日々明るくて燕に子を賜ふ 飯田龍太

所収:『忘音』(牧羊社 1968)

 コロナ禍の当初より、とどのつまりこういう事なんだなと、ひとりで納得していた。

 まず注意しておきたいことがある。掲句の読みとして「毎日が明るいので燕が子を身ごもった」というように、接続助詞「て」を原因・理由と取り、明るさと妊娠を結びつけることが出来る。しかし、それはいかにもロマンチック・ラブ・イデオロギーであり、一句としての色彩を欠くように、私は思う。

 日々が明るいこと。燕が身ごもったこと。この二つの事象はまったく別の〈自然〉の事実として存在し、そこに関連を見出すことは、人の意志の操作である。その意志の操作を掲句は寄せつけない。

 日々が明るい、結構なことである。明るいとは感度であって、幸福につながる。しかし幸福とはせず、外が明るいと事実を差し出す。明るさは所与のところであり、心の状態で多少の差はあれども、受動的に感じるより他はない。

 そして「賜ふ」と、敬意が表されている。子は天からの授かりものだから、神様ありがとう。などの世にあふれた考え方ではなく、もっと懐はふかくあるのではないだろうか。畏敬と既成の熟語を利用してしまえばそれまで、読みから大切な部分を見失っている気もするが、要するに〈文化〉より以前の〈自然〉に対しておののく、これは受身な態度になるのも仕方がない。

 他でもなく、この二つの事実を並べたところに、龍太の操作は当然あるだろう。また、ここまで述べたような効果を狙っていた様子も感じる。ただしその操作は決して、因果関係で繋げさせるためではなく、二つの事実に通底する〈自然〉の大きさを、読み手に意識させるためである。そしてこの鑑賞もまた、私の意識の操作である点で野暮に違いない。一句は一句として受け止めるべきである。

記︰平野

                                    

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