雪の森薄刃のごとき日が匂ふ 福永耕二

所収:『踏歌』(東京美術 1980)

雪の森という表現はグリムの森か、くまさんの森か、どことなく童話的な雰囲気を持っている。雪も、森も、人次第である。雪深い地域を思い浮べる。それほど積雪のない地域を思い浮べる。鬱蒼とした森を思い浮べる。散策する路のある森を思い浮べる。雪の森があまりにも抽象的であるため、リアリスティックでない童話を想像するのだろうか。

この上五の童話らしい舞台設定が「薄刃のごとき日」という絵画的な光景をもっともらしく見せる。鋭い日射しだろう。いかにも冴えている。

ところが最後の「匂ふ」によって、雪の森は童話の世界から離れる。確かにいま、森のなかに存在しているのだという感覚を読み手に導く。木に囲まれた空間が広がり、繊細な感覚で日射しを捉えている。もしも「見ゆる」だとすると、森の空間は立ち上がらず、平面的で臨場感に欠ける。また、森のなかにいるとしても日射しを渇望しているようで、さらに薄刃と言われていることから精神状態が不安定に思える。一語で印象が大きく変わる。

記 平野

春の獅子座脚あげ歩むこの夜すぎ きみこそはとはの歩行者 山中智恵子

所収:『紡錘』不動工房 1963年(確認は「山中智恵子全歌集」による)

星座を造るのは光の明滅を繋ぐ想像力です。とはいえこの想像力は、人間の溢れんばかりの創作意欲の発露ではなくて、未整理な星空の混沌への恐れと見ることが出来るのではないでしょうか。物語的な理解により安心したいが為に、古今東西の人間は光飛び交う星空の混沌に線分を引いた。既知の無数の物語を天球に貼りつけたのは、降り注ぐ無意味な星の光を怖がった人間の臆病さであるように思います。

黄道十二星座の一つ、日本では春の代表的な星座で、天体に疎くとも馴染み深い獅子座も、そのような星座の一つです。この獅子は、ネメアの谷でヘラクレスに棍棒で叩き殺された獣であるという意味付けが為されています。星の光を繋いだ線が造りなす獅子は、右を向き前脚を上げた状態で天に吊るされている。

山中智恵子は掲歌の中で、獅子座の獅子に「君」と呼びかけ「とはの歩行者」と言い替えていますが(「君」を任意の第三者と考えることも出来るけれども、まず想定されるイメージとして妥当なのは「君」=「獅子」だと思います)、確かに獅子座の獅子は歩行せんとしているように見えます。

山中は前脚を上げた獅子の静的なイメージから「歩行」という動的なイメージを束の間取り出して見せます。が、同時に「とはの(永遠、永久の)」という絶対的な静のイメージを冠することで、獅子を脱目的な、果てない歩行の牢獄に閉じ込めもします。山中によって、光の獅子は星辰瞬く夜空を永遠に闊歩することを義務付けられる。「この夜すぎ」に春の晴れた夜空を見上げれば、われわれはいつでもこの獅子を見ることが出来ます。

とはいえ、そのような見立ては取り立てて新しいわけではない。例えば絵画などの静的なものに永遠の動作を見出すことは、詩的な把握として例が無いわけではありません。しかしながらこの歌が優れていると筆者に思われるのは、下の句「きみこそはとはの歩行者」が、7音・7音から2音少ない5音・7音の音数により、組み立てられたことではないでしょうか。「とはの歩行者」にどこか寂しげな、欠落した印象が付与される。音を足すのではなく引くことで、韻律の面で意味の強度を上げるのです。

この歌は、永遠に目的地に辿り着かずに歩き続ける獅子を言祝ぐに相応わしいように思えてなりません。

記:柳元

調律師の感性を書きつけたメモを雪原に置いてきてしまったよ 服部真里子

所収:『行け広野へと』第三版、本阿弥書店、2018

 ジャンルは何にせよ、創作をしていると色々な他の情報がそのネタのように見えてくる。お笑い番組を見ていても、漫才やコントの構成、展開、話術、テンポなどなど、自分の創作に活かせるんじゃないか? という目で見てしまう。創作をするということは、世界全般に対して、新しいアンテナを張るようなものであると日々思う。

「調律師の感性」なんか、メモせずにはいられないように感じられる。詩的なものの電波を受信するアンテナがあれば、真っ先に拾うものだろうと思う。ピアノの弦と鍵盤、振動、音、調整……。天性の音感が無いとやってられなさそうなイメージがある。慎重で繊細で、感覚を研ぎ澄ませてやる作業。
 詩にするには格好の材料だろう。そしてそれをうきうきとメモした主体は、まさかの「雪原」というこれまた詩的な土地に置き忘れてしまう。

