所収:『感謝』ふらんす堂 2009
類似の表現が3つも並列された大胆な1句。一見かなりざっくりとした把握の句に見える。が、突然視界に飛び込んできた蝶に目のピントが合うまでの僅かな時間と思考の推移を、「サイズ」、「色」、「質感」の順に書くことで言い留めている繊細な1句。
このような並列表現は『感謝』には多く見られるが、どれもゆったりとした詠みぶりの中に繊細な感覚と把握が息づいている。
記:吉川
短詩系ブログ
所収:『感謝』ふらんす堂 2009
類似の表現が3つも並列された大胆な1句。一見かなりざっくりとした把握の句に見える。が、突然視界に飛び込んできた蝶に目のピントが合うまでの僅かな時間と思考の推移を、「サイズ」、「色」、「質感」の順に書くことで言い留めている繊細な1句。
このような並列表現は『感謝』には多く見られるが、どれもゆったりとした詠みぶりの中に繊細な感覚と把握が息づいている。
記:吉川
所収:『軽のやまめ』角川書店 1991
なめらかで不思議な句。鯉とそういう関係を結べていることがまず面白い。鯉に教わった「とおりに」行くくらい素直で従順なら、せっかく泳ぎ方を教わったんだから、鯉と一緒に泳げばいいのにと思うが、そうはせず、ひとりで町に泳ぎに行く。あくまでプライベートは別という教師と生徒のような距離感がある。恐らく教わったのは泳ぎ方だろう、だとすれば「町をおよいでゆく」くらいしたい気もするが、あくまで人間で、ちゃんと泳げる場所で泳ごうとする真面目な主体。読みようによっては色々考えられる(主体が人ではなく鯉以外の魚かもしれない)が、主体の愛おしさは変わらない。大きく定型を逸れているが、助詞「に」の連続や平仮名の多用から、ゆるやかに句自体(内容も、文字も)が泳いでいるような感覚がして心地が良い。これまでの時間と、今、そして泳いでいる未来が透けて重なり合っている、非常に印象的な一句である。
阿部完市には動物の句(鮎や狐など)が多く、主体と微妙に距離を取って描かれる。童心を基にした動物とのさりげない信頼のようなものに、いつも惹かれている。
記:丸田
所収:『建部綾足全集 第2巻』国書刊行会 1986
午時はひると読む。空気が悪くなる気怠さに、寒さを耐えてでもしばし窓を開けるべきか悩むこと。完全に平和と思える冬ごもりも心の内では葛藤している。どこからか入った蜂を逃がすため、一度だけ窓を開けるほかは外界との接続を断った冬ごもりへの意志。しかし蜂を殺さずに逃がしたのは、弱った冬の蜂への慈しみか、それとも窓を開けることを心が求めたからか。わざわざ窓を開けた心のうごきを想像させる一句。
涼袋には〈傘(からかさ)のにほうてもどるあつさかな〉など感性の鋭さがひかる句もある。とすると、掲句のうちに感性の鋭い人一流の周りへの「怯え」を感じとることもできそうだ。
記:平野
所収:『䬃』渦俳句会 1983
1983年と言えば兜子の死去後すぐであるが、この句は晩年に書かれた句ではなくて、青年期に書かれたもの。若きころの兜子の未発表句稿を『䬃』として発表したらしい。和田悟朗はこの頃の兜子作風を戦中のミリタリズムへの反省と前衛的作風の萌芽が見られると評している。
レトリック的にはなんてことの無い句だけれど、兜子の持つシリアスさが直截的に表れている。シリアスさというのは兜子の大きな魅力であるように思うし、平成の俳句が平明さ・完成度と引き換えに失ったものがシリアスさであるとするなら、いまひとたびシリアスさを引き受けることは意味があることなのかもしれない。少なくとも藤田哲史『楡の茂るころとその前後』左右社 2020 などには同様のシリアスさを感じる。
記:柳元
所収:『眞神』端渓社 1973
「広さ」が描かれているから池や湖に口をつけて水を飲んでいる様だろう。水を飲みながらも、その行為を通して水の広がり、湖や池全体を感じることには遥かな安らぎがある。夏の日差しに熱くなった体を水で内から静める心地よさが、気温も落ち着いて肌に馴染む「夏ゆふべ」の空気感が、その安らぎの感覚を確かにしている。
水平に広がる水に対して、首が垂直の動きを見せる構図が印象的だが、人間の首は短いので垂れるという表現には違和感が残る。首を垂れるという表現が適当なのは牛や馬などの動物であろう。敢えて「垂れる」と表現しことで、牛や馬と同じく生きる物として、水の安らぎに身を委ねる人間の姿が浮かぶ。また、「首を垂れる」という表現にある、静かな悲しみや、敬虔さが、水を飲む姿に重なって浮かび上がってくる。
