
人だかり 平野皓大
春は地図赤ピン立つてそこは海
銀杏にかかりてたわむ凧の糸
ぶらんこを押す父親のよそ見かな
夏蜜柑手押しポンプも街も残る
のどかさに人だかりあり馬賭博
大試験迫るかかとをそろへ立つ
春の夢唇に塗らるるもの苦し
遍路よりさらに大きな回りもの
鋸のあとおにぎりや花の雲
裏をかへして一枚の卒業証書
短詩系ブログ
人だかり 平野皓大
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銀杏にかかりてたわむ凧の糸
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間拔獺讚 柳元佑太
四方八方【あちこち】に魚祀りけり獺【をそ】の村
絕滅の獺の祭を見に來しが
微よ風に假眠る獺や祭笛
間拔獺祀りし魚を忘れけり
獺も又た酒神もてる祭の日
夕暮の獺の祭の小盃
祭獺愛し合ふとき靜電氣
天體や氣海を充たす獺祭
巨き獺來て人間を祀らむや
獺の喪を修す獺祭てふ酒に
テーマ:川柳について
(1/9〜2/5、メールにて文通)
平野:今回は洋渡くんに川柳の話を聞こうと思っていて、僕は初心者なわけですね。書肆侃侃房から出版されている『はじめまして現代川柳』を読みかじったくらいですが、はっきり言うとあまり面白いとは思わなかった。それは読み手に伝えようとするものが、川柳はどうも曖昧な気がしたからです。読んでいても欠点ばかりが目について、川柳の言葉の良い点を自分のセンサーでは拾えなかった。なのでどう読んでいけば良いか、その手掛かりになる話が出来ればと思っています。(こちらから例句をあげてここが悪いという話をした方が丁寧だけど、こちらが句をあげて悪いところだけ言うのはフェアじゃないので、まずは洋渡くんの好きな句を聞きたいです)
丸田:僕も川柳については本当に初心者で、好きなように読んだり作ったりしているだけなので大したことは言えないですが……。好きな句は帚でも鑑賞したんですが〈藤という燃え方が残されている/矢上桐子〉。藤を「燃え方」の一つに捉えて、「残されている」とした、この二段階の操作がかっこいい。詩みたいな言葉の使い方だなと思います。残されているからどうなんだ、っていう後々の話が見えない感じが「藤」とマッチしてて、徹底されていて良いなと思う。一方で、〈花火 これ以上の嘘はありません/福田文音〉こういう句も好きで。「花火」っていう使い回された詩語を否定してはいるけど、結局この句は「花火」の恩恵を受けちゃっていて。俳句を踏みながら、でもフォローしてるみたいな変な句で好きですね。
詩みたいな、言葉自体の自由度の高さ&季語からの自由さ、に良いなと思っています。結構、俳句と比べて、面白がっている節がありますね。同じく俳句をやってて面白がれなかった、平野くんのその「読み手に伝えたいものが曖昧」と感じた辺りを詳しく聞きたいです。(曖昧、欠点については僕も話したいとこですが取り敢えず)
平野:もしかしたら「読み手に伝えたいものが曖昧」という語を使ったこと自体、川柳を読めていないのかもしれない。自分が俳句を読んでいるときはあくまで「読み手に伝わった」ものであって、作者が何を伝えたいかをあまり考えない。でも「読み手に伝えたいものが曖昧」と言ったのにもそれなりの理由があって、川柳だと明らかに俳句よりも主体の色が濃いというか、主体の色を打ち出そうとする感じがある。
そのとき例えば〈花火〉の句が問題で、明らかに主体はいるのに、その主体が何に対して〈これ以上の嘘はありません〉と言っているのかが曖昧に思ってしまう。花火の後ろに一字開けがあると、実景ベースでその花火の匂いや音、色、空気感を思い浮かべるわけだけど、嘘の一語がどこにかかっているんだろうと思う。そもそも〈これ以上の嘘はありません〉って言われたときに「本当か?」って首根っこを掴みたくなる。つまり、この語を言うまでにそれなりの処理が必要だと思うわけで、物語とかの伏線があってこの語が使われるなら〈これ以上の嘘はありません〉は心理のニュアンスを伝える言葉になるけど、もちろんそんな背景はない。主体の色が濃い、だから言っていることに耳を傾けてみたものの、結局は何言ってるのか曖昧。分かっても「ふうん」で終わってしまう句が多い気がする。この読み方がいけないんだろうな。洋渡くんはどうして〈花火〉の句を詩語の否定と読んだのだろう?
