この批評は2024年12月28日(土)に開催された第128回現代俳句協会青年部勉強会「名付けから始めよう 平成・令和俳句史」の柳元作成レジュメをほぼそのまま掲載したものです。勉強会では私の他に赤野四羽さん、岩田奎さんがパネリストとして参加し、それぞれ基調発表&クロストークをしています。俳句史の新たな議論の種を作りだせていると幸いです。アーカイブが視聴可能ですので、ぜひお申しこみください!
1.新たな共同体〈ゆるやかなわたしたち〉の勃興
元号が令和となってから結成された俳句共同体を思いつくままに挙げてみる。「楽園」(堀田季何主宰、2020年-)、「麒麟」(西村麒麟主宰、2022年-)、そして「noi」(神野紗希/野口る理代表、2024年-)。もう少し遡れば「蒼海」(堀本祐樹主宰、2018年-)などもある。
時代的な分析を試みれば、東日本大震災を契機とした「繋がり」「絆」の称揚や、コロナ禍を背景とした非オンラインでのコミュニケーションの見直しは「人間はリアルな共同体無しでは生きられない」という感覚を醸成した。とはいえ我々は、家父長的な共同体に所属し、個を集団に奉仕させ、個をすり減らしたいわけではない。しかしインターネットでの緩やかなつながりよりはもう少ししっかりと繋がりたい。
このような共同体回帰のニーズの具体的な現れが、前述の俳句共同体なのではないか。先に断っておくと私はこのうちどの団体にも関わっておらず参与観察できているわけではない。これから言表しようとしていることは、以上の団体に当てはまらない部分の方がむしろ多いと思うから、あくまでもたたき台として使われたし。
ここでこの現代的な共同体のありようを〈ゆるやかなわたしたち〉と名指してみたい。ゆるやかに〈わたし〉を包摂する〈わたしたち〉。フラットながらもどこかナイーブで、安易で、欺瞞めいていて、それでいてほっとするような〈ゆるやかなわたしたち〉。運動体としての連帯を可能にしながら、ときにわたしを疎外して困惑させる〈ゆるやかなわたしたち〉。私の周りを霧のように取り囲んでいるものはこの〈ゆるやかなわたしたち〉的な共同体であるということには、少なくとも私には身体的実感がともなうように思う。今、この時代に立ち現れている〈ゆるやかなわたしたち〉という共同体のありようを言表してみたい。またこの共同体性は俳句にどのような影響を及ぼしているのか。
2.〈ゆるやかなわたしたち〉の特徴
代表的な俳句共同体の類型を図にした。以下、この図をもとに説明したい。
伝統的結社 | 前衛的文学共同体 | 〈ゆるやかなわたしたち〉 | |
中心 | 家父長 | カリスマ | わたし(たち) |
目的 | (芸事としての)俳句の上達 | (文学としての)表現可能性の追及 | わたしの生の充実 |
イデオロギー | 有 | 有 | 無(「隠れたカリキュラム」として存在) |
時間感覚 | 円環的 | 直線的(進歩主義) | 今・ここ |
読みのモード | 私小説的 | テクスト論的(「作者の死」) | 制作における実存の重視(「作者の死」の死) |
他者の句に対して | 選 | 批評 | 言語化 |
3-1.中心
伝統的結社は家父長が中心となって形作られ、ツリー状の構造を持つ。また前衛的文学共同体はカリスマが中心となって形作られ、相互承認が原理であることが多いが、実際はカリスマからの承認によるところも多く主宰や代表が中心となる点においては、伝統的結社とさほど構造が変わらないとみてよい。対して〈ゆるやかなわたしたち〉はその中心は〈わたし(たち)〉である。むろん主宰や代表が存在しており、選があることも多いからして、いっけん主宰や代表が中心の権力構造のように見えるが、〈ゆるやかなわたしたち〉において主宰や代表はあくまでも〈わたし〉のために存在している。
投句欄には選句がありますが、欄の選者は「先生」「師」としてではなく、一冊の雑誌を世に出す立場として、編集権限で句を選びます。 それぞれの「誌友」を「作家」として照らし出す心で選句にあたります。作品発表の場として、方向性の指針を得る羅針盤として、投句欄を生かしてもらえたら幸いです。(「noi」X公式アカウントより)
