鯉におしえられたとおりに町におよぎにゆく 阿部完市

所収:『軽のやまめ』角川書店 1991

 なめらかで不思議な句。鯉とそういう関係を結べていることがまず面白い。鯉に教わった「とおりに」行くくらい素直で従順なら、せっかく泳ぎ方を教わったんだから、鯉と一緒に泳げばいいのにと思うが、そうはせず、ひとりで町に泳ぎに行く。あくまでプライベートは別という教師と生徒のような距離感がある。恐らく教わったのは泳ぎ方だろう、だとすれば「町をおよいでゆく」くらいしたい気もするが、あくまで人間で、ちゃんと泳げる場所で泳ごうとする真面目な主体。読みようによっては色々考えられる(主体が人ではなく鯉以外の魚かもしれない)が、主体の愛おしさは変わらない。大きく定型を逸れているが、助詞「に」の連続や平仮名の多用から、ゆるやかに句自体(内容も、文字も)が泳いでいるような感覚がして心地が良い。これまでの時間と、今、そして泳いでいる未来が透けて重なり合っている、非常に印象的な一句である。

 阿部完市には動物の句(鮎や狐など)が多く、主体と微妙に距離を取って描かれる。童心を基にした動物とのさりげない信頼のようなものに、いつも惹かれている。

記:丸田

午時一度蜂に開たり冬ごもり 建部涼袋

所収:『建部綾足全集 第2巻』国書刊行会 1986

午時はひると読む。空気が悪くなる気怠さに、寒さを耐えてでもしばし窓を開けるべきか悩むこと。完全に平和と思える冬ごもりも心の内では葛藤している。どこからか入った蜂を逃がすため、一度だけ窓を開けるほかは外界との接続を断った冬ごもりへの意志。しかし蜂を殺さずに逃がしたのは、弱った冬の蜂への慈しみか、それとも窓を開けることを心が求めたからか。わざわざ窓を開けた心のうごきを想像させる一句。

涼袋には〈傘(からかさ)のにほうてもどるあつさかな〉など感性の鋭さがひかる句もある。とすると、掲句のうちに感性の鋭い人一流の周りへの「怯え」を感じとることもできそうだ。                                 

                                            記:平野

しみじみと沁々と冬の日を愛しけり 赤尾兜子

所収:『䬃』渦俳句会 1983

1983年と言えば兜子の死去後すぐであるが、この句は晩年に書かれた句ではなくて、青年期に書かれたもの。若きころの兜子の未発表句稿を『䬃』として発表したらしい。和田悟朗はこの頃の兜子作風を戦中のミリタリズムへの反省と前衛的作風の萌芽が見られると評している。

レトリック的にはなんてことの無い句だけれど、兜子の持つシリアスさが直截的に表れている。シリアスさというのは兜子の大きな魅力であるように思うし、平成の俳句が平明さ・完成度と引き換えに失ったものがシリアスさであるとするなら、いまひとたびシリアスさを引き受けることは意味があることなのかもしれない。少なくとも藤田哲史『楡の茂るころとその前後』左右社 2020 などには同様のシリアスさを感じる。

記:柳元

くび垂れて飲む水広し夏ゆふべ 三橋敏雄

所収:『眞神』端渓社 1973

「広さ」が描かれているから池や湖に口をつけて水を飲んでいる様だろう。水を飲みながらも、その行為を通して水の広がり、湖や池全体を感じることには遥かな安らぎがある。夏の日差しに熱くなった体を水で内から静める心地よさが、気温も落ち着いて肌に馴染む「夏ゆふべ」の空気感が、その安らぎの感覚を確かにしている。

水平に広がる水に対して、首が垂直の動きを見せる構図が印象的だが、人間の首は短いので垂れるという表現には違和感が残る。首を垂れるという表現が適当なのは牛や馬などの動物であろう。敢えて「垂れる」と表現しことで、牛や馬と同じく生きる物として、水の安らぎに身を委ねる人間の姿が浮かぶ。また、「首を垂れる」という表現にある、静かな悲しみや、敬虔さが、水を飲む姿に重なって浮かび上がってくる。

記:吉川


藤という燃え方が残されている 八上桐子

所収:『hibi』港の人 2018

 不思議(または不気味)な後味の川柳。作りは一見簡単であるし一句もさらりと読めてしまうが、非常に奇妙である。

 まず、「藤という燃え方」。桜という植物、牛という動物、冷奴という食べ物。この「という」が使われるときには、前者が要素、後者がそのカテゴリーのようになる。ここで、藤という〇〇を考えた時、植物、美しさ、紫、などが類推できる。藤にある共通点から考えていく。ここで、想定外の「燃え方」が来る。藤は燃えていたんだ、少なくとも主体は(主体のいる世界では)、藤を燃え方の一つと捉えているんだ、と分かる。藤が急激に神聖な、得体のしれないもののように感じられる。
 次に、「が残されている」。「を残している」とは違う。ただ残されている限り。自分とは少し遠い位置に藤が燃え方として残されている。果たしてそれが主体にとって希望なのか絶望なのかが分からない。例えば「自殺という死に方が残されている」という文は、死にたいんだったら、希望のように聞こえる。この句で、藤は、その燃え方は、どのように映っているのか。

