あいまい宿屋の千枚漬とそのほか 中塚一碧楼

参考:夏石番矢『超早わかり現代俳句マニュアル』(立風書房、1996) *

 曖昧だなあ、という感想を持った。宿屋が在ったような気がして、そこに千枚漬けといろいろがあったような気がする。それくらいの句ではある。

 この句の面白いところを三つ挙げるとすれば、まず「あいまい宿屋」の言い方。「ふれあい動物園」「二十世紀梨」のような感覚で、「あいまい宿屋」という宿屋があるような聞こえ方になっている。宿屋に関する記憶が曖昧で、そんな宿屋だ、ということをこのように省略すると、「あいまい宿屋」というポップな面白い響きを持つフレーズになる。「あいまい階段」「あいまい天体」「あいまいカフェ」……いろいろ他のものも考えてみるが、(他のものには他の雰囲気があるにせよ)宿屋とは確かに、あいまいだなという気がしてくる。細部を部分的に、全体をざっくりと、見たような記憶は残っているが、だからと言ってそれ以上の情報は記憶していないような気がする。むしろ宿屋へ誰と行ったか、そこで何をしたかというエピソードばかりが重要で。宿屋自身のことは確かにあいまいだと思わされる。変なフレーズに納得させられるのが面白い。こういう芸風のお笑い芸人を見たことがあるような気がする。

 二点目に、「千枚漬」の部分。「あいまい宿屋」とあいまいな記憶の中で色濃く存在しているのが千枚漬けなのか、という面白さ。これは普段から千枚漬けにどういう気持を持っているかで味わいは変わるが、私は千枚漬けは結構好きだがあまり食べない、ややシブめのチョイス、というイメージであるため、「あいまい宿屋」のなかで唯一取り上げるのが風呂や景色やメインディッシュではなく「千枚漬」であるという点に、ものすごく惹かれる。よほど美味しかったのか。もしくはよほど変な味がしたのか。曖昧な記憶のなかで千枚漬だけが具体性を付与されていることが、なんだか面白い。

 一応補足として、先ほどから私は記憶記憶と言っているが、これは過去を回想しているのではなく、現在進行形で「あいまい宿屋」に泊っていて、その中に居る私もなんだか曖昧になってきた、という句とも読める。それもひとつの魅力的な読みかもしれないが、その場合「千枚漬」の良さがやや減るかと思う(今目の前にあるから言った、というより、回想の中でなぜか千枚漬けだけが浮かんでくる異様さ、変てこさの方が、「あいまい宿屋」のフレーズに近い面白さがあると判断したからである)。私は回想の方で読みたい。

  最後、三点目に、「とそのほか」の暈かし方の面白さがある。「あいまい宿屋」のなかのもの(装飾とか、外装とか、他の料理とか)は、「千枚漬」かそれ以外かに分けられてしまう。そんなことないだろう、とも思うが、そんなことがあったのだろう。「そのほか」なんて曖昧で適当な言い回しだなあと一見思えるが、あきらかに意図された面白さがここにある。

 加えて言うならば、「あいまいやどやの/せんまいづけと/そのほか」というテンポのいいリズムも好みである。これがもし定型だったら、それはそれで面白かったのかもしれないが、これはこうでないといけなかっただろう。一応「千枚漬」という季語・名産品から、もしかしたら京都かな、とか、もしかしたら冬かな、と想像することも可能だが、なんとなく、「あいまい宿屋」はそうしていっても辿り着かないところにある気がしてならない。

*本来、所収されている句集を引くべきですが、この句が収録されている一碧楼の句集を把握することができず、私がこの句を発見した夏石番矢の本を一応参考として記しました。一碧楼の句集を確認することが出来たらまた変更・追記等したいと思います。

追記︰「曖昧宿」(また、「曖昧屋」)という名詞があることを指摘いただきました。完全に私自身その単語を知らず、「あいまい」という言葉の面白さ中心に読んでいました(これもまた一つの読みかと思いますが)。曖昧宿とは、表向きは茶屋や料理店で、実際は娼婦を構えて客をとる店を指すようです。これを考慮すると、「千枚漬」という表側の記憶が残っていること、本当の目当てを「とそのほか」とぼかしているお茶目さ(?)が見えて、面白みのある句に読めるかなと思います。曖昧宿、という単語そのものの、「あいまい」というネーミングが、この句の空気感とそのまま同じなのではないか、と思います。(2020年10月21日)

