春の筆かなしきまでに細かりし 田中裕明

所収:『櫻姫譚』ふらんす堂 1992

何を書くでなく筆を持ってみたりする。考え事をする際の癖なのかもしれないしそうでないのかもしれない。それによって何かを思いつく訳でも、特段安心する訳でもないが、しかし何となく筆を持ってみたくなるときがある。

そしてそんな日は、普段にも増してその筆が心細く思われる。寂しく思われる。何があったというわけではないのだけれど。春の憂いというものか、などと、のんきに考えてみたりもする。

裕明には〈好きな繪の売れずにあれば草紅葉〉〈約束の繪を見にきたる草いきれ〉など、絵の句が多いから「春の筆」とは絵筆なのかもしれない。

けれども、よく考えてみれば裕明の絵の句はほとんどが鑑賞する側。と思うと、絵筆ではなく、書に用いるときの筆と考える方が何となく自然な気がする。

ちなみに『櫻姫譚』は千葉皓史の装丁。クリーム色の表紙に薄いピンクの帯が美しい。

記:柳元

石段のはじめは地べた秋祭 三橋敏雄

所収:『しだらでん』沖積社 1996

文字通り、石段を昇る手前の場所が地面そのままであることを詠んでいる。こういった石段はよく見るけれど、このようにわざわざ言葉にしなければ気に留まることも思い出されることもない。
「地べた」と「秋祭」の間に切れはあるものの、この順に語が並ぶことで地べた続きに秋祭の風景がイメージされる。夜店や提灯の並ぶ淡く眩しい通りやその地面の硬さ。
秋祭は、収穫後に豊作に感謝して行われるもので、「地」とは非常に関わりが深い。だからこそ、この句の「地べた」はただの風景としてでなく、どことなく親しみをもって現れる。

記:吉川

白き午後白き階段かかりゐて人のぼること稀なる時間 葛原妙子

所収:『葡萄木立』白玉書房 1963

 文字だけで圧倒されそうになる眩しい一首。「午後」や「階段」などの詩的な単語をいくつも入れようとなると、だいたいその語の詩的な雰囲気に追いやられて、一首固有の世界を描けずに終わってしまうことが私はよくある。しかしこの歌は語に負けることなく、むしろ、とことん語の詩的さを増幅するように書かれていて、異様な光量を放っている。

 まず上の句、「白き」の連続がぱっと目に入る。白い午後の白と、白い階段の白は、果たしてどれほど近似したものなのだろうと思う。全く同じ白であれば、階段が、午後の白に埋もれて見えなくなってしまうのではないか、そうだとしたら、少し異なる白なのか、もしかして、光の白と色の白なのか……などと考えるうちに、午後(時間帯)と階段(物体)という全く異なるものが白を通じて重なりあっているのが面白いなあ、と感じた。なんだか分からないけど空間もその中のものも白いのだ、ということだけは確かに分かる。
 下の句、「稀なる」が巧くできた修辞である。めったにないが少しはある。0ではない。その白い階段を誰かがのぼることはある。ここでは「稀なる時間」と書かれてあるだけだが、この白い現実感が薄れていく光景の中で階段を上っていた人のおもかげがすーっと残る。居ないが居る人の姿によって、白で広がりつづける一首にキレと説得力を与えているように思う。また、漢字が稀薄の稀であることも、一首の立ち上がる光景に好影響を与えている。

 私は、幻視的な作品と見ている(意識が遠のくような眩しい、本当に白い世界)が、ふつうの現実の日常風景のように読むこともできるかもしれない(少し眩しい午後、ビルの外にあるような階段にあまり人が通らないなあと思う、というふうに)。ただ、どうしても、人が白い階段を上っていくということに、死や昇天がちらつく。そして「かかりゐて」に、もとからそこに在ったのではなく、白い午後に俄かに架かった感覚が受け取れる。どちらにせよ白と時間のうつくしい余韻を味わいたい。