丸田:主体の色が濃いというのは僕も思います。もちろんそうでない川柳もあるけど。思うに、俳句は、言いたいことと、季語とが二つとも消失点になった二点透視図法みたいだと個人的に思ってて、その間の宙吊りになった部分を読んでるなと。それで、短歌は、季語が完全に外れることで消失点がはっきりして、その景色を眼差す主体、の存在を信じやすくなるんだと思う。一方で川柳は二つの中間で、ものすごく不安定だと思う。型は(七七もあれど)俳句と同じだけど季語が無いから描き方が定まらない(自由)し、かと言って短歌ほど主体が見える訳でもない(俳句と同じくらいの分量しか言えてないから、当然に)。かつ、読み手の部分でも、短歌だと半分自動的に主体を仮に置いて読むけど、川柳はそこも微妙。ジョークみたいな句が、主体が言っているようだけど作者本人が言っていると考えた方が面白いんだろうな、のパターンがかなり多い。その辺川柳専門の人はどう捉えてるのか僕は知りきらない所。
花火の句に関して。ふだん僕が短歌を読んでるからか、自然とこの一字空けは、ほぼ繋がっているタイプの一字空けだなと思ってました。読点くらいの。強く切れてはない(もしこれが切れていた場合は、本当に何も読めなくなるから分からない……)。特に根拠はないけど、「これ」は直前の「花火」を差していると考えた方が面白くなるだろうと思った。(花火これ以上の、と記したら詰まるから字あけしたいなと思うし、花火以上のとするより「これ」を挟んだ方が”いかにも考えてる風”な主体が見えていいかなあ……)
いや、僕も、これに関しては、「これ以上の嘘はありません」が嘘すぎるだろ、と思った。シンプル嘘と同じくらいチープ。となると、この嘘は計算されている可能性があるな、と思った。これは僕個人の期待だけど、「これ以上の嘘はない」とかいう嘘が面白ポイントなのかなと。自分にも言葉が跳ね返ってきているが、あくまで主体はそれに気づいてない様子で、結局嘘みたいな花火を下げようと思ったら嘘みたいな表現で持ち上げてしまった、っていう句なのかな〜と。だから正確に言えば、主体は詩語を否定してるものの、句としてはむしろ肯定してしまっているっていう、このズレを見せている句、だと感じた。
と書いてて気づいたのは、僕は川柳を「おもしろがれるかどうか」で判断しているみたいです。〈花火〉の句も、主体=作者で、ただただチープに、花火が嫌いイキりをしたかっただけ、とも読めるし、普通はそうなるのかも。平野 くんが、曖昧だったり情報や前提が足りないと思ったところを、僕は、そこをこっちで補えば面白そうだぞ、と思って拾ってる感じかな。こっちで補う必要も無く完結してるやつとか、面白いだろ!って声が聞こえてくるジョーク句みたいなのは単に好みじゃない。
(半分意図的に作られた)不足とか曖昧さを僕は川柳に好んで求めていて、それは俳句ではなかなか得られない感覚だと思いつつ楽しんでる、って感じですね。
平野:俳句と短歌の中間にあることの不安定さが川柳の言葉をほかにないものにしていることは確かだと思う。ただ、その立ち位置の不安定さが言葉の洗練さを欠くこと(不足・曖昧さ)にも繋がっている気がして、一つの作品としてこれで良いのかなという感想も同時に抱いてしまう。このこれで良いのかな、が川柳の癖のあるところで洋渡くんは楽しんでいて、僕はつまらなさだと思っているのかもしれない。
洋渡くんが「おもしろがれるかどうか」と言ったように、一句に不足や曖昧さがあると解釈を加えるわけで、不足を補うときにこの作者はほかにどんな句を詠んでいて、どういう態度を持っている人なのかということがやはり大きいと思う。ここも引っかかってしまうポイント。川柳だと作者(これは作家性みたいな意味での作者)が作品に介入することでようやくひとつの作品として成り立っている気がする。そういうものだとして作者を引き寄せながら読みを進めると、次は川柳特有の「面白いだろって声が聞こえてくるジョーク句」が混じっていて、やっぱり主体=作者で読むべきなんだよね。ってなってしまう。そこのオンオフの切り替えの難しさが初心の読者としては引っかかる。
それで、ここから先は個人的な問題になるけれど、川柳は表現のこなれてなさのために体内で句を保持することが難しい。俳句は分からなくても練度の高さがあることで、塊として体内でもっておきながら取り出して眺めてみたり、そうしているうちにふと分かったりするということがある。でも、川柳はこなれてなさが気持ち悪くて体内から排除したくなってしまう。……ここらへんの気持ち悪さみたいなのは洋渡くんはどうですか?(たとえが多くなって分かりづらかったら申しわけないです)
丸田:個人的な観測だと、平野くんは緊密と抜け感のグラデを楽しみながら俳句を作っているなと思っていたので、不足とか曖昧はその軸からは微妙に外れるってことなのかもしれないですね。
作家性ありき、というのは同じくです。一句だけでキリッと屹立するタイプの川柳はそこまで多くない気がします。結局作者の顔が度々見えてくるっていうのは俳句に慣れてるとちょっとノイズになるのかもしれないですね。、あとジョーク句に関して今思ったのは、居酒屋の隣の部屋で聞こえてくる面白い発言、その声、みたいな。そのセリフ単体で”もつ”ようなしっかりものではなく、他人がそれを同じように言っても面白くなるわけでもなく。でも別に、隣の部屋を覗いて発言者の顔を見たとして、更に面白くなるわけではない。声とその声調だけが残ってるみたいな。ジョークとそれを言っている人の関係って、考えると微妙に奇妙なのかも。
「こなれてなさ」の含意を充分に把握しきれてないですが、保持しがたい、っていうのは面白い観点だなと思います。平野くんは基本保持していたい、って感じなんですかね?