記:丸田

切口の匂ふ西瓜の紅に 岡野知十

所収:『味餘』(そうぶん社出版 1991)

刃先を西瓜皮に立てて思いっきり力をこめる。厚い皮は割けていき、かぶさる具合に乗り出した胸の下から清々しいような、甘い瓜の匂いがする。ごろんとまっぷたつに転げた西瓜のその断面は、眼まで染めぬくような鮮やかな紅だった。という夏の涼やかな一瞬を嗅覚と視覚から切り抜いた句。涼やかと言いながらもどこか動物的な生臭さも感じるのは紅という色彩のためか、それとも太陽と大地の養分を厚い皮のうちにぎっしり詰め込んだ西瓜という果物のためか。静かに立ちのぼってくる生命の匂いが日常の淵を見せる。

記:平野

ありわらのなりひらしゃらしゃら気管支をならしわたしにうでをさしだす 野口あや子

所収:『短歌』2018.11

喘息もちだろうか。「ありわらのなりひら」が気管支をしゃらしゃら鳴らすさまはなんだか痛々しい。いや喘息もちだろうとたぶん気管支はしゃらしゃら鳴らないわけだが、そのあたりの絶妙な嘘くささ、誇張されたサブカル漫画みたいなフェイクっぽさ、けれん味こそ愛すべきなのである。「なりひら」はわたしに腕をさしだしてくるわけだが、当然気管支を鳴らしているような人間の腕に掴まるのは無理だし、それは「なりひら」もたぶん承知なわけだが、それでも、「なりひら」は腕をさしだす。だからこそこの歌には妙な切実さが宿っている。

技巧的な部分を読めばおそらく「なりひら」の「ひら」の音が「しゃらしゃら」を呼び寄せ、「しゃらしゃら」の「し」が「気管支」「ならし」「わたし」「さしだす」の「し」を軽やかに踏んでいくわけだが、この音の連なりの気持ちの良さも特筆すべきだろう。

最もこの一首だけ読んでもやや詮無いことで、というのもこれはかなり連作という形式に依るところが大きい歌だからである。〈なりひらのきみとでも呼べば振り向くかおとこの保身かがやくひるに〉という歌から始まるこの一連の連作は、比較的近しい関係にある「きみ」(どうやら保身している男性らしい)を、在原業平に見立てることで動き出す。

平安時代初期の歌人在原業平は、六歌仙・三十六歌仙の一人で、『伊勢物語』のモデルとしても知られる。しばしば優雅で反権力的な表象のされ方を伴うが、どうやらこの連作においては異なるようで、 取り上げた歌もそうだし〈くらき胸を上からたどればとまどいてなりひらのようにきみはかわいい〉のような歌を見てみても、庇護される対象として、つまり優しいがどこか線の弱く頼りない「なりひら」を感じさせる。

それは平仮名に開かれた表記が直接そう感じさせるというよりも、歌を平仮名に開くという書き方がこれまで担保してきた、極めて現代短歌的としか言いようがない永遠の明るさ(思いつきで命名するならグラウンド・ゼロっぽさ)を引き連れているという方が適切な感じがする。

しまながし ホログラムする快楽のみずをたどってきみとはなれて〉のように「わたし」と「きみ」の二人の関係性が、どことなく世界の行く末と直結しているいわゆるセカイ系っぽさも、時代の雰囲気をよく捉えていて、読み応えのある連作だった。

記:柳元

七十にんの赤い蝶々が、ネ、今日来るのです 金原まさ子

所収:『カルナヴァル』草思社 2013

 七十匹ではなく、「七十にん」。「赤い」蝶々。それが「今日」来る。
 蝶がこちらに舞って飛んでくる、ふつうの微笑ましい光景とは違って、あきらかに雰囲気から異質なものになっている。