 このときの、「置いてきてしまったよ」という言い方はわざとだろうと思うが、若干の軽さがある。置いてきてしまったことを後悔するのではなくて、むしろ自分から望んで置いてきたくらいに、雪原に置き忘れたことをなんだか詩的になってしまったエピソードとして面白がっている感がある。
「置いて」という動詞の選び方も、忘れたとか失くしたよりも、雪の上にそっとひらひらと置いたようなイメージが喚起される。
 調律師の「感性」という言い方にもやや軽さがある。これは個人的に私だけが感じている印象かもしれないが、ここが作業過程であったり、洗練された技術であったりしたらすんなり納得する(メモも子細に記せる)が、「感性」というのは、なんとなく雑な感じがする。なんだかステキと思ってメモになんとなく書く。こちらが詩にしやすいものを勝手に引き抜いて勝手に作品にしている印象は拭えない。感性をなんとなくメモしてきたから、なんとなく雪原に置いてきてしまえるし、「置いてきてしまったよ」と言えるのだろう、と思う。例えばこれが「詩人の感性」であっても同じであって、もちろん感性が仕事の大事な部分にはなっているものの、その感性を最大限活かすための技術や努力の部分を外部の人はメモするんじゃないだろうか、と思ってしまう。

 そういう受けとり方をしたときに、この歌はものすごくナメている歌だと感じられる。「調律師」という素敵っぽい職業、感性をメモするという感性豊かそうな行為、「雪原」という詩語感たっぷりの舞台設定、「置いてきてしまったよ」というとぼけ方。

 一方で、これが本当に奇跡的に成り立った歌だとして読むことも出来る。
 本当に調律師の仕事について触れて、その感性がいかに魅力的で重要かを知って尊敬して茫然とメモしておいたものの、それが帰るときになって落としてきたと気づく、通ってきた道は雪原であったから、雪原に落ちたんだろう……。
 そんなことがあるか? と思うものの、もし本当にすごい確率でそんなことが起きたのだとしたら、「置いてきてしまったよ」と言ってしまいたくなる気持ちも分かる。ただ忘れただけだったのに、その奇蹟に主体自身も驚いて、「置いてきてしまったよ」と乗っかりたくなる感覚。

 私としてはこの二つの読みはちょうど半々くらいで存在している。韻律が定型に添っていないことも、この読みによって効果が分かれて、前者の方だと調律師の感性というセンスある材料に合わせてテクニカルな韻律にしたと取れ、後者の方だと本当に奇蹟だったから動揺して起こったことを矢継ぎ早に話している、と取ることが出来る。
 美しさを手ごろに詠もうとするとその手つきが透けて見えるのかもしれないとも思わされ、一方で本当の美しさというものは嘘っぽく聞こえるものなのかもしれないとも思わされる。非常に危ういところで揺れ続けているこの歌の像に、気になり続けている。

 主体はきっと、メモを置いてきてしまったことによって、「置いてきてしまった」という記憶が加算されて、より色濃く覚えていることになるだろう。私は、そういう意味で、服部真里子のこの歌を置いていこうと思っている。

記:丸田

公園の冬温かし明日世界は  上田信治

所収:『リボン』 邑書林 2017

公園を歩いていると思い出した1句。

「公園の冬温かし」はなんてことない平和な日常を感じさせるフレーズである。そこから「明日世界は」と大きく展開されていくのがこの句の妙。

「温かし」(a ta ta ka si)「明日」(a si ta)「世界は」(se ka i ha)というように見ると、a音の連なりと、a音+i音のセットの繰り返しが生むリズムが中7と下7を繋げている。
上5中7の醸す平和的なムードはリズムに乗って下7まで続いていく。そうして、「明日」「世界」という抽象的かつ重いワードも、漠然としているからこその明るさに印象を変える。

口に出して読み上げる度に嬉しくなる1句。

記:吉川

緯をぬきとれば神の序列みえ異教徒のやうに明るい裁縫 山中智恵子

所収:『空間格子』日本歌人社 1957年

緯は「よこいと」とルビ。

織物を司るのは日本では天羽槌雄神である。彼女は天照大神を天の岩戸から誘い出すために織物をした神である。また希臘神話で織物を司るのはオリュンポス十二神のアテナ。アテナは人間アラクネーと織物勝負が伝えられている。織物が多神教的なイメージと結びつくのはこの例示だけでもある程度了解できるだろう。多神教においては女神が織物を司るのだ。一神教では神の中で分業が行われないから、多神教世界がここでは思われていると見るべきだろう。

