黄昏のふくろう パセリほどの軽蔑 小池正博

所収:小池正博 編『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房、2020)*アンソロジー

 黄昏のふくろうと、パセリほどの軽蔑、の衝突。美的だと思った。
 読者のことを信頼しきっているようにも、挑戦してきているようにも見える。

 このふくろうと軽蔑は、どれくらいくっついているのか、離れているのか。
 ふくろうが、何か(人間とか、世界とか)に対して軽蔑しているのか、何かがふくろうを軽蔑しているのか。それによって「パセリほど」の威力が変わってくる。
 離れているとしたら、ふくろうと軽蔑は全くの別の話となり、句の上で急に合体したことになる。そうなると、一枚の絵を見るような読み方が良いのかもしれない。

 何かぼやぼやとした鑑賞文になってしまったが、こういう句の鑑賞は非常に難しい。コラージュ作品を見ているような。ある絵とある絵が切り取られて同じ場所に引き合わされたとき、そこにどれだけ意味を付与していくべきなのかが、作品を見ているだけでは分かり切らない。そこは評者の領分となるのかもしれないが、私はこういう句に対しては意味が無ければ無いほど面白いと思ってしまうタイプで、どうしても口がもごもごしてしまう……。

 それで言うと、「パセリほど」には意味があるような気もしている。例えば俳句で言うとパセリは季語で、〈摩天楼より新緑がパセリほど/鷹羽狩行〉、〈抽象となるまでパセリ刻みけり/田中亜美〉などがある。本当に小さいどうでもいいもの、という感覚ではあるが、それにしてはどこか可愛げ(緑で、あの小ささにして食材に彩を与える……)である。どこかそれは、「ふくろう」から導かれた気がする。「黄昏」と「軽蔑」というやや強い感じの単語に挟まれるようにして、やや可愛げな「ふくろう」と「パセリ」。
 だから何かがあるわけではないが、「パセリほどの軽蔑」とすることで575から逸れてしまう分の韻律が、その挟まれた可愛さに似通うような気がする。

 見ただけで切れるようなシャープさと、甘い黄昏のやわらかさが妙な味わいを演出している心地いい句である。
 川柳には分かりやすく語りやすい面白い句と、語りにくい不思議な句があるが、そのどちらもを積極的に作っている作家がいるのがさらに面白い。今回挙げた小池正博もその一人で、〈君がよければ川の話をはじめよう〉〈たてがみを失ってからまた逢おう〉がある中、〈気絶してあじさい色の展開図〉〈変節をしたのはきっと美の中佐〉などがある。
 いや、「君がよければ」も実際はよく分かりはしないし、「あじさい色の展開図」を語りつくせるような気もする。分かる/分からないの前提からいちいち考え直さなければならなくなるような、川柳の圧に、今は無言で酔っていたい。黄昏のふくろう…………。

記:丸田

半日もあれば愛せるゆでたまご 石部明

所収:小池正博 編『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房、2020)*アンソロジー

 半日あったら愛せるとは言うものの、わざわざゆでたまごを愛するのに半日分未来に予約を入れるほどではなさそう。その微妙なゆでたまごとの距離感が可笑しい一句である。

 このフレーズがどうやって出てきたのかを考えるために、主体が質問された状況を想定するとしたら、その質問は例えば「ゆでたまごは好き?」ではいけない。好きかどうかを聞かれたら、好きか嫌いかどちらでもないになる。愛しているかと聞かれても、愛している/愛していないになってしまう。
「半日も」が出てくるには、時間や程度が聞かれていることになるだろう。「ゆでたまごを愛すことになるとしたら、どれくらいの時間が必要?」と聞かれるのが一番自然なような気がするが、その質問自体変てこな質問である。
 誰かに尋ねられた返答ではないとしたら、ゆでたまごをひとりぼんやりと見つめて愛せるなあ……と思ったという、それはそれで変な発想である。

「半日も」。「半日も」がずっといい意味で引っかかる。「半日もあれば愛せる」という言い方は、半日足らずで愛すことが出来て、それはかかっても半日だ、「ましてそれ以上の時間はゆでたまごを愛すのに必要ない(、半日でもかかりすぎくらいだ)」くらい言っているように聞こえる。
 ぱっと見だと、ゆでたまご愛に溢れるかわいらしい句のように見えるが、意外とそうではない。ゆでたまごなんかにこんな発想をしている滑稽さの方に重きが置かれていて、微妙にゆでたまごへの(気の利く)悪意のようなものまで感じられる。でも、なんだか憎めない。これはこの主体の雰囲気から来るのか、「ゆでたまご」から来ているのか……。
 こういう句を目にすると、自分だったらどう作るだろうかと考える。「半日をかけて愛してゆくたまご」とか、「一年をかけて愛したゆでたまご」とか、「ゆでたまご愛しつづけること半日」とか。これらの改作例を考えてみると、上五中七の素直さと意地悪さの両方を兼ねた表現の魅力がさらに分かってくる。