 この蝶たちはなぜそろってこちらにやって来るのか。「今日来る」と語っている人物(?)がいることを想定すると、今日蝶が来るということは予定されていて、それをその人物は知りえたということになる。それを、「、ネ、」と念押しでこちら(主体か、もしくは読者)に対して教えてくる。いじわるなのか親切なのかも分からない。
 今日来ると言われて、こちらはどうすればいいのか。想像したこともない光景だが、「七十にん」と妙に具体的な数を出されると、危険が差し迫っているような感覚に陥る。そもそも、そのやって来る蝶は自分(たち)が知っているような蝶なのか。巨大な、まがまがしい、妖怪のような蝶だったりしないか。「にん」というからには、人間のような四肢を持ち合わせてはいないか。

 こちらに来たとして、話は通じるのか。

 そもそも、こちらに蝶が来ると知らせてくれているこの人物とは、話が通じているのか。この人物は、狂気の中に居て、蝶が来るという妄想に襲われて、それをこちらに喧伝しているだけなのではないか。そうであれば、こちらは聞き流せばいいのかもしれない。でもなんとなく、「今日来る」という言い方には現実的なものを感じる。今そこにいる、ほら見て、などと言われれば、いや居ない、あなたの幻覚だというふうに無視することも可能かもしれないが。これは来ますよ、という「告知」「予定」を話している点が、妙に本当らしさを与えてくる。

 俳句作品としてこれを見たとき、この蝶は単なる幻想として捉えられて、季語としての実感、季感、力が薄いと評価されるのかもしれない。私も季語が季語として効いているかと言われればそこまで効いていないと思う。そして型から見ても、7音が連続してそのなかに「ネ」が挟まれている形で、575の定型からはずっと大きく逸れている。
 この作品において、私たちがどれほど真剣にこの人物の言明に耳を傾け、どれだけ現実のこととして想像するかによって、その働きは大きく変わってくる。この「蝶々」が、見えるか見えないか、それは想像力にかかっている。

記:丸田

ヴァージニア・ウルフの住みし街に来てねむれり自分ひとりの部屋に 川野芽生

所収:『Lilith』2020 書肆侃侃房

ヴァージニア・ウルフには『自分ひとりの部屋』(A Room of One’s Own)という書物があって、これはイギリスで男女平等の参政権が認められた1928年、ケンブリッジ大学の若き女子学生たちに向けた講演をもとに構成されたものであり、フェミニズム批評の古典として再評価が進んでいるものだ。直接的な批評というよりも、虚構の人物の思考のあとを再現するような語り口でウルフの知性そのものが筆をとっているような豊かさがある。

わたしにできるのは、せいぜい一つのささやかな論点について、〈女性が小説を書こうと思うなら、お金と自分ひとりの部屋を持たねばならない〉という意見を述べることだけです。(ウルフ『自分ひとりの部屋』片山亜紀訳 平凡社ライブラリー p10)

ウルフのこの書物のタイトルの意味するところはこの一説を読めば分かる通り、女性の経済的な自立、環境的な変化が無ければ女性が小説を書くことなど出来ないのだ、と述べる。

シェイクスピアはグラマー・スクールに通わせてもらえた。ではシェイクスピアに文学に目覚めた妹がいたら、彼女はグラマー・スクールに通わせてもらえたのか?以上のような思考実験を踏まえて、軽快にウルフは語る。

結局、自室を持てるほどの経済的な豊かさと周囲の理解が女性を支えない限り、彼女がどれほどの才を持とうとも、彼女の筆がしたためたものが正当に価値を認められることは、まず無いのである。(男性はほとんどの場合自室どころか、煩わしい家庭から一時的に開放される別荘すら持てたのに!)

さて、川野の歌はもちろんこれを踏まえていよう。「ヴァージニア・ウルフの住みし街」はロンドンなのか、あるいは別の町なのか、ウルフの伝記的事実に明るくないから判断を控えるけれど、それはさして重要な事柄ではないだろう。ここで考えたいのは、旅行で訪れた宿で眠るときに、自分ひとりの部屋が与えられていたということだ。もちろんここでは、旅愁も手伝って自分の来し方についての思いが巡らされているだろう。おそらくそれは、20世紀初頭を生きたウルフよりは恵まれた環境にある自分についての思考のはずで、旅先だけでなく日常に戻っても、作中の主体には自分ひとりの部屋が与えられており、自室にはそれなりに書籍の詰まった本棚が置かれているはずである。主体が行っているイギリス旅行のような海外旅行も、20世紀初頭の女性には与えられなかったものだ(トルストイが文学的な経験を積極的に積むことが出来た一方、女性はそのような自由がなく狭い経験の筐の中で書かざるを得ないことを、ウルフは同じ著作の中で嘆いている)。これらに鑑みると、なるほどウルフよりは恵まれた環境にあるに違いない。