そしてそのような神話的イメージと昵懇な織物から緯糸を抜き取れば、必然として経糸が残る。そこに束の間山中智恵子が視るのは「神の序列」。一見唐突に思えるが、縦に走る糸が暗喩として機能すれば上下関係のベクトルが思い起こされ、そこから神々の位階のようなものが想起されるのは困難でないのでないか。神話のイメージ群と瞬間の動作に類比を見出す山中智恵子の詩的筋力が「緯をぬきとれば神の序列みえ」という幻視を可能にしているのである。

普通感知することのない神の序列を見ることにより、どこか自分の信仰が揺らぐような感覚を覚えるか。あるいはそこまで行かなくとも多神教的な世界を垣間視ることにより、一神教的な世界の枠組な異化させしむる知覚が準備される。

この下準備により、下の句の具象が輝き出す。多神教的な神の序列の幻視体験が目の前の具体の織物に落とし込まれるのだ。織物の色彩が「異教徒のやうに明るい」のだと比喩が用いられ、織物にどこか開放的で健康的なエロティシズムが思われてくる。自分が信じる一神教の堅苦しい規律の息苦しさの外側にある、禁じられた快楽。偶像崇拝。不道徳。淫乱。そのような明るさが織物を彩る。束の間異教徒の仲間入りを空想しながら行う裁縫の快楽にうち浸る。

『空間格子』は山中智恵子の第1歌集である。1947年から1956年までの作品280首を採録している。序文は師である前川佐美雄。『空間格子』は数学用語で結晶体の意味。

記:柳元

襖しめて空蟬を吹きくらすかな 飯島晴子

『朱田』 永田書房 1976

「くらす」という表現なのだから、襖を閉め切って部屋に閉じこもり、空蝉を吹く、ということが来る日も来る日も繰り返されているのだろう。そうした説話的イメージだからか、平安時代の女性貴族がこの句の主体のような気もしてくる。(私は詳しくないが、「源氏物語」に空蝉という女性が登場するからかもしれない)

部屋と空蝉の中の空気それぞれは、襖と空蝉の殻という脆いものによって守られている。襖と空蝉の2重の脆さの中にでさえ閉じこもってしまう主体の心の様は、説話の主題として非常に魅力的に映る。

記:吉川

ちみつななみだ、ちみつなこころをわすれずに。永遠に準備中の砂浜 藪内亮輔

所収:『海蛇と珊瑚』KADOKAWA、2018

 緻密さ。緻密さとは、緻密であればあるほど、気づきにくいものなのかもしれない。

 準備中の砂浜は、のちに来る人のために整備されてあわただしく可哀相な印象があるが、「永遠に準備中の砂浜」となると、人も入ってこない、本来の砂浜に戻っていくような感覚がある。

 心も、砂浜と一緒で、人々や色々な感情が訪れにやって来る観光地であったりする。
 藪内亮輔の短歌には格言や箴言のようなものが多く、読むたびに心にしみる短歌が変わっていたりする。心の緻密さを忘れずにいたい。

記:丸田

見えてゐて京都が遠し絵双六 西村麒麟

所収:『鴨』(文學の森 2017)

江戸の身分秩序が崩壊した明治期、人々は中央に夢を見た。誰でも成功をおさめるチャンスがあり、誰でも出世できる。青雲之志を抱き、青年たちは中央へ向かう。その姿は双六の駒に似て、前途は不明ながらも道は拓けている。青年たちは一心不乱に駆けのぼる。

かつての青年は歳をとった。来し方に目を向け、その高さに目を瞠る。高さは自らの今いる地位に相当し、道のりは過ごしてきた年月に等しい。なんとまあ、遠いところまで来たものだ。青年はそう呟く。

あがりの位置に駒はいる。駒は京都から出発し、長い道のりを経てゴールした。このとき作者は垂直的なまなざしを得ている。掲句は多くその逆、つまり駒のおもては京都に向かい、作者のまなざしは平面的な広がりを獲得している、と鑑賞されてきた。しかし双六という遊具において、スタートからゴールまでが一直線に並んでいるとは限らない。スタートから裾野をぐるぐる、頂上のゴールまでらせん状に回って辿りつくものもある。駒は中心へ、そして高いところへと向かう。駒の動きは垂直的になり、ゴール地点からスタート地点は見下ろせる。それは立身出世の歩みと一致する。