共同体は〈わたし〉に対しての絶対性をもたない。あくまでも共同体は「作品発表の場」であり「方向性の指針を得る羅針盤」でしかない。ここにおいてかつてのように、共同体のために〈わたし〉が存在するのではなく、〈わたし〉のために共同体が存在すると言ってよい。しかしこれは自己中心的というわけでなく、むしろ〈わたし〉が複数集まることにより立ち上がる倫理というものが濃厚にある。
3-2.目的
〈わたし〉が中心となるとおのずから目的も変わってこよう。伝統的結社は「芸事としての俳句の上達」を目的とし、前衛的文学共同体が「文学としての表現可能性の追求」をすることに対して、〈ゆるやかなわたしたち〉においては「わたしの生の充実」が第一義である。とはいえ芸事としての俳句の上達や、文学としての表現可能性が目指されていないわけではない。むしろこれらを媒介として「わたしの生の充実」が目指されている。しかしながら、「わたしの生の充実」をなげうってまで「芸事としての俳句の上達」や「文学としての表現可能性の追求」を行おうとする風潮がもはや無いこともまた事実であろう。かつてのようには一応は文学的ポーズとして表現至上主義的な身振りをとって資本主義外部の価値を目指すことは諦められている。終わらない資本主義の中でいかに「わたしの生の充実」を最大化するかということ、このニーズにこたえたサードプレイス的な共同体であると言えよう。
3-3.イデオロギー
伝統的結社と前衛的文学共同体は基本的にそれぞれに固有のイデオロギーを持つ。「花鳥諷詠」であるとか「有季定型」であるとか「俳句の周縁の探求」とかを思い浮かべればよい。そのイデオロギーとの思想的合致により共同体が選ばれる。対して〈ゆるやかなわたしたち〉は、語弊を恐れずに言えば、イデオロギーは無い。より正確に述べるのであれば、「イデオロギーが無い」ことをイデオロギーとしている。これは自由、多様性、寛容というリベラルな諸価値と親和性が高い。
野をめぐるように自由に創作に打ち込み語り合う場を作りたく。(「noi」X公式アカウントより)
楽園俳句会は俳句・連句を中心とした詩歌結社です。/俳諧自由の理念に基づき、俳諧普及のため、堀田季何によって2020年3月20日に設立されました。(楽園俳句会HPより)
僕は基本的には有季定型の句を作ります。ただし選句は作品として良ければ採る、というシンプルな選を心掛けます。口語や文語、又は破調や無季であろうともその考えは変わりません。作品の出来が全てですので、それぞれの作句スタイルをこちらが限定することはありません。(麒麟俳句会HPより)
〈ゆるやかなわたしたち〉は多様な〈わたし〉たちを迎え入れるために、イデオロギーを全面に出さない。しかしながら、ここで本当にイデオロギーが無いかどうかは疑問である。ここで「隠れたカリキュラム(Hidden Curriculum)」という教育社会学の概念を援用したい。これは学校の中でカリキュラム化はされていないものが意図しないままに非公式的に生徒に伝わってしまうということを指す(例えば、教員における主任や管理職のジェンダーが男性ばかりだと「女性は社会的に活躍できない」というメッセージを伝達してしまう)。〈ゆるやかなわたしたち〉も「隠れたカリキュラム」を持つと考えることが出来る。例えば西村麒麟が「作品として良ければ採る」「作品の出来が全て」とどんなに言ったところで、ある価値判断がそこにある以上、そこには依拠しているイデオロギーがある。句会において虚子の句を引用することが多ければ、虚子が「隠れたカリキュラム」となっている。こうした「隠れたカリキュラム」は、イデオロギーが明確になっていて相対化も容易であった以前に比べてやや厄介であると言わざるを得ない。
3-4.時間感覚
時間感覚も共同体において異なっている。伝統的結社は「円環的時間」、前衛的文学共同体は「直線的時間」である。ここにおいて特筆すべきは前衛的文学共同体における「直線的時間」であって、これは史観としては進歩史観として捉えなおすことが出来る。俳句においては俳句表現史が一歩ずつ着実に前進している(前進してしかるべき)と信じることが可能になるためには、ある程度はこの進歩史観を前提としなければいけない。