作中主体はいちにちの疲れに目を瞑り、身体の力を抜きながら再び思考を巡らせる。いや、本当にそうなのだろうか。ウルフよりは恵まれた環境にあるのだろうか。ウルフが20世紀初頭に言い止めている男女間の格差や不均衡は、2020年の現在、どれだけ妥当なものになったのだろう。『自分ひとりの部屋』がそれなりの鮮度を保ちこれだけ読まれる世界、フェミニズムを題材にとっていること自体が評価される要因の一つとなり、歌壇賞が与えられる世界。そういうものに対しての静かな思考の渦が、夜の底に向かって降りていくのが、この歌なのではないだろうか。

文語の律をとることが川野の歌において大きな意味をなすのは、歴史的に口語が引き受けてきた弱者の声や等身大性の伸びやかさに対して一定の敬意を払いつつ、しかしそうではない位相で、いわば「闘う」ための律であるからだろう。それは文体の選択というよりももっと社会的かつ(矛盾するようだけど個人的な)ものであり、エクリチュールの問題と言っても差し支えない。ぼくは、この態度がウルフの共有財産的な文体の選択(それでいてドルフィン・ジャンプなどの三人称の心理描写がとても前衛的なわけだが)とも非常に重なる気がするけれど、これくらいで筆を置くことにする。以下感銘を受けた歌。

思惟をことばにするかなしみの水草をみづよりひとつかみ引きいだす 
折りたたみ傘のしづかな羽化の上(ルビ:へ)に雷のはるかなるどよめき
ゆゑ知らぬかなしみに真夜起き出せば居間にて姉がラジオ聴きゐき
海底がどこかへ扉をひらいてるあかるさ 船でさえぎり帰る
ねむるーーとはねむりに随きてゆく水尾(ルビ:みお)となること 今し水門を超ゆ

記:柳元

秋茄子に入れし庖丁しめらざる 川崎展宏

所収:『観音』(牧羊社 1982)

茄子といえば瑞々しく、秋茄子ならば身がひき締まり旨味も詰まる。だから詠まれる句の多くは新鮮さに対する驚きが中心となるのだが、それはイメージに引っ張られてしまい実物が見えていないのかもしれない。瑞々しく庖丁を湿らすだろうと期待しながら切り込んでみる、と思ったよりも濡れていない。そのがっかりとした表情がかえって秋茄子という物の姿を浮び上がらせる。

もし実物が先にあるならば当然のことしか言っていないが、俳句を読むうちに勝手に作り上げているイメージがある。実際に触れてみることで違うと分かった。イメージに裏切られた、その驚き。

記 平野

レモンティー雨の向うに雨の海 太田うさぎ

所収:『俳コレ』 邑書林 2011

「ティー」「向う」の長音(という表現で合っているだろうか)の連なりが、伸びやかな印象を与える1句。

この句に書かれている行為は何気ないものだけれど、レモンティーを淹れる時間と雨が降り続く時間、そして雨で白く靄がかかる景色とその向こうに広がる海と、読み解いていくと時間と空間が静かに広がっていく。

見えない物に思いを馳せると言う行為は非常にロマンティックな匂いがするものだが、取り合わされたレモンティーが、そのロマンティックさを保ちながらも日常の何気ない風景に地に足をつけるように働いているのが非常にうまい。

文体も内容も秋のゆったりとした空気を感じさせてくれる1句だ。

記:吉川

こうねんは きょり あげはちょう いたんで いく 福田若之

所収:『自生地』(東京四季出版、2017)

 すべて平仮名で記されていることや、一字空きの連続でスピードアップ(またはその逆)していることの、表記的な面で目に留まる作品である。個人的には、字空きにはいくつかの種類があると思っていて、これはその中でもシンプルというか、意味どおりに切られているものだと思う(他には、意図的に意味や発音を破壊するために、無秩序に切る字空きもある)。ふつうの(?)形で必要とされる一字空きは、「きょり/あげはちょう」の意味が切れる部分だろう。敢えて他にも切られていくことで、連続する写真のように、切れながら(明暗繰りかえしながら)(まばたきのように)続いていく様子が想起できるようになっている。