双六の出発地点は京都になる。朝廷がおかれた京都から東京へ、時代は流れていった。ふり返って京都を見下ろす。国家の立身出世という夢、果たしてそのふり返るうなじは美しいだろうか、高さに憧れて走ってきた現在は、過去から仰がれるものだろうか。そんな問いが浮かんでくる。

記 平野

結婚が許されないなら前ぶれなしに心中湾にセスナをつっこんで二人で死ぬつもりです 松平修文

所収:『月光』1988年春号

心中というとやはり鬱々と暗いイメージが付き纏う。愛しているパートナーとの未来が、金銭的行き詰りや家柄の不釣合い等、ある現実的な事情で完全に閉ざされるがために、そのような未来に二人の死をもって否を突きつけるのが心中であろう。彼らは死後ロマンティズムの世界に棲むのである。とはいえ現実世界における二人の生に終止符が打たれる以上、リアリスティックな冷笑主義に与して言えばこれは愚行でしかないわけだが、身分制度や家柄などがまだ重要な意味を持っていた近世近代においては心中は、恋の成就を許さない社会に対する有力な抗議の手段であった。死体の発見者は陰鬱な気持ちにならざるを得なかっただろうし、憐れな二人の行く末に心を寄せもしただろう。心中は普通、悲劇的な色彩と文学的な情緒を帯びるはずである。能や戯作も好んで心中を材とした。

しかし修文の心中はひと味違う。湾にセスナをつっこんで二人で死ぬつもりなのである。前触れもなく。なんと豪勢で華やかな事だろう。二人の最後の愛の言葉はプロペラの音にかき消される。○○だよ。え。◇◇だよ。何て言っているの、聞こえない!次の瞬間盛大にあがる水柱。

セスナの運転免許を持っているくらいだから社会的な身分としてはそう悪くもないだろう。否、だからこその心中なのかもしれないが。当人たちは至って真面目で実直に決意を語るのだが、どこかユーモラスである。

長律にも触れねばなるまい。松平修文には稀に長律を用いた散文的な短歌がある。とはいえ修文は基本的に定型にて歌を為すし、掲歌もそういう歌群の中にひっそりと交っているためにあまり違和感がない。読んでいるうちに妙に長さを感じ、指折り音数を数えてみると破調に気付くという感じである。

目のくらむやうな紫やももいろの野や森をとほり病院へ連れられてゆく/松平修文

同じ連作にこんな破調もある。サイケデリックな病院道中である。治るものも治らなさそうである。

記:柳元

ある朝の大きな街に雪ふれる 高屋窓秋

所収:『白い夏野』(龍星閣 1936)

はじめて読んだ句集は『白い夏野』で大学図書館から拝借した。いま目の前に俳句を読み始めようとする人がいて、『白い夏野』を手にしていたとしよう。きっとその人に僕は歩み寄って、やめておいた方が無難だよ、と声をかける。しかし、なぜなのか。はじめて読んだときの感触として、特に難しいことは書かれていなかった。それどころか表題の「頭の中で白い夏野となつている」は分かりやすいほどで、真っ白な眩暈の感覚に魅了されていた。

俳句史における『白い夏野』の位置を踏まえてから、この句集は読んだ方が良い。だから「難しい」と初心者に向けて言う。それは俳句に脳をおかされている人の了見で、まっさらな初心者からしてみれば心底どうでも良い。事実、『白い夏野』は初心者であるところの僕を魅了した。それどころか、かつての自分は今よりも強烈な清新さを一句一句から感じ取っていたように思う。

掲句はちょうど三年前の僕が『白い夏野』から十三句を抜き出した、そのうちの一句である。単純明快で、解釈をあまり要しないだろう。単調につづく日常のある朝、カーテンを開いてみたら一面の雪景色だった。眼を圧するような白に意識は奪われ、そのまま視点がつり上がっていく。圧倒するばかりの雪に心をうたれる視点人物とその人を中心に広がっていく街という空間、人にも建物にも雪は等しく降る。すべてが雪に埋もれている。

広々とした世界にかつての自分は惹かれた。既存の俳句に飽き足らず、逸脱しようと試みた窓秋だからこそ、初心者の自分と波長が合ったのかもしれない。本当に、真剣に、初心者に勧めるべき俳句とは高屋窓秋に違いない、と皿洗いをしながら思った。

記:平野