所収:『種の起源』(雁書館、1993)
私は、早川志織を〈傾けて流す花瓶の水の中 ガーベラのからだすこし溶けたり〉の歌で記憶している。このガーベラの歌もそうだったが、ほかの植物の歌を見てみても、一見とても優しい雰囲気を帯びている一方で、もう一度読み直すと、どこかうっすら恐怖を覚えるような景色が広がっている。
たとえば、〈おかしさがこみあげてきて花ミモザふるえるように笑い始める〉は、隣に恋人でも置いて想像すれば可愛い光景だが、「ふるえるように」「始める」というのが、喉にかかる魚の小骨のように気になる。「花ミモザ」の(短歌的、とも言えるが)突然のカットインの仕方と、ぶっ壊れたみたいな笑いだし方には、すこし怖さもある。多分、くすくす笑うときの、笑いはじめの感覚を、花ミモザの優しい感じに付けて言ったのだろう、とは予想はできる。……が。
〈欲しいものはこうして奪う 校庭の柵に絡まる明きヒルガオ〉、〈視姦されているのだろうか 振りむけばキダチアオイが陽射しに揺らぐ〉など、スパッと切るような言葉に、ゆるやかな景色の付け方がなされている。この植物が強引に姿を現してやまないこと自体にも、私はどこか怖さを思う。キダチアオイがとても怖い。
ほとんどの歌に植物が入っていることから考えて、〈やじろべえに〉の歌は、どんぐりなどで作られたやじろべえを想起すればいいだろうか。これもはっきり、片方でスパッと思ったままにストレートに言って、片方なだらかに詠っている作品である。
私にはどうも、この「やじろべえになってしまいたい」が涼しい。初めて見たときは、主体がとても可愛い様子で手を広げて線路をバランスを取りながらてくてく歩いている様子を思い浮かべた。
しかし改めて読むと、怖いというか、思ったままのパワーが感じられる。「なりたい」ではない。「なってしまいたい」、である。
ガーベラの体が溶けていくのもそうであるし、〈今日われはオオクワガタの静けさでホームの壁にもたれていたり〉もそう、やじろべえもそうである。植物や動物が、何か(私やほかの物質)と接して境界がどろんと溶けて感覚を乗っ取るような、早川の独特の歌のキレとまろやかさに、私は夕方の帰り道何かの気配がして振り返った時に何もいなかった、あの冷たい夕方の感覚を思い出す。
記:丸田