 「白き」の連続、「稀なる」の巧さ、「午後」で始まり「時間」で終わる構成の意識・うつくしさが、読むたびに私を白い世界に誘拐してくれる。

記:丸田

花花花花花花花かな 三井秋風

所収:『近世俳句俳文集』(「新編日本古典文学全集72」小学館 2001)

〈吉野にて〉の前書がある。例えば貞室の「これはこれはとばかりの花の吉野山」みたいに、桜があまりに美しくて圧倒されたから言葉にできなかったよ、と過剰に桜を讃える歌や句、または「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」などの誇張された表現は胃もたれしそうになるので避けてきた。実際、桜を目の前にしたところで、太い樹だなと思うだけ、どちらかと言えば人ごみの方に興趣を感じる。

先日、山手線に新しく出来た高輪ゲートウェイを見た帰り、高田馬場で下車しようと考えていたはずが、いつの間にか三駅も寝過ごしてしまった。逆回りに乗るのもなんだか癪で、流れに任せてみるかと大塚駅前から都電荒川線に乗りこんだ。すると面影橋に差しかかったあたり、神田川沿いの桜並木が満開になっていて、せかせか過ごしていたならば鬱陶しく思うだろう桜や人が、心にゆとりを与えてくれる。自分へのささやかな慰めとなった。

掲句、花を七つもつづける人を食った気分にしつこさを覚えながら、花の繰りかえし以外は何も言わず、ただただ「かな」と詠嘆する姿勢に、忙しい生活のなかでほっと一息ついたときの余裕をおもう。胃もたれもまた余裕をもって眺めれば一興だろう。桜はこうした視点を与えてくれる。

                                            記 平野

良く酔えば花の夕べは死すとも可 原子公平

所収: 『良酔』風神堂 1980年

週末、コロナ禍の上野公園に行った。美術館、博物館、動物園が軒並み休止しているにも関わらず、存外に人で溢れていてやや面食らった。訪日外国人客が上野から消えて驚くほどがらんとしているという前情報があったから訝しく思ったものの、道なりに歩いてみればたちまちに理由に思い当たる。

まだ七分咲きではあるものの、桜が開いている。つまりこれらの人々は、コロナウイルスが猛威を奮うなか、逞しくも咲きかけの花を目当てとして酒瓶片手に集まっているのである。

もちろん公園を管理するサイドもコロナウイルス対策をしている。ブルーシートを引くことを禁じ、平時のようにゆっくりとした花見は行えないようになっている。

しかし平安以来の伝統である桜樹下での酒宴、その程度の対策では妨げることが出来ない。堂々とブルシートを広げ、注意されたら場所を変えるというゲリラ花見戦法をとる人、地べたに座ることを意に介さず芝生でへべれけになっている人。

死すとも可、と言った原子公平のような強靭な意志でコロナ禍中の花見を企てた人がどれくらい居るのかは分からない。けれどもまあコロナウイルスに感染しても可、くらいには思ってはいるのだろう。

彼らを積極的に肯定するつもりはないけれど、エンタメが自粛に次ぐ自粛のなか、屋外という換気環境であることに鑑みればこれくらい許されてよいのではないかとも思う。まして支持者を集めて公金で呑んでいる訳でもあるまいし。

ワンカップ大関を啜ってみても死すとも可、という気持ちにはならなかったけれども、楽天的な気持ちの延長にふっと死が待ち構えている感覚はぼんやりと分かる。

記:柳元

蝶々の大きく白く粉つぽく 岸本尚毅

所収:『感謝』ふらんす堂 2009

類似の表現が3つも並列された大胆な1句。一見かなりざっくりとした把握の句に見える。が、突然視界に飛び込んできた蝶に目のピントが合うまでの僅かな時間と思考の推移を、「サイズ」、「色」、「質感」の順に書くことで言い留めている繊細な1句。
このような並列表現は『感謝』には多く見られるが、どれもゆったりとした詠みぶりの中に繊細な感覚と把握が息づいている。

