真白き箱折紙の蟬を入れる箱 生駒大祐

所収:『水界園丁』(港の人、2019年6月)p.112

話は遠回りになるが去年、吉田秋生作の漫画『BANANA FISH』をふと思い立って一気に読んだ。NYのストリートギャングのボスの青年アッシュと、日本からやってきた普通の青年英二が「バナナ・フィッシュ」という謎のワードを追う中で大きな陰謀に巻き込まれてゆく、といったあらすじ(話の内容はこの句とは全く関係ないがよい作品なので未読の方は是非)。

ラストページは天井視点からの日光がいきわたる室内の風景。
細い線に縁どられて浮かび上がる「白」が印象的なこのページに「真白き」掲句を思い出した。

掲句には作為性(貶しているわけではない)が多分に含まれている。
「箱」のリフレイン、単なる「白」ではなく「真白」、そして生きている「蟬」ではなく「折紙の蟬」そして、その「折紙の蟬」を箱に入れる、という意味は理解はできるが背景は見えにくいシーン。
上記が醸す虚構の匂いは、折紙の蟬を白い箱に入れるという行為に見え隠れする「祈り」なのか「哀悼」なのかそういった類の感情を生々しく描くことはしない。逆にその感情を捉えにくく、茫漠とさせ大きな「余白」を作る。
その作為された「余白」にこそ私はより、「祈り」や「哀悼」を見出してしまう。

「真白き箱」」の中の暗闇、その中の「折紙の蟬」、箱に入れるときに感じる「折紙の蟬」の薄さ・軽さ、折紙を折るという行為に加えてそれを箱にしまうという丁重さ……。

『BANANA FISH』のラストシーンも、掲句も、作為された余白の曖昧な雄弁さを私は好んでいるのだなと気づかされる。

『水界園丁』は装丁も非常に素敵な句集で、滲むような文字のフォント、ページの手触りや余白がこの句をより引き立てている。是非句集を手に取って読んでほしい。

記:吉川



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です