所収:『カルナヴァル』草思社 2013
七十匹ではなく、「七十にん」。「赤い」蝶々。それが「今日」来る。
蝶がこちらに舞って飛んでくる、ふつうの微笑ましい光景とは違って、あきらかに雰囲気から異質なものになっている。
この蝶たちはなぜそろってこちらにやって来るのか。「今日来る」と語っている人物(?)がいることを想定すると、今日蝶が来るということは予定されていて、それをその人物は知りえたということになる。それを、「、ネ、」と念押しでこちら(主体か、もしくは読者)に対して教えてくる。いじわるなのか親切なのかも分からない。
今日来ると言われて、こちらはどうすればいいのか。想像したこともない光景だが、「七十にん」と妙に具体的な数を出されると、危険が差し迫っているような感覚に陥る。そもそも、そのやって来る蝶は自分(たち)が知っているような蝶なのか。巨大な、まがまがしい、妖怪のような蝶だったりしないか。「にん」というからには、人間のような四肢を持ち合わせてはいないか。
こちらに来たとして、話は通じるのか。
そもそも、こちらに蝶が来ると知らせてくれているこの人物とは、話が通じているのか。この人物は、狂気の中に居て、蝶が来るという妄想に襲われて、それをこちらに喧伝しているだけなのではないか。そうであれば、こちらは聞き流せばいいのかもしれない。でもなんとなく、「今日来る」という言い方には現実的なものを感じる。今そこにいる、ほら見て、などと言われれば、いや居ない、あなたの幻覚だというふうに無視することも可能かもしれないが。これは来ますよ、という「告知」「予定」を話している点が、妙に本当らしさを与えてくる。
俳句作品としてこれを見たとき、この蝶は単なる幻想として捉えられて、季語としての実感、季感、力が薄いと評価されるのかもしれない。私も季語が季語として効いているかと言われればそこまで効いていないと思う。そして型から見ても、7音が連続してそのなかに「ネ」が挟まれている形で、575の定型からはずっと大きく逸れている。
この作品において、私たちがどれほど真剣にこの人物の言明に耳を傾け、どれだけ現実のこととして想像するかによって、その働きは大きく変わってくる。この「蝶々」が、見えるか見えないか、それは想像力にかかっている。
記:丸田