文通:佐藤智子『ぜんぶ残して湖へ』感想(柳元・吉川)

柳元:佐藤智子さんの『ぜんぶ残して湖へ』(左右社・2021.11)を読んでいきます。吉川と二人でこういう形で句集を読むのは久しぶりですね。よろしくお願いします。
さて、巻末の佐藤智子さんのプロフィールを見ると1980年生まれ、2014年作句開始とのことです。栞によると、佐藤文香さんが講師をつとめていたワークショップがきっかけなのですね。そして3年後の2017年『天の川銀河発電所』(佐藤文香編、左右社・2017)に入集となっています。ややジャーナリスティックな物言いで恐縮ですが、『天の川銀河発電所』の編纂者でもあった佐藤文香さんの隠し玉的なかたちで登場した作家という整理は出来そうです。個人的には池田澄子ー佐藤文香ー佐藤智子というかたちで受け継がれているところの共通性、それから差異に興味があるわけですが、焦らずしっかり句集の話をしたいところです。
まずはお互いに気になった句について話しましょうか。

吉川:よろしくお願いします。まず好きな句を3句ほど挙げてみます。

いはむやをや塾の階段では涼む

いはむやをやって大仰に切り出した割には大したことは言わないっていうユーモアが好きですね。なんか切れ字みたいに機能してるのもおもしろい。塾と古語の相性もよいですし、学生の気だるげな感じが見えてくる。

明日降る初雪台所でしゃがむ

初雪の予報を聞くとたしかに前日から心がそわそわする。そのそわそわが、特別な動作ではなく台所でしゃがむという日常の行為に込められるのが自然で生の感触がありますし、どこか敬虔な気持ちさえ感じられる奥行きがあるのが好きですね。

食パンの耳ハムの耳春の旅

カタカナと漢字の配置で目のリズムもよいし、耳から耳へ、そしてハムから春への音とイメージの繋がりも楽しい。食パンとハムが並ぶとサンドイッチを想像してしまうのですが、耳つきの手作り感のあるサンドイッチは思いつきの気楽な一人旅を感じさせます。
口語の言いかけ感を切れ字のように使ったりと口語のリズムの作り方が楽しい句が多い印象でした。柳元はいかがでしょう。

柳元:ぼくもその3句好きですね。というか、私は句集収録の句はわりにどの句も面白がれたたちなので、格別この句が好きだということでなしに、今のコンデションの自分にフィットする句、というくらいで選びますね。そういう風にアルバムを聴くときありますよね。
まずは表題句の

炒り卵ぜんぶ残して湖へ

句集タイトル『ぜんぶ残して湖へ』は、いわばこの句の中七下五だけ取ったかたちなわけですが、集名だけ見ると煩わしい人間関係とか、仕事とか、そういうもの全てをいったん放置して、湖へ向かった印象を受けました。ただ句に即すると〈炒り卵ぜんぶ〉を残して湖へ行った可能性の方が、わりとリーダブルな読みとして立ち上がるわけです。句からとられた集名でありながら、集名は句とは別の意味として立ち上がるという、こういう集名の付け方は、楽しいなと。思えば佐藤文香さんの『菊は雪』と同じ集名の付け方ですね。

茄子漬がすこしふしぎで輝きぬ

これは写生という文体が、視点としての主体を構築するのだということを如実にあらわすなと。智子さんの句はどの句もその傾向がありますが、世界に対しての居心地の悪さ、ズレ、不思議さを抱えた主体が仮構されるつくりになっています。つまり、不思議な世界を描いているということではなくて、世界に対して不可思議さを感じる〈私〉に諸々が結果的に収斂してゆくというか。最近の小説家だと村田沙耶香さん的な感じをパッと思います。……という評に対して、〈たちくらみ不思議がりたいだけでしょう〉という句が自己言及的に周到に用意されているようにも思えました。

スニーカー適当に萩だと思う

とかも良いですね。凝視とか、観察とか、そういう極めて俳句的な視覚制度を遠く離れている感じがします。かといって、前衛のようにオルタナティブな〈言葉〉それ自体世界を志向するわけではなくて、視覚とか、思考とかの糸を緩めることでたまたま見えてくるものをその都度面白がる感じというか。
吉川は口語のリズムや機能に着目してくれましたが、ぼくは総じて、世界に対して不思議な認知をする主体、という自己演出の巧みさみたいなものを面白がったように思います。ぼくはだいぶそういうの気になるほうで、口語俳句とされるものの自己演出感はかなり苦手なんですけど、今回は全然鼻につきませんでした。むしろピュアさすら感じるというか。

