事件の解決を迎え、主人公が悲嘆にくれて呟いているような……。

 言葉のバランスや表現にこだわられたスタイリッシュな一首のようにも思うが、同時に、言わざるを得なかった辛さのような余韻もある。平凡な日常のようにも思うし、大きな事件が終わった後の独白のようにも思う。安定しながらも凄く不安定な、魅力的な一首である。

記:丸田

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