所収:『風とマルス』青磁社 2014
花山周子の歌を読むと、ひねる、ひねらない、ということを特に考えさせられる。いくつか引いてみると、(以下引用はすべて同歌集)
歯磨きはもう飽きたからやめようか、というふうにいかない人の営み
きみの声がさいしょっから好きだった池に浮かんだアヒルのようで
ひねることで、前半の映像や情報が強引に更新されていく。特に「というふうにいかない」の繋ぎ方は露骨なひねり方である。ふつうの、ノーマルに見かける短歌だと、それが「切れ」に合って、異なる二つの映像の重なり方を面白がるものが多い。
ひねる、という表現があっていないような気もするが、花山周子の歌はどこか素直ではない落とし方をしている。「池に浮かんだアヒル」とは褒めているのかどうか危ういところで、ダメそうなところを好きと思ったのか、そもそも本心からアヒルが好きで、だから好きと思ったのか分からない。(「池に浮かんだ」の言い方は完全にナメているというか、面白がる気持ちがあるように思われる)切れ、を持ってくるのであれば、君の声が好きということと、池に浮かんでいるアヒルの映像を別々で繋げることになる。これが「のようで」の倒置と「さいしょっから」という措辞によって、ひねりが生まれている。「きみの声がさいしょっから好きだった」というふつうの(普通、というと語弊があるのかもしれないが)恋愛的な歌と思わせておいて、後半で変える、その「思わせておいて」の部分が読みどころなのではないかと思う。「というふうにいかない」の繋ぎ方も、「歯磨きは飽きたとしてもやめられない」のようなスムーズな言い方を拒否して、敢えて少し驚くような(またはふつうの表現が来ると予想される)表現を見せておいてのもので、「思わせておいたよ」というアピールなのだと捉えられる。
この、ただの逸脱ではない、ふつうの振りをしておく、という部分が、花山周子の短歌の読みどころであるように思うし、ときに文語や旧かなを使うのもそういう役割を担っているように考えられる。
〈どうしても君に会いたい〉の歌は、そうして考えると、前半はふつうの歌っぽい表現である。(「昼下がり」という状況のわざとらしい付け加え方も、私としては回転する前のスケート選手の助走に見える)そして後半、「しゃがんでわれの影ぶっ叩く」。叩いたとして会えるわけでもないことを分かっていながら、本当に殴っているような描写。ふつうなら「会いたい」からする行為ではない。電話をかけるとか、「君」のことを想像するとか色々ある中で、「われの影ぶっ叩く」。「しゃがんで」という謎に細かい映像の作り方も面白い。まさか、通りがかりで見かけた、道でしゃがんで地面を叩いている人が、ほかの人に会いたがっているとは思うまい。
人に会いたい主体がいてもたってもいられないという、長い助走のあとで、奇妙な回転を見せられる。共感という尺度では測りきれない、「ひねり」の先の面白さが、しずかにさり気なく光っている歌である。
記︰丸田