 それぞれの語の持っている不思議さ、哀しさ、儚さが、奇妙な構造で支えられて、独特の響きあいを見せている。一体、藤が燃え方として残されていることを主体はどう受け止めているのか、読者はどう受け取ったらよいのかが分からないまま、ただその景色・事実だけが屹然と、かつ漠然と心に残る。読者としてこの句に取り残されてしまう自分の感覚が、この句の中の藤の在り方と共鳴し合うようで、奇妙な心地よさがある。

記:丸田

小雪まふ淺草川や淺い川 加藤郁乎

所収:『江戸櫻』小澤書店  1988

水運が盛んだった「水の都」として、江戸の記憶と密接に関わる淺草川を舞台に、演出らしく小雪を舞わせる作者は江戸情緒の世界に遊んでいるのかと思えば、下五を淺い川にすることで、ただ人びとの記憶のなかを流れる淺草川を描くだけではなく、現在も江戸から変わらずに流れ続ける実景としての淺草川に迫っていく。記憶の景から実景に舵が切られる、その転換点としての「や」、単なる言葉遊びで終わらないところが巧みな一句。

                                          記:平野

野遊びのやうにみんなで空を見て 大木あまり

所収:『星涼』ふらんす堂 2010

野遊びの最中に空を見る、のではなく野遊びのように空を見る。ただ空を共に見ることを、野遊びという楽しい出来事に喩えることのできる、作中主体と「みんな」の親密さは眩しい。「野遊び」・「みんな」・「空」という語の連なりや、助詞の「て」で終わることの余韻が生み出すノスタルジーに浸っていると、野遊びをしない大人に成長しても子供の時とは変わらないもの(みんなとの関係性や空の眩しさなど)を詠んだ句のようにも思える。 シンプルなようでいて読むほどに抒情豊かな1句。

記:吉川

とかくして笠になしつる扇哉 蕪村

所収:『蕪村俳句集』岩波書店   1989

蕪村の愛用語だという、とかくしてがこの句では心の動きを表現している。日射しが強くて暑い夏、外に出て手にした扇をあおぐかそれとも日よけにするか、しばらく悩んで笠になしつる。確かに外で一生懸命に扇をあおいだとしても、風は生ぬるくてまったく涼みの足しにならないだろう。暑いなか、多少の涼でも求めようとする実感の伝わる一句。

記:平野

ふりそそぐ案山子悲しみ神のいしき 田島健一

所収:『ただならぬぽ』ふらんす堂 2017

 一面に広がる田にぽつんと立つ案山子。「ふりそそぐ」によって上下の動きが生まれ、立体的に景が見えてくる。要素がどんどんと追加されるような句だが、それに反して、句の世界は窮屈ではなく、むしろ空白が増していっているように感じる。この句の中で可視のものは案山子だけであり、際限なく広がって、ふりそそいで、最後に残っているのは案山子だけという空虚さが、妙に心地いい(案山子はこの句の中にすらおらず、全て見えないが在るものの話をしているだけなのかもしれない……)。案山子の孤独のようなものも感じるが、ここではなんだか、案山子の悲しみや神の意識が綯い交ぜになって、人間には言表出来ない状態で丁度よく安定して存在しているような、深いよろこびを感じる。

「ふりそそぐ」をどの語に掛けて読むか、降り注がれる対象を何と考えるかで景が容易に変わってしまう。しかし、句は k 音の連続に加え i 段で脚韻が踏まれて、綺麗に構成されている。この不安定が過剰に安定しているような気持ち悪さが、怖いくらいに美しいと思ってしまう。

記:丸田

針と針すれちがふとき幽かなるためらひありて時計のたましひ 水原紫苑

所収:『びあんか』深夜叢書社 2014

あなたの部屋の時計は2分遅れている。あなたはそれを知っている。知っていても時計の指し示す時間のずれを直さないのは、単にあなたが面倒くさがりであるというだけなのかもしれない。

とはいえ実際のところあなたは、そのずれている時計が何となく気に入っている。

あなたがそんなことを考えだすときは決まって深夜である。ベッドに入って寝付けないとき、日中は聞こえないような物音が気になりだすことがあなたにはよくある。

それはチクタクという秒針の音かもしれないし、あるいは分針が動くときのコッ、というかすかな音かもしれない。この歌では、針と針がすれ違うときの微々たる針の逡巡が作中主体に知覚され、それがためらいという感覚で言い留められている。

眠れない夜にはかすかな時計の息遣いがふいに聞こえ出すという瞬間があって、あなたはそのとき、聴いた、聴こえた、と思う。何かこの世ならぬものの感じを受けて、あなたはすっと冷や汗を覚える。

そして朝になればすべて忘れてしまう。

人でないものへの共鳴性が強いという意味でとても水原紫苑的な一首。

記:柳元