今号では「俳句史を進める」という大きな話をしようと思う。/作品固有の価値とは何か、あえて極論すれば、それは唯一無二性ということになる。そして、過去・現在において、存在しなかった句を書き、誰もなし得なかった仕事をする、それこそが俳人の価値と言える。(板倉ケンタ「現代俳句時評 時評ではなく」「俳句」2024.12より)
板倉が半年間書いていた時評において顕著だったのはこの素朴ともいえる進歩史観である。しかしながらこの進歩史観はどれくらい信じ得るのか。あるいはもっと踏み込めば「俳句史はそもそも進めないといけないものなのか」という板倉時評において所与となっているこの前提はもう少し問われてもよかったはずだ。あるいは板倉が半年間、ときにセンセーショナルな言葉でもってこの進歩史観が共有されていないことを嘆きつづけたこと自体が、すでに進歩史観の時代が終わっているということの証左になるかもしれない。
「鬣」っていうコミュニティのテンションには「俳句表現史というものを見据えて、そこを踏まえつつ、自分なりの新たな一句、まだ見ぬ一句、書かれざる一句というものを立ち上げていくっていうことを、どこまでも追及することは諦めちゃいけないんじゃないか」っていうことがやっぱりどっかにあると思うんですよ。そこを完全に否定するっていうテンションはないと思うんですよね。だけど、私はそこにちょっと……疑問を持ってるんですね。そういう立場はすごく尊重はするんですけど、ただ私はそういうものがだいぶきついなって思いながらずっと過ごしてきていたんですよ。二十代の私は、こんなに前に進めない感じで、でも前に進めないことに対して否定的に捉えたくないっていう気持ちがあったというか。つまり「昨日と同じ今日があって何がいけないのか」と。「俳句は昨日のような今日を書くような形式じゃないのか」と。(外山一機「特集 俳句だった前衛」後編『ねじまわし』第9号より)
外山一機は、期せずして板倉の言説と真っ向から対立する考えを示している。俳句表現というものを考え抜いてきた前衛的文学共同体の遺産を屈折しつつも引き継いでいる外山が、俳句表現史の更新に関して、諦念に似た感覚をいだいているということは非常に示唆的であろう。「昨日のような今日」というのは「円環的」な時間と言っていいし、俳句表現史を自分の手によっては進めえないことのナイーブな肯定である。もし俳句が「進歩史観」から取りこぼされた者の切実さを託しえない詩形なのだとしたら、つまり「進歩史観」を信じ得る人間によってのみ俳句のメイン・ストリーム(そんなものがいまだあるとして)が形成され、それ以外の人間は周縁で自己慰撫に耽っていればいいというのが俳壇一般の認識になるべきなのだとしたら、それは果たして思い描くべき未来の姿なのだろうか。
俳句には伝統という側面がある。作品固有の唯一無二性を考えた時に、極論、「伝統」自体に価値は無い。誰かがすでにやっていることをなぞっても、その俳人はいなかったことと同じとすら言える。(板倉ケンタ「現代俳句時評 時評ではなく」「俳句」2024.12より)
様々な事情で「進歩史観」から脱落せざるを得ない製作者がいる。「昨日のような今日」を書かざるを得ない人間がいる。「過去・現在において、存在しなかった句を書き、誰もなし得なかった仕事をする、それこそが俳人の価値」であり「誰かがすでにやっていることをなぞっても、その俳人はいなかったことと同じとすら言える」のだろうか。また、そもそもその唯一無二性を判定するのが特殊な個人であらざるを得ない以上、その特殊な個人の判定によって誰かが「いなかったことと同じ」になる価値体系は危ういと言わざるを得ない。ジャーナリズムがいかに恣意的であるかは言を俟たないし、周縁はいとも容易く消去されるだろう。それに、俳句は50音から17個とるという極めて単純な順列組み合わせで表し得ているという立場に立つなら、そもそも「唯一無二性」などは現在の人類の技術的制約により制限された視野の中だけに立ち現れる、甘美な夢でしかない。