 石部明の川柳に現れる、他に言おうとしていることの気配の、豊かさ、面白さに驚かされる。〈縊死の木か猫かしばらくわからない〉のような、単語や光景の単純なパワーで圧している句もいいが、私は、〈朝方の鳥かごにまだ鳥がいる〉、〈そのあとに転がる青いくすり瓶〉、〈やわらかい布団の上のたちくらみ〉などのような、静かに振舞っているが、言わんとしていることたちが後ろでこちらを睨んでいる句が非常に優れていると思う。

 ゆでたまごの句とは関係ない話になるが、所収として挙げた川柳の本は、日車や半文銭から八上桐子、柳本々々、暮田真名まで収録されている非常に豊富な良アンソロジーになっている。アンソロジーといえば『現代川柳の精鋭たち』(北宋社、2000)があるが、既に手に入れづらい本になってしまっている。今回こうしてライトで且つ潤沢なアンソロジーが出たことを、いち川柳ファンとして嬉しく思う。ぜひともおすすめしたい。

記:丸田

うつうつと最高を行く揚羽蝶 永田耕衣

所収:『驢鳴集』(播磨俳話会 1953)

程度を表す語としての「最高」が空間を示すように使われ、うつうつとした気分と組み合わさることで、転じて躁になりうるような感情の緊張が表現される。蝶の中でも大きな揚羽蝶が重たげで、なかなかに不気味である……というような解釈をして楽しんでいたのだが、先日、小島信夫の評伝『原石鼎』を読み、もしかしたら石鼎の「頂上や殊に野菊の吹かれ居り」と重ねて読むことが可能ではないかと思った。

もちろん、それは構図として「頂上」と「最高」が似ていて、神経衰弱に苦しんだ石鼎の状況と「うつうつ」が重なるからなのだが、その他にも以下の理由がある。

評伝『原石鼎』の中で、「頂上や殊に野菊の吹かれ居り」は、深吉野時代の代表句でありまた「景色とうつる世界と一体」になった「石鼎開眼」の句として扱われている。著者である小島信夫は九十歳になった耕衣のもとを訪れている。耕衣は言う。

「虚子は、〈頂上や〉の句には冷淡だね。『進むべき俳句の道』では評釈をしているが、景色としてみているだけで、身を挺して中へ入りこむということをしていないな。そう思わないか。安全なところで眺めている。ぼくは神戸新聞に書いたことがあるが、そこで〈頂上や〉の句は、〈人間不在の風景〉だといった。虚子は巨大な人ではあったがそういうことはわかろうとはしないな」

この〈人間不在の風景〉は「景色とうつる世界と一体」になることと似た意味をもっているだろう。耕衣は石鼎の「塵火屋」に一時期投句をしていた。耕衣の「うつうつと」にも同じく、自然の中へ人間が入っていき、自然の存在として一体化しているような境地が伺える。このとき揚羽蝶から「胡蝶の夢」が思い出されるのだが、もしかすると最高を行く揚羽蝶は耕衣その人だろうか……

小島に同行し、石鼎のことで様々な解釈を与える神林良吉が面白いことを言っていた。

「石鼎の句には、凡句、というよりも、愚句とでもいった方がいいような幼稚きわまる句が羅列されていることがあります。そのあとに目の覚めるような句が出現しています。あの人にとっては、その両方が重要なことだと思います」

これは耕衣にも同じことが言える。「うつうつと」に至るまでに「無力にてつめたくしたり黄揚羽に」「或る高さ以下を自由に黒揚羽」「揚羽よりいつも近づき来たるなり」の句が並べられ、耕衣の世界もまた混沌としている。

ところで小島信夫の評伝『原石鼎』だが、すべての資料を総覧して書くのではなく、自らの足場を読者と一緒に確かめながら書き進めるという、小島信夫特有の読みづらい、しかし誠実とも言える書き方がなされていて、ちょっと慣れが必要である。とはいえ、石鼎の周辺が石鼎に及ぼす影響や、石鼎の興味がどこに向かってどのようにうごめくか、といった精神の遍歴を追っていく視線は、小説家ならではのものがあり、その深度もまた小島信夫一流のものである。ある種の俳句の「外」から見えてくる世界が伺える面白い一冊だった。