記:吉川
所収:『hibi』港の人 2018
不思議(または不気味)な後味の川柳。作りは一見簡単であるし一句もさらりと読めてしまうが、非常に奇妙である。
まず、「藤という燃え方」。桜という植物、牛という動物、冷奴という食べ物。この「という」が使われるときには、前者が要素、後者がそのカテゴリーのようになる。ここで、藤という〇〇を考えた時、植物、美しさ、紫、などが類推できる。藤にある共通点から考えていく。ここで、想定外の「燃え方」が来る。藤は燃えていたんだ、少なくとも主体は(主体のいる世界では)、藤を燃え方の一つと捉えているんだ、と分かる。藤が急激に神聖な、得体のしれないもののように感じられる。
次に、「が残されている」。「を残している」とは違う。ただ残されている限り。自分とは少し遠い位置に藤が燃え方として残されている。果たしてそれが主体にとって希望なのか絶望なのかが分からない。例えば「自殺という死に方が残されている」という文は、死にたいんだったら、希望のように聞こえる。この句で、藤は、その燃え方は、どのように映っているのか。
それぞれの語の持っている不思議さ、哀しさ、儚さが、奇妙な構造で支えられて、独特の響きあいを見せている。一体、藤が燃え方として残されていることを主体はどう受け止めているのか、読者はどう受け取ったらよいのかが分からないまま、ただその景色・事実だけが屹然と、かつ漠然と心に残る。読者としてこの句に取り残されてしまう自分の感覚が、この句の中の藤の在り方と共鳴し合うようで、奇妙な心地よさがある。
記:丸田
所収:『江戸櫻』小澤書店 1988
水運が盛んだった「水の都」として、江戸の記憶と密接に関わる淺草川を舞台に、演出らしく小雪を舞わせる作者は江戸情緒の世界に遊んでいるのかと思えば、下五を淺い川にすることで、ただ人びとの記憶のなかを流れる淺草川を描くだけではなく、現在も江戸から変わらずに流れ続ける実景としての淺草川に迫っていく。記憶の景から実景に舵が切られる、その転換点としての「や」、単なる言葉遊びで終わらないところが巧みな一句。
記:平野
所収:『星涼』ふらんす堂 2010
野遊びの最中に空を見る、のではなく野遊びのように空を見る。ただ空を共に見ることを、野遊びという楽しい出来事に喩えることのできる、作中主体と「みんな」の親密さは眩しい。「野遊び」・「みんな」・「空」という語の連なりや、助詞の「て」で終わることの余韻が生み出すノスタルジーに浸っていると、野遊びをしない大人に成長しても子供の時とは変わらないもの(みんなとの関係性や空の眩しさなど)を詠んだ句のようにも思える。 シンプルなようでいて読むほどに抒情豊かな1句。
記:吉川
所収:『蕪村俳句集』岩波書店 1989
蕪村の愛用語だという、とかくしてがこの句では心の動きを表現している。日射しが強くて暑い夏、外に出て手にした扇をあおぐかそれとも日よけにするか、しばらく悩んで笠になしつる。確かに外で一生懸命に扇をあおいだとしても、風は生ぬるくてまったく涼みの足しにならないだろう。暑いなか、多少の涼でも求めようとする実感の伝わる一句。
記:平野
所収:『ただならぬぽ』ふらんす堂 2017
一面に広がる田にぽつんと立つ案山子。「ふりそそぐ」によって上下の動きが生まれ、立体的に景が見えてくる。要素がどんどんと追加されるような句だが、それに反して、句の世界は窮屈ではなく、むしろ空白が増していっているように感じる。この句の中で可視のものは案山子だけであり、際限なく広がって、ふりそそいで、最後に残っているのは案山子だけという空虚さが、妙に心地いい(案山子はこの句の中にすらおらず、全て見えないが在るものの話をしているだけなのかもしれない……)。案山子の孤独のようなものも感じるが、ここではなんだか、案山子の悲しみや神の意識が綯い交ぜになって、人間には言表出来ない状態で丁度よく安定して存在しているような、深いよろこびを感じる。
「ふりそそぐ」をどの語に掛けて読むか、降り注がれる対象を何と考えるかで景が容易に変わってしまう。しかし、句は k 音の連続に加え i 段で脚韻が踏まれて、綺麗に構成されている。この不安定が過剰に安定しているような気持ち悪さが、怖いくらいに美しいと思ってしまう。
記:丸田