最初の応答のときに言いかけた曖昧さの欠点の話をここでします。川柳は曖昧さが鍵だと僕は思っているわけですが、曖昧がいい、という良い面もありつつ、曖昧でいい、という作り手への甘やかしの面もある気がしています。個人的に俳句って、作ってて、「俳句」の側からちゃんと書きなさいよという命令が来る気がしていて、それは定型由来なのか季語由来なのか分からないですが、ゆるくするにしても緊張しながら書いていたりします。でも川柳は、作り手に対してそういう覇気的な、鞭的なものは与えないなと思います。曖昧でも、極端に言えば適当に雑にランダムに言葉を配置して作っても、「川柳」がそれを許してくれている、みたいな。川柳だといえばすぐに川柳になってしまうし、川柳の側もなかなか否定できなさそう。
だから、まず、分からない川柳を、分かる必要がそもそもない場合があるなと思います。これは僕は今のところ勘と、その人の作風を照らし合わせることでしか分かってないけど、分からなくても別にいいくらいの、雑なものもある。(別に川柳に限った話ではないけど。)ただ曖昧であるだけで、曖昧さに価値が置かれていないもの。僕もこういう句については、体に留めておくのは苦手で、排除したくなります。(誰でも気軽に作れるというのは良さなんですけどね。俳句も短歌も同じく。)
敢えて読者に分からなさ、を与えて混乱させる狙いの川柳も多々ありますが、たぶんこなれてないというのは表現の話だと思うのでそれは置いておきます。
で、肝心な、上記以外の句で、分かれば面白いのかもしれないけど川柳がそもそも「こなれてな」くて自分の中で収まりがつかないということに関して。……考えていたんですが頭のなかで収拾がつかなくてなかなか何を答えるべきか分からなくなったので、ヒントを貰う気持ちで一旦返信を。
ちょっと気になったのは、俳句は練度が高いという部分で、詳しく聞いてみたい。やっぱりそう思いますか。あと、口語(であることに特化したような)俳句に散見される、要素が少なくて面白めな川柳似の句については、どんな感情を持っているのかなと思います。川柳に対する感情と違いがあるのか気になります。聞きながらまた考えます……。
平野:まず、俳句は練度が高いと言ったところから返答します。この発言は洋渡くんが言ってくれた「俳句の側からちゃんと書きなさいよという命令が来る」に近いものとして言っていて、その命令にどんな形でも答えようとした結果、練度はおのずと高まっていくことになると思っている。また僕自身がそうした練度の高い句と出会うことを求めていて単純に好きなんだとも思う。だから本来は、僕は練度の高い俳句が好きですと言うべきであって、俳句=練度が高いと言ったのは誤りです。命令に答えようとしない俳句も好き嫌いは別にして俳句ではあります。
次に口語(であることに特化したような)俳句については、いわゆる文語俳句を軸にして、軸との距離感を楽しもうとするんですけど、句単体を距離感とか抜きにして読むとやはり引っかかてしまう。例えば(この例が正しいかは分からないけど)柳元・吉川が話している〈炒り卵ぜんぶ残して湖へ〉だと「ぜんぶ」と言ってしまえることへの不信感がどうしてもぬぐえない。そのぜんぶが爽快感を与えるものとして都合良く機能していない? 本当にそれで大丈夫なの? と思う。この句は巧くはあって面白がれるんだけど、ほかの句になると多少の「こなれてなさ」を感じる。もしかするとそれは「ちゃんと書きなさいという命令」への応答の仕方として、無視を決めた句なのかも……洋渡くんが是とする川柳の「曖昧でいいという作り手への甘やかし」に対して過度に目くじらを立てている気がするな。
口語ではないけど今井杏太郎みたいな、要素が少なかったり、面白い抜け感のある句は憧れで……最近の理想は合気道みたいな句です。力業で攻めてくるもの(ちゃんと書きなさいという要請)に対してそれとわからないテクニックで軽くかわす、ひょうひょうとした強みがある句は好きです。そこと川柳の違いや口語についてもっとちゃんと考えるべきで、いま思ったのは命令への応答の仕方です。あと保持という点については他者の異物として俳句を読んで、分からないものは保持しておくことでいつか分かると一回り大きくなれると思う。その点で川柳は異物も異物なので保持したいんだけど、ゲテモノ料理(この例えはよくないが)として除けてしまう。そこにかける調味料が欲しくてこのやり取りをしているわけだけどすこしづつなにが偏癖だったか分かってきた気がする。
丸田:命令に対して応答して仕上げていくことを思えば、ふつうの授業と自習、みたいな感じがしますね。(別に俳句が真面目で川柳が緩いという訳では無いので、何でも比喩で捉えるのは良くない癖ですね、申し訳ない。)