記 平野

園丁の一緒に浸かる犀の水 田川飛旅子

所収: 『使徒の眼』角川 1993

 無季の句である。庭師が犀と一緒に水に浸かっている。ここでは動物園の景を想定して読むのが妥当だろう。「犀の水」というやや窮屈な言い回しはおそらく犀を飼う一帯に整備されている水辺を指すと思われる。あわれ犀たちはアフリカのゾーンとでも名付けられて駝鳥と一緒に囲われているのかもしれない。

 俳人歌人詩人みなモチーフとして犀を好むのは感覚として何となく分かるところがある。かつて地上を闊歩した恐竜を思わせるような巨体とするどい角、そして悲しげな瞳に、形容しがたい叙情を感じるのだろう。今では地上に存在する犀は5種のみであるが、昔は240種もの犀が南極大陸を除く全ての大陸で幅を利かせていたらしい。盛者必衰、栄枯盛衰、諸行無常である。今はレッドリストに載るまで数が減ってしまった。そういう対象として犀を捕らえた場合、おのずと詩情にどっぷりと浸った句が出来上がることが多く、そういうものはやはり食傷で読み手の気持ちをムカムカさせる。

 ただ田川飛旅子の場合は犀をもう少し可笑しく読んでいて、犀が水浴びしているところに園丁も闖入してくるのである。人間と犀が同じ水に使っているのは如何にものどかというかのんびりしていて、心惹かれるところがある。「一緒に浸かる」という直截的な言い方も、馬鹿馬鹿しくて好感が持てる。

 『使徒の眼』には〈浅蜊の殻に同じ柄なし個を重んづ〉という句もあって、これも面白く読んだ。

トイレの蛇口強くひねってそういえば世の中の仕組みがわからない 望月裕二郎

所収:『あそこ』書肆侃侃房、2013

 この「そういえば」の感覚が、望月の短歌にはよく登場する(以下引用はすべて同歌集)。

 立ったまま寝ることがあるそういえば鉛筆だった過去があるから

「そういえば」そうだった、と主体が思い出す。読者としては、そんなことを何故今になって思い出すのか、とか、何故そんなことが今まで忘れられていたのか、と思う。「鉛筆だった過去」をどれくらい真実のこととして受け取るかによって、「そういえば」の印象は変わってくるだろう。
 これらがもっとフラットに言われるとすれば、「そういえば」「から」のような強い因果関係を示すことなく、映像と感覚・感情をそのままくっつけて切れの部分に「そういえば」要素を受けとってもらうことになるだろう。それを敢えて「そういえば」と書くことによって、主体の感覚や性格が見えてくる。冷静だったり瞬時に判断するのではなく、行動の中でふと思い出して、そうだったなと思って、元の行動に戻る。行動はスムーズでも、思考が一瞬遠い所へ行く。この緩慢さが、独特の雰囲気を作り出しているように思う。

  十月一日
 メール一通送るエネルギーで他に何ができたか考える。

「十月一日」は詞書。この歌も、おそらくメールを打って送るという動作はふつうにしていて、ただ思考だけが徐行している。メール一通を送る程度のエネルギーで別に他の大きなことが出来るとも思っていない上に、 「メール一通送るエネルギーで他に何ができたか考える」エネルギーもまた無駄になってしまうことを、おそらく知っていながら考えている。ぼんやりと遅い。

 町中の人がいなくなる夢を見ておしゃれでいなくちゃいけないと思う

 この歌はその緩慢さがいい方に転んでいる作品であると考えている。上の句と下の句の間に、「夢を見たからそう思った」の「から」の部分が隠れているように読める。ふつうに考えて、そんな夢を見たところでおしゃれでいなくちゃ、とは思わないところを、この主体は直接つながってそう思っているという点が面白い所である。ただ、きっとこれも、夢を見てからそう思うまで、「そういえば」と思って、思考が飛んでいると推測する。そして「そういえば」が脱落して、夢を見たからそう思ったようなこの作りになって、また違う面白さが生まれたのではないか。

 最初の掲歌〈トイレの蛇口〉の歌では、トイレの蛇口をひねる行為と、「そういえば」と、「世の中の仕組みが分からない」で出来ている。これも「そういえば」が無くても成立はするだろう。しかし、「そういえば」。トイレの蛇口をひねることで自分の中である気持ちが発生して、思考が飛んで、「そういえば」そうだった、となる。立ったまま寝たり、メール一通を送ったり、蛇口をひねったり、そういう些細な行為で頭が引っかかる、行為と思考の速度差がある主体が見えてくる。「強く」ひねったことで世の中の仕組みの不可解さ・ついていけなさに考えがいったが、この主体であれば、弱くひねることでも、また違うところへ行ってしまうような気配がある。

 外堀をうめてわたしは内堀となってあそこに馬をあるかす

 このような歌も、「外堀をうめて」のあとに「そういえば」の感覚が見える。思考がどこかで自由に飛んで行ってしまう、そのポイントを探しながら読むと、望月の歌をより愉しんで読むことが出来るのではないかと考えている。 

記:丸田

重ねた時間優しい鳩が僕を踏む 浦賀廣己

所収:『自由律俳句作品史』(永田書房 1979)

感傷的でべたついているけれど、ここまでやられると味が出てくるのも確かで、しばらく句を前にして唸った。時間に裏切られると自分を見失う。いくらでも使いようのある時間を、なにか目標の一点に向かい着実に重ねていく。その目標がもしも一瞬にして消えたとしたら、これまで重ねてきた時間は無意味にも思える。句の中で裏切られたとは書かれていないが、実際には不可能である鳩、それも優しい鳩に踏まれることを希求する「僕」の感傷は見えすぎている。時間のうしろに置かれた、一拍とも、さらなる沈思とも取れる深い間が「僕」の痛みを生々しく伝え、なかなか腹にこたえる句と、はっとさせられた。

略歴によると作者は一九二三年生まれ、東京府立工芸在学中には「寒雷」や「風」に投句していたらしい。この大正末期から昭和始めにかけての生まれは、終戦と青春期が重なる世代であり、大きな価値観の変化を受け止め戦後を生き抜いた世代である。浦賀の言うところの「重ねた時間」にはそうした背景があるかもしれない。

記 平野

洗脳はされるのよどの洗脳をされたかなのよ砂利を踏む音 平岡直子

所収:短歌研究2020.1

口語という語り口の中でも色々な語り方があるけれども平岡氏が採用するのは怪しい作中主体を立ち上げるやや過剰なそれ。昼過ぎの喫茶店、隣席で繰り広げられる宗教勧誘やねずみ講にいそしむ中年女性のごとき作中主体の表象を手繰り寄せる翻訳調めいた仮構された語り口である。陰謀論めいた世界の秘密を教えてあげんとでもいって顔を近づけてくるような印象がある。この文体が、怪しげな意味内容を支えるのである。

「洗脳」という語は考えてみればものすごい語である(おそらく成り立ちはbrainwashingの翻訳語なのであろう)。脳を洗うという行為は、洗う側も洗われる側もそれなりの覚悟がいるだろうに、戦争や対立を好むこの人類という種族はいかなる時代いかなる民族においてもこれに類することをやってきた。しかも大抵、洗う側は倫理観が欠落している為政者かマッドサイエンティスト、あるいは機械的に従うだけのアイヒマンなのであるから、いつも脳を洗われる側だけが理不尽な恐怖に遭うのが洗脳という営為なのである。比較的穏やか、されど長期間行われる人道的な洗脳もあれば、短期間ではあるけれども薬物や電極を利用した鬼畜、悪魔の所業としか形容しがたい洗脳まで人類は幅広く開発してきた。けれどもそれらが如何にバラエティーに富み豊かであっても、凡人凡夫たる私のような人間にとっては避けれるものならばとことん避けたい、恐ろしいものの一つである。

しかしながらこの作中主体、洗脳自体は不可避なものであると囁く。まるでワクチンとか車検のような感覚である。洗脳はもう所与のものであるから諦めなさい、と。もうみんな洗脳というものはされていて、どの洗脳をされたのかにこそ、大事な部分があるのだ、と述べる。これ、考えてみれば「洗脳はされるのよどの洗脳をされるかなのよ」なのではなく「洗脳はされるのよどの洗脳をされたかなのよ」と過去形になっているところも何気に怖い。もうわれわれは洗脳済みなのであって、そこにわれわれの選択の余地はない。他人に植え付けられた運命に殉ずる運命論者にならざるを得ない。これは、学校や牢獄というものが、身体や精神を均質なものにすることで、従順な工場労働者や兵士を作るための装置であったというフーコーの指摘であるとか、江藤淳らが指摘する陰謀論としてのWar Guilt Information Programなどの諸々を下敷きにして鑑賞したくもなるが、もちろんそういう読みをせずともこの歌は立派に不気味である。

それから「砂利を踏む音」というフレーズも何気ない言い方がされているけれども練られたフレーズだろう。この文脈におかれると、洗脳する中で用いられている何か反応を誘発する刺激としての音のような感じがするし、庭に巻かれる造園用の砂利は、砕いた後洗浄され綺麗にされたものであることを考えても、どこか洗脳という語と響き合うものがある。

記:柳元

山晴を振へる斧や落葉降る 飯田蛇笏

所収:『ホトトギス雑詠選集 冬』(朝日新聞社 1987)

からりと晴れた日射しのなか斧を手にして山へ行く。頭上に振り上げられた斧は日を受けてかがやき、力のままに枝木を分ける。くり返される行為はリズムを持って、音はさびしい木の間を抜けていく。リズムを持った人間の傍らで、自然は気ままに葉を降り落としている。そこにはなんの理屈も辻褄もない。熱を持っていく身体に坦々とした動作、乾いて粛々としながらも気ままな落葉、その対比が日射しで明瞭となる。龍太に「手が見えて父が落葉の山歩く」があるが、この句の父はぶらぶらとして気ままそうで、斧を振る者とは異なる、落葉のような冷え冷えとした父だと思う。

記:平野

手袋にキップの硬さ初恋です 藤本とみ子

所収:『午後の風花』文學の森 2013

手袋越しでも切符の硬さを感じとるなんて、この句の主体の感覚は(恋故にだろうか)非常に鋭敏になっているのだろう、と最初は読んでいたが調べてみるとどうやら違うような気がしてきた。
自動券売機登場以前に使われていた電車の切符は硬券と呼ばれ、厚紙のため今の切符よりもしっかりと硬いらしい。
この句は硬券があった時代の初恋、と解釈した方がいいだろう。

私自身は硬券が使われていた時代を知らないので想像でしかない部分は多いが、学生の初恋だろう。
通学する電車の中で初恋の相手を見かけた時の胸の高鳴りと緊張の混ざったひたむきな思いがキップの硬さに集約されているような気がするし、素手よりも感覚がおぼつかない手袋の状態でキップをしっかりと握っているのも初々しさや真っすぐな思いを感じさせる。
上5中7のイメージを喚起する力の豊かさが下5の甘いフレーズが上滑りしないように働いている。

そしてこの句の肝、「初恋です」である。
突然句の中に現れる口語の真っすぐな印象は句の内容にマッチしているし、まるで現在のことかのように言い切る口調が、初恋をノスタルジーに取り込むのではなく、初恋をした当時の感情を生き生きと伝えてくれる。

記:吉川

飛び込みの水面が怖くなかった頃 神野紗希

所収:『すみれそよぐ』(朔出版、2020)

 文章の書き出しのような句であり、書きおわりのような句である。そうあの頃は――と言って思い出すようでもあり、かつての記憶が走馬灯のように湧いてきて、そういえばあの時は飛び込みをするなんて全く怖くなんて無かった――と思っているようでもある。

 前句集『光まみれの蜂』(2012)から八年空いて今回の句集が発刊されたが、結婚や出産という人生の大きなイベントに沿いながら、考えながら句が綴られていくものになっている。前句集と異なる感触として、自身の現状をかなりの頻度で回顧している印象がある。〈牡蠣グラタンほぼマカロニや三十歳〉のように、いま私は三十歳なのだ、という感覚、これが前句集には無かったように思う(今の自分がどうであるかを考えるよりも先に行動や発想に移っているような勢いの良さが、それはそれで前句集の魅力であった)。
『光まみれの蜂』では〈飛び込みのもう真っ白な泡の中〉、〈校舎光るプールに落ちてゆくときに〉という句があったが、これらとはまた違った局面を描いた、良句であると思う(「飛び込み」が、ではなく、「水面が」である点など……)。「なかった頃」の語感も、前句集を引き継いでいるようで個人的に感動した。

 全体として母として子に接する句が多く、句における口語性は幼稚さや世界を初めて目にした時のような新しさと合体しながら現れている。口語のそういう一面もまた新しい感覚として見られたように思う。

 他に〈子が蟻を踏んできょとんと死ぬって何〉、〈友の恋あら大変シュトレンの胡桃〉、〈鳥交るラインマーカーきゅうううう〉、〈産み終えて涼しい切株の気持ち〉など。

記:丸田