記:吉川

鯉におしえられたとおりに町におよぎにゆく 阿部完市

所収:『軽のやまめ』角川書店 1991

 なめらかで不思議な句。鯉とそういう関係を結べていることがまず面白い。鯉に教わった「とおりに」行くくらい素直で従順なら、せっかく泳ぎ方を教わったんだから、鯉と一緒に泳げばいいのにと思うが、そうはせず、ひとりで町に泳ぎに行く。あくまでプライベートは別という教師と生徒のような距離感がある。恐らく教わったのは泳ぎ方だろう、だとすれば「町をおよいでゆく」くらいしたい気もするが、あくまで人間で、ちゃんと泳げる場所で泳ごうとする真面目な主体。読みようによっては色々考えられる(主体が人ではなく鯉以外の魚かもしれない)が、主体の愛おしさは変わらない。大きく定型を逸れているが、助詞「に」の連続や平仮名の多用から、ゆるやかに句自体(内容も、文字も)が泳いでいるような感覚がして心地が良い。これまでの時間と、今、そして泳いでいる未来が透けて重なり合っている、非常に印象的な一句である。

 阿部完市には動物の句(鮎や狐など)が多く、主体と微妙に距離を取って描かれる。童心を基にした動物とのさりげない信頼のようなものに、いつも惹かれている。

記:丸田

午時一度蜂に開たり冬ごもり 建部涼袋

所収:『建部綾足全集 第2巻』国書刊行会 1986

午時はひると読む。空気が悪くなる気怠さに、寒さを耐えてでもしばし窓を開けるべきか悩むこと。完全に平和と思える冬ごもりも心の内では葛藤している。どこからか入った蜂を逃がすため、一度だけ窓を開けるほかは外界との接続を断った冬ごもりへの意志。しかし蜂を殺さずに逃がしたのは、弱った冬の蜂への慈しみか、それとも窓を開けることを心が求めたからか。わざわざ窓を開けた心のうごきを想像させる一句。

涼袋には〈傘(からかさ)のにほうてもどるあつさかな〉など感性の鋭さがひかる句もある。とすると、掲句のうちに感性の鋭い人一流の周りへの「怯え」を感じとることもできそうだ。                                 

                                            記:平野

しみじみと沁々と冬の日を愛しけり 赤尾兜子

所収:『䬃』渦俳句会 1983

1983年と言えば兜子の死去後すぐであるが、この句は晩年に書かれた句ではなくて、青年期に書かれたもの。若きころの兜子の未発表句稿を『䬃』として発表したらしい。和田悟朗はこの頃の兜子作風を戦中のミリタリズムへの反省と前衛的作風の萌芽が見られると評している。

レトリック的にはなんてことの無い句だけれど、兜子の持つシリアスさが直截的に表れている。シリアスさというのは兜子の大きな魅力であるように思うし、平成の俳句が平明さ・完成度と引き換えに失ったものがシリアスさであるとするなら、いまひとたびシリアスさを引き受けることは意味があることなのかもしれない。少なくとも藤田哲史『楡の茂るころとその前後』左右社 2020 などには同様のシリアスさを感じる。

記:柳元

くび垂れて飲む水広し夏ゆふべ 三橋敏雄

所収:『眞神』端渓社 1973

「広さ」が描かれているから池や湖に口をつけて水を飲んでいる様だろう。水を飲みながらも、その行為を通して水の広がり、湖や池全体を感じることには遥かな安らぎがある。夏の日差しに熱くなった体を水で内から静める心地よさが、気温も落ち着いて肌に馴染む「夏ゆふべ」の空気感が、その安らぎの感覚を確かにしている。

水平に広がる水に対して、首が垂直の動きを見せる構図が印象的だが、人間の首は短いので垂れるという表現には違和感が残る。首を垂れるという表現が適当なのは牛や馬などの動物であろう。敢えて「垂れる」と表現しことで、牛や馬と同じく生きる物として、水の安らぎに身を委ねる人間の姿が浮かぶ。また、「首を垂れる」という表現にある、静かな悲しみや、敬虔さが、水を飲む姿に重なって浮かび上がってくる。

記:吉川