「ぜんぶ」のくだりは同意です。「無視を決めた句」というのは、まさにそうですね。その中にも、葛藤を経て強固な意思で無視するに至ったものもあれば、無思考にただ命令には反したいというタイプのものもあればという感じなんでしょう……。そもそも川柳が、命令≒俳句に対して無視を決めた、的な見立ても、強引だけど出来なくもないのかも。曖昧さや命令への応答をどれだけ引き受けようとするかが、川柳は特に個々人に委ねられているところが、川柳は大きいのかもしれない。
「ひょうひょうと」は僕が平野くんの句に持っているイメージに近い感覚だったりします。飄々、って、意味からしてもそうだけど、その「攻めてくるもの」が存在しないと、生まれない雰囲気ですね。世の全員が飄々としていた場合、飄々と、とは言えなくなる。鍛えた力で打ちのめすのが正攻法だ、的な前提があってこその飄々さ。僕も川柳史を浅く浚った程度で適当言ってますが、川柳は全員が飄々としている、というのがもしかしたら(昔から)あるのかもしれない。
前回答えそびれたものも含め、全体を通して文通の取り敢えずのゴールとしては、普段俳句に親しんでいる平野くんから見て、曖昧さや初めから命令を無視している印象のある川柳を、自身の成長のためにも一応理解出来るくらいまで持っていくために意見が欲しい、ということで。
曖昧さについては、ただ曖昧なだけなものは除外するとして、敢えて曖昧にされているものはそこを味わう。俳句でも短歌でもない不安定さからくる、川柳であるがゆえに生まれる(生まれてしまう)曖昧さは、面白がることが出来たらより楽しめるかもしれない。これについては口語俳句や短歌との比較が有効な可能性がある。
俳句よりもその傾向が強い、ジョーク的な可笑しい句(作者=主体の場合も多い)については、慣れれば読みやすくなるのかもしれない。俳諧とか俳句にも面白メインのものは多くあるから、季語の有無での差は色んなところに色んな形で出ていそう。主体とか作者が強く見えてしまうことの、言わば灰汁が、季語という目立つ具材で感じ無くなっている、とか。主体像含め今後も考えていく必要があるかも。
詩型からの命令への態度については、全員がそもそも飄々としている可能性、最初から「川柳」が創作者に何も命令をしていない可能性があること、をとりあえず提示。平野くんの好みではないかもしれないけど、こう思うと保持しやすくなるのでは。僕が川柳に難なく入れたのは、僕自身が口語俳句を作っているので位置的に近かったことと、俳句から来る命令に背きたい、撃ち返したい感覚が長らくあって、その態度が川柳と相性が良かったこと、が大きかったんだろうと分析。
というところで、答えられたかどうか分からないですがどうでしょうか……
平野:やり取りを重ねていくうちに分かってきたのは、川柳の本質的なところにある曖昧さと、良い悪いの価値判断としての曖昧さ、この二つをどこかない混ぜにして考えていたことです。川柳の本質的な曖昧さ(命令≒俳句への無視をしている川柳)を愛しつつ、それとは別に価値判断として、曖昧かどうかかを判別していかなくてはならない。とりあえず川柳の本質としての曖昧さを楽しみながら量を読んで行くことがスタートですね。それなしで色々意見してるのだから川柳を主戦場にしている人から見れば大変失礼なことを言っている。批判はコメント欄によろしくお願いします。
また俳句との違い。つまり命令に答えるか否か、そのどちらの立場を取ったとしてもその中でさらに人それぞれの態度がある。という目線はやり取りがなければ自分の中に生まれて来なかったと思います。川柳が分からないから洋渡くんに聞いてみようという動機だけで、分析も不十分なままはじめたやり取りをここまで続けてくれてありがとう……自分勝手な話につき合わせてしまったようで申しわけないです。
最後におかしい句について。これは求められている「おかしさ」が違うと思う。俳句は和歌の主情的なものの見方に対して、何かを相対化すること、その際に生まれる「おかしさ」であり、その相対化する手つきはさりげない方が良い。もっと言えば対象があって事後的に主体は現れるもので、主体はいない方が好ましいかもしれない(写生的な価値観の中においては?)で、その対象化をしているときの手つきに雑味が残ってしまうと句が簡単に俗っぽくなる。季語は物の相対化、もしくは言葉とのうまい距離の取り方に多くの利点があるはずです。でも川柳はその手つきの俗っぽさも肯定しているのかもしれない。俳句・川柳ともに対象を相対化しながら、川柳はより手つきを見せようとするところがありませんか?