吉川:挙げてくれた句の中では〈炒り卵〉の句なんかは表題句なんだけれど、表題句然とした風格をだすのではなく、「炒り卵」で少し外すその感じが良い意味で気になっていました。(句→タイトルの順なんでしょうが)
私としては口語のリズムとかよりも主体の方の話をしていきたいですね。
句集の主体に関して私が感じたことは柳元と多分同じで。句に含まれる動詞の選択から主体の存在が明らかな句は多いんですけど、そこで現れる主体はキャラを被ってる印象はないんですよね。口語と自己演出が結びつきやすい印象はあるけど、そうではない。むしろ、自分が挙げた〈いはむやをや〉の句や、〈あなミントゼリーに毒を盛られたし〉の句は古語を自己演出として意図的に使っていて。口語の方が自然体に見えるんですよね。
口語俳句の力みがない感じから、この方は文語→口語じゃなくて口語から俳句を出発した方なんだろうなあと勝手に思いました。

柳元:あ、そのキャラをかぶってないというのは面白い視点かもしれません。「キャラ(再起的同一性)」っていうのは、あくまでも再起的な同一性なのであって、他者とのコミュニケートするなかで、相互確認的に安定させるしかないものしろものと言われますよね。だからキャラを安定させるためには、他者との場に繰り返し身を投じつつけるほかないわけなんですが、智子さんの句集に出てくる主体は、どうもそういう、他者とのコミュニケーションによって、キャラを再起的に安定させなきゃ!みたいな営みを全然志向してないというか、自己同一性への欲求みたいなのが、すっぽり抜け落ちてる感じがします。そういう意味では、現代人がSNSで四苦八苦しているみたいなありようは超越している感じがするんですよね。わたしはわたしですし、というような感覚が、他者の回路を用いないでも、アプリオリにある感じがするというか。だから、キャラをかぶるかんじが無いのかもしれない。ただ、ネガティブな意味合いで言われる「他者不在」というのともまた違う気がしていて。このへんどう思いますか?

吉川:「キャラ(再帰的同一性)」についてはうすいまた聞きをしただけなので、100%同意とは言えないけれど言わんとすることはすごい分かる。この感じは佐藤文香さんが句集の栞に書いていた「お一人様でことたりる感」と通じるものな気がします。
自己同一性の確認を人間の他者に求めない場合、「暮らし」が一つの手段として考えられると思うんですね。実際「暮らし」がモチーフになっている句は多くあって、〈冬を愛すビオフェルミンのざらざら〉〈オリーブのすっぱいパスタ明日にする〉とか。「暮らし」をテーマに据えると「他者不在」に陥りやすい(私の直感ですが)。それは、生活圏内のものは「私が主体的に営む暮らし」という基準のもと、「私」に全て取り込まれ従属してしまうからだと思うんです。
この句集が「暮らし」をベースにしながらも「他者不在」な雰囲気を持っていないのは、もちろん俳句という詩形が「季語」という他者を要請するからっていうのはあって。でもそれだけじゃなくて、「私」と「句のモチーフ」の距離が他者の距離感を保っている句が多くあるのも理由なのかなと。<秋は今三十デニールくらい 川>なんかで考えると、秋を三十デニールと捉えるのは誇張して言うと「私」の思考の枠組みに「秋」を取り込むことなんだけど、「川」が挿入されることで簡単には終わらない。句に「私」という主体はいても句全体に「私」の気配が充満している句はそう多くはないというか。
かなり直感で喋りましたが、この句集の「私」の「他者」への態度というか距離感というか、それが柳元にはどう見えてますか。

柳元:なるほどなるほど。「暮らし」について補足ですが、「暮らし」という視座で俳諧、連歌や和歌などから振り返ると、基本的には古来から脈脈と「暮らし」が文芸のベースにはなってますよね。でも昔は中間共同体があったから、「暮らし」を送ろうと思ったら否応が無しに他者と交わらざるを得ないわけで、「暮らし」をしてても他者不在にはなり得ない。
でも、都市化が進んで、伝統的家業が没落して、核家族が増えて、中間共同体が没落して、となったときに現代の「暮らし」は、やっぱり吉川が言うようなものになってしまいますよね。現代の都市生活者って他者と交わらなくても、全然生きて行けるわけで。COVID-19でより実感しました。もちろんこういう現代的な暮らしは、配達員の方とか、エッセンシャルワーカーの方に支えられているわけですけど、とはいえそういう方たちも、〈顔〉のある他者というよりは、非個性的なシステムそのものと対峙してるように思えるような設計になっている。携帯の画面をタップするだけで配達員が来る時間を選べて、ドア越しに置いていってもらえるわけですから。
そう思うと、智子さんの句には、そういうシステムが人間を阻害している感じが、どことなく漂っている。〈コンビニの食べていい席柳の芽〉とか。仄かに生権力が匂う。智子さんの立てる主体が奇妙なんだ、不思議ちゃんなんだ、みたいなことでは実は全然なくて、むしろ現代「暮らし」の形式そのものが奇妙なことになってるんじゃないか、智子さんが立てる主体がむしろ正常であるゆえに、世界との出会い方が不思議にならざるを得ないというか。不思議がらないと終わりなので、不思議がって記憶することが抵抗体になってる。句集末尾を飾る

