所収︰『ビットとデシベル』書肆侃侃房、2015
とにかくカッコいい歌である。どこがというと、まずは目で見て分かる「二十一世紀の冷蔵庫」の物のかっこよさ。昭和、またそれ以前の年代を生きた人から見た未来としての「二十一世紀」は何だかハイテクな最先端の雰囲気があり、まさに二十一世紀のみを生きる現在の者として見ると改めて現在を再認識しようとするその視線がクールだと思える。もっと言えば、数百年後(地球という世界、文学というものがその時まで残っているとして)から見た大昔としての「二十一世紀の冷蔵庫」も、また丁度よく古びた味がありそうで良い。
わざわざ「二十一世紀の」と言われると、自分もたいして知らない冷蔵庫史なるものに思いが馳せられる。並んでいる冷蔵庫にも歴史があり、その進化の途中の冷蔵庫が目の前にあるわけである。そこで観光客のように感動するのではなくて、その「名前を見ている」。なんともあっさりしていて、カタカナや英語の、もう何が何だか分からない造語を目にする。まるで、「冷蔵庫」に目が留まったんじゃなくて、「名前」だけがボンッと飛び込んできてどうにも気になって立ち止まった、というふうに見えてくる。この奇妙な主体、ただなんとなく気持ちは分かる……というへんてこな共感で満たされる。そう思うと、「二十一世紀の」というのはなんだか馬鹿にしているようにも思える。内容だけでなく名前までも、よく分からないものになってきている、というような(「名前を見ている」だけであるから、主体が実際その名前に対してどう思っているかは分からない。かっこいいと思っているのか、かわいそうに、と思っているのか、はたまたダサいと思っているのか……)。
かっこいい点二つ目として、声に出したときオーバーする韻律と、それに内容が巧く合っているところがある。この歌をどう声に出して読むかは人によって違うかもしれないが、私は〈よるのえきに/とけるようにおりていき/にじゅういっせいきのれいぞうこのなまえをみている〉という風に読んでいる。こうしたときの下の句の溢れ方が、「溶けるように降りてい」く主体の様子と重なって、のろのろとした夜の空気感が十全に伝わってくる。一方で、「溶けるように」と言いながら「二十一世紀の冷蔵庫」というシャープな(文字だけ見てもキリっと締まったような)空気のあるフレーズが差し込まれることで、自分は溶けるようでありながら、そこにある冷蔵庫はただそこに涼しく佇んでいるという対立が生まれて、一首の世界がより深まっている。この温度差・速度差が、さらっと述べられているところがクールである。
そして、一首をもう一度上から読みなおすときに深く気づく、「夜の駅に溶けるように降りていき」、「冷蔵庫」の映像のつなぎ方が秀逸である。「冷蔵庫の名前」ということは、冷蔵庫が見える場所に来ているか、冷蔵庫の宣伝や広告を見かけていることになる。私は「名前を見ている」ことの臨場感を得たくて、電器屋の近くを通りがかって見かけたのだろうと想像している。状況の視線の誘導のさせ方、駅~冷蔵庫の距離感が良い。
ここまで書いていて初めて気がついたが(何十回も見て読んでしていたはずが)、私は完全にこの歌を「夜の駅を」として読んでしまっていた。駅から降りて、のろのろと歩き、電器屋に差し掛かったところで、そこに飾られている冷蔵庫の名前がパッと目に入って見ている、という景を想像していた。
しかし本当は「夜の駅に」であった。そうなると、駅に向かって溶けるように降りて行っているため、もしかしたら坂の上など位置的に上の場所から駅に向かって降りていき、駅にどろどろと入り込んで、そこで冷蔵庫の名前を見ていることになりそうである。そうなると、この冷蔵庫の名前はどこで見かけたことになるのだろう。駅の宣伝ポスターにあったのか、電車に乗りながらスマホなどで冷蔵庫を調べて名前をぼんやりと見ているのか。いずれにしても、名前に気になっている点は不思議な主体である。ひとえに自分の誤読のせいだが、急に場所が分からなくなってくる。頭の中で主体が溶けるように脳内を彷徨している。
主体はどこで(何で)、なぜ「二十世紀の冷蔵庫の名前」を見ているのか、そしてどう思ったのか、これからどこへ向かうのか、冷蔵庫の名を見て思ったことはその後の主体の歩みにどう影響していくのか。語と韻律と世界が冷たく、そして長く光る一首である。
記︰丸田