 奥坂まやの〈芒挿す光年といふうつくしき距離〉(『縄文』2005)もあるが、「光年」という言葉の持つ美しさに加えて、美しさのもっている暴力性みたいなものにも目を向けて詠まれており、単純に蝶が光のなかにいるような美的な作品に留まることなく、光の句でありながら十分に影も感じられるような深みのある句であると思う。

 モンシロチョウのような小さな蝶であれば、傷んでいきそうな気もするが、あんなに光に慣れているような大きい鳳蝶でも、光年という「きょり」には傷んでいってしまうのは驚きがある。光に対する蝶の習性も思わせられながら、美しさとその影が同時に迫ってくる、鋭い一句であると思う。

記:丸田

縊死もよし花束で打つ友の肩 小宮山遠

 所収:『頂点』34号(出版年不明、分かり次第追記)

アンソロジーが組まれる際の政治性や恣意性に愚痴を吐き酒を煽る俳人は一定数いるようで、なるほどそれによって形成されるグルーピングが生んだ悲劇というのは確かにあるだろう。例えば一般的に昭和30年世代というときに夏石番矢が含まれないということはよく指摘されるし、夏石番矢が外されたのは俳壇政治的な判断があったのだろうという推測もよく聞く。俳壇が清らかな水の拡がるコミュニティでないことは百も承知だから、これらを一概に無益な物言いだとは思わないけど、ただこう言ったアンソロジーが産む悲劇を救うものもまたアンソロジーなのであろうし、アンソロジーはそうあるべきだと思う。

というのも掲句は、塚本邦雄の『百句燦燦』に取り上げられているものであり、恥ずかしながら筆者はこのアンソロジーがなければこの作者のことを知らないままだっただろう。小宮山遠は1931年静岡生まれで、高校在学中に秋元不死男を知り、「氷海」創刊と共に参加している。冨田拓也が豈に連載していた俳句九十九折では、斎藤慎爾や江里昭彦らが推すもののやはり現代においてはマイナーポエットと呼ぶしかないという認識を示されていて、しかしながら10代にして強靭な文体を持つ早熟な天才として広く覚えられてよいのではないかというかたちで評を付けている。

掲句も、私小説的なのか擬私小説的なものなのかは分からないけれども、そういう勘繰りは無用に思えるほどの充実がある。立ち上がる景は幾つかあって、縊死をするのが自分なのか友なのかによってぶれはするだろう。塚本も書くように、縊死をするのが自分なら、骨を拾ってくれよという意味合いで友の肩を叩くことになるだろうし、逆に友が縊死をするなら、またそれもよしと、花束で友の肩を叩くという、並々ならぬ友情としか言えない何かがある。主体がぶれるというのは通常俳句では嫌われるから、むしろよく塚本が拾ったものだと感心した。

記:柳元

入口のやうにふらここ吊られけり 齋藤朝比古

所収:『累日』角川書店 2013

ぶらんこのイメージとは非なる不気味な1句。

私は齋藤の句を『俳コレ』(邑書林 2011)でしか読んでいないので句集を読むとまたイメージは変わるのかもしれないが、端正でありながらどこか無気力、気怠げな印象を受ける。

自転車にちりんと抜かれ日短
どんど火に地球儀とけてゆきにけり (いずれも『俳コレ』より)

1句目は自転車に抜かれるというなんでもない事を「ちりん」という擬音で軽みを持って表現している。2句目は物が燃える刺激的な光景ではあるのに対し、描写は「溶ける」というシンプルな動詞と、句の温度感は1句目とそう変わらないように見える。
上記のような物事の把握、表現がどことなく大づかみな句が並んでいることで、周りの事象を少し離れてぼんやりと見る視線が見えてくる。

そんなぼんやりとした視線が異界を見つけてしまった、というのが掲句だ。〈自転車〉や〈どんど火〉の句と変わらない力みのない視線だからこそ、異界は摩訶不思議な事象のまま、より強烈な印象を残す。

記:吉川