とはいえ、では「進歩史観」を完全に捨て去ることは出来るのか。自分の表現が何か新しいものであることを願わず、それが「史」なるものの前進に寄与せんとすることを願わずに書いていけるのか。このアポリアに対して、〈ゆるやかなわたしたち〉はどのように対処していくのかというのが、目下の興味である。〈ゆるやかなわたしたち〉は(少なくとも正面から)「直線的時間」を共有してはいない。かわりに採用される時間感覚は「今・ここ」である。「今・ここ」における自己実現、「今・ここ」において書くことによって都度再構成され、見る/見られる「わたし」。あるいは「今・ここ」における他者、こういったものの中に豊かさを見出そうとしているように思えるが、どうだろうか。
3-5.読みのモード
伝統的結社は「私小説的」に、前衛的文学共同体は「テクスト論」的に読解が行われることが多い。特に後者におけるいわゆる「作者の死」は、一見すると不可逆的なパラダイムシフトのように思えた。しかしながら「ゆるやかなわたしたち」においては、この一度死んだはずの作者が復権してきていると言わねばならない。
書き手の反映を基本とするロジックは、その後、テクスト制作における実存の重視として、彼ら(柳元註:保坂和志と佐々木敦)の意図からずれつつも時代の推移としては順当に一般化したと考えられます。具体的には、「日記」や「随筆」、「私小説」や「生活史(ライフヒストリー)」の流行、そして社会的主題の表出を書き手の実存との関係(の有無)のもとで評価する制作/批評観の主流化といったかたちで。(山本浩貴『新たな距離』フィルムアート社、2024)
書かれた言葉は、その時代性やその言葉を取り囲む権力勾配の中でしか厳密には理解不可能であるし、特に多様な「わたし」の在り方を認めようとすればするほど、それらを一つの普遍的な言語としてみなすのではなく、個々の肉体や精神から立ち上がる一回性のある発話としてみなす方が適切になってくる。
3-6.他者の句に対して
伝統的結社は「選」をし、前衛的文学共同体は「批評」をする。昨今はこの「批評」の不在が叫ばれて久しい。これは〈ゆるやかなわたしたち〉において採用されるシステムが「批評」ではなく「言語化」だからであると考える。「批評」から「言語化」へと、緩やかにシステムが変化していると思われる。
「言語化」の称揚は俳壇に限らず一般的な潮流とみえて、書籍タイトルに「言語化」を含む図書の出版件数を調べてみると、2016年から2020年では215件だったのに対して、2021年から2025年では421件もの図書が出版されており、ほぼ倍増している(国立国会図書館サーチ、2025年2月10日閲覧)。自己啓発本の分野でも「言語化」は大きな脚光を浴びていて、社会自体が「言語化」に対して肯定的な価値づけを与えているといってよい。では「批評」と「言語化」はどう違うのだろうか。
批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか(小林秀雄『様々なる意匠』1929年)
「批評」というものが小林秀雄の言う通りのものだとすれば、「批評」は「己れの夢(=自己)」が起点である。「批評」は自己と他者が交わるため否応がなく傷つくときがある。そういうことを覚悟のうえで止揚しあう場としてかつて「批評」というものはあった。「己れの夢」と「他者の夢」との差分を認めながらも「己れの夢」として語る。そこにまず間違いなくマッチョな価値観があったことは否めないが、それが作品の水準を担保する機能があったこともまた事実だろう。
他方で、「言語化」は他者の作品そのものが起点であって、すでにそこに客体として存在しているものを、所与の前提としたうえで、いかに語り損なわずに語り起こすかかというゲームである。だから「言語化」では、「上手に読む」ということは起り得ても、相手の作品それ自体は所与の前提だから、大きな枠組みでの価値観の対立の止揚などは起らない。「言語化」は建前としてそこにすでにあるものを明確にするだけであって、語弊を恐れずに言えば創作的な行為ではない。相手の作品それ自体を所与の前提として受け入れるという態度を「優しさ」とか「誠実さ」とかと呼ぶかどうかは私は判断しかねるが、踏み込んではいけない自己と他者の境界が規定されて、より他者倫理が強くなったのは事実だろう。一例として、私は「俳句甲子園」に18回大会から今まで関わってきていてその変化を定点的に観測しているが、俳句甲子園は明らかによしとされる価値観が「言語化」になったと思う。
以上、ざっと〈ゆるやかなわたしたち〉についてのおぼえがきを示した。