丸田:便宜的に川柳を知っている側として会話しましたが僕も好きな部分だけ面白がって、好きなように作っていただけだったのでいざ「川柳とは」となるとここまで難しいんだなと……。俳句と混ざりあったままのざっくりした理解で進んでいたのでここで一回僕も考えられて良かったです。今回は一応川柳についてという事でしたが前段階を固めた位で、また経験値を積んでから、いつか川柳について②を話せたらいいかなと思います。
俳句の相対化と手つきと主体、明瞭でありがたい。本当にそうですね。川柳は手つきが前景化していったジャンルだと思います。手つきを見せるマジックをしてるとしたら、主体をも、そのマジックのひとつの道具として見ている節が。だから(だから?)、物より人の方が相性がいいのかもしれない。物がどう存在しているとかよりも、それについて人がどう思っているかの方がよほど操作可能でこねくり回す余地がある。言わずに言う、に対して、わざと言いまくる、的な。俳句ではなかなか無いような、明らかに大嘘をついているタイプの句が川柳によく見られるのも、おそらくそういうことなんでしょう。雑味というかスパイスというか変わり種というか隠し味というか。俳句と川柳の味の違いがより鮮明に飲み込めた気がします。
平野:わざと言いまくる。言いまくってはいるけれど、像を結ばせるわけでもなく曖昧なまま。面白いですね。うん、ぜひ②やりましょう、そのときは川柳をやっている方や例句をもっと交えて具体的な話をしたいですね。
長くなりましたが、どうもありがとうございました!
柳元:佐藤智子さんの『ぜんぶ残して湖へ』(左右社・2021.11)を読んでいきます。吉川と二人でこういう形で句集を読むのは久しぶりですね。よろしくお願いします。
さて、巻末の佐藤智子さんのプロフィールを見ると1980年生まれ、2014年作句開始とのことです。栞によると、佐藤文香さんが講師をつとめていたワークショップがきっかけなのですね。そして3年後の2017年『天の川銀河発電所』(佐藤文香編、左右社・2017)に入集となっています。ややジャーナリスティックな物言いで恐縮ですが、『天の川銀河発電所』の編纂者でもあった佐藤文香さんの隠し玉的なかたちで登場した作家という整理は出来そうです。個人的には池田澄子ー佐藤文香ー佐藤智子というかたちで受け継がれているところの共通性、それから差異に興味があるわけですが、焦らずしっかり句集の話をしたいところです。
まずはお互いに気になった句について話しましょうか。
吉川:よろしくお願いします。まず好きな句を3句ほど挙げてみます。
いはむやをや塾の階段では涼む
いはむやをやって大仰に切り出した割には大したことは言わないっていうユーモアが好きですね。なんか切れ字みたいに機能してるのもおもしろい。塾と古語の相性もよいですし、学生の気だるげな感じが見えてくる。
明日降る初雪台所でしゃがむ
初雪の予報を聞くとたしかに前日から心がそわそわする。そのそわそわが、特別な動作ではなく台所でしゃがむという日常の行為に込められるのが自然で生の感触がありますし、どこか敬虔な気持ちさえ感じられる奥行きがあるのが好きですね。
食パンの耳ハムの耳春の旅
カタカナと漢字の配置で目のリズムもよいし、耳から耳へ、そしてハムから春への音とイメージの繋がりも楽しい。食パンとハムが並ぶとサンドイッチを想像してしまうのですが、耳つきの手作