園丁の一緒に浸かる犀の水 田川飛旅子

所収: 『使徒の眼』角川 1993

 無季の句である。庭師が犀と一緒に水に浸かっている。ここでは動物園の景を想定して読むのが妥当だろう。「犀の水」というやや窮屈な言い回しはおそらく犀を飼う一帯に整備されている水辺を指すと思われる。あわれ犀たちはアフリカのゾーンとでも名付けられて駝鳥と一緒に囲われているのかもしれない。

 俳人歌人詩人みなモチーフとして犀を好むのは感覚として何となく分かるところがある。かつて地上を闊歩した恐竜を思わせるような巨体とするどい角、そして悲しげな瞳に、形容しがたい叙情を感じるのだろう。今では地上に存在する犀は5種のみであるが、昔は240種もの犀が南極大陸を除く全ての大陸で幅を利かせていたらしい。盛者必衰、栄枯盛衰、諸行無常である。今はレッドリストに載るまで数が減ってしまった。そういう対象として犀を捕らえた場合、おのずと詩情にどっぷりと浸った句が出来上がることが多く、そういうものはやはり食傷で読み手の気持ちをムカムカさせる。

 ただ田川飛旅子の場合は犀をもう少し可笑しく読んでいて、犀が水浴びしているところに園丁も闖入してくるのである。人間と犀が同じ水に使っているのは如何にものどかというかのんびりしていて、心惹かれるところがある。「一緒に浸かる」という直截的な言い方も、馬鹿馬鹿しくて好感が持てる。

 『使徒の眼』には〈浅蜊の殻に同じ柄なし個を重んづ〉という句もあって、これも面白く読んだ。

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