忘れない冬の眼科の造形を

とか、感動的ですよ。
他者の話に戻せば、〈他者不在〉になってるんじゃなくて、〈他者不在であること〉の奇妙さを描いてるんですかね。後者には批評性がある。だからいざ他者が登場しても、

おじいさんとわたしで食べるちいさな無

みたいなことになる。現代の「暮らし」に身を浸す主体によってそれを照射する。
まあ、現代が置かれている状況についての俗流批評にかなり引きつけてしまったけど、そういう風に同時代的な問題意識を、真摯に重ね合わせて読める句集がある、ということが、俳句においてはもはや感動的です。

吉川:現代日本の主体を描いてる句集だなという認識はなんとなくありましたけど、じゃあその現代日本の主体ってどういうものなのかを考えると確かに柳元の言う切り口はこの句集の読み解き方の1つとして考えられますね。ただその切り口一つでは捉えられない句も多いところがこの句集のおもしろさだとも思う。<昨日は雪雪の日に差した傘><バスマットとりこみクリスマスはじめる>とか。色んな句があるし、句集の表情がゆるやかに移り変わるように句が並べられてる感じもする。色んな句はあるんだけど基本的に「生活」がテーマになっている、というか逆な感じがする。「生活」にアンテナを隅々まで張るというアプローチだからこそ、コンビニという都市の風景も、バスマットを取り込むクリスマスっていう個別的な経験も同じ句集に自然に同居してしまったというか。単に時代を映す鏡であるだけでなく、そこに「私」も存在していて、更にはそこに「季語」もあってと色んな要素が縒り合わさってる感じが私にとって魅力的なんだなと気づかされましたね。

柳元:そうですね。むろん私のさっきの議論はかなり粗雑で、この句集の豊かなところを捨象してしまっています。おっしゃるとおり、「生活」にアンテナを隅々まで張るというアプローチだからこそのヴァリアントを作ってますよね。豊かで多面的です。蛇足なんですが、これで思い出すのは、劉慈欣(りゅう・じきん)のSF小説『三体』(早川書房・2019)に、「智子(ソフォン)」という超微粒子ロボットが出てくるんです。ネタバレを避けるために簡略な説明に留めますが(とはいえややネタバレになりますが)、これは異星人が、地球人を監視するために作成した智恵のある粒子状のスーパーコンピュータなんです。もちろん意識もある。この「智子」なる粒子が地球に張り巡らされ、地球人の体内に取り込まれ、いちばんミクロのレベルで、地球人の日々の生活が逐一監視されるんです。いわば密着取材ですね。で、異星人の微粒子スパコンからすれば、地球人の諸々なんて何もかもが目新しく不思議に見えるわけですよ。上手く言えないんですが、この句集、そんな感じないですかね……ないかなぁ。

吉川:『三体』今後読むつもりなので薄目で文章読んでますけど、言いたいことは分かります。この句集の観察態度をエイリアン側の視点だと思う理屈は分かるけど、かなり人間味もある句集なのでそういう表現がしっくりこない自分がいますね。

柳元:そうですね、伝えるのが難しいな。エイリアンめいていて人間味がないということでは全くなくて、キリンジの曲の「エイリアンズ」みたいなイメージですね。〈まるでぼくらはエイリアンズ〉というあのサビの歌詞は、同種の恋人同士が愛し合っているのだけれど、どこかで他者の他者性を感じている、ということだと思うんです。みんな同種で分かり合えるはず(というかたちで社会が構築され動いている)のにそもそも本質としてみんな他者という感覚、というか。だから極めて人間的なジレンマがある気がします。
まとめがこれではいけないと思うので、好きな句を引いて締めますね。〈喉きゅっとしまるほど今行きたい橋〉。こういう感情が、理性とか常識とかに抑圧されず、嘘くさくない身体性を持って知覚されることを追体験させてくれることが、すごく嬉しかったです。

吉川:自分もその句好きですね。最後の橋でそこまで閉塞感のあった句がいっきに開けてくる構成が内容とマッチしている。
まとめではないですが、天の川銀河発電所で作品を初めて拝見した時とは印象が変わりました。それは句集としてまとめられることで自分が新しい読み方を発見できたからで、句集という形式ならではの旨味を再確認しました。
語れていないトピックもありますが今回のところはここで締めとします。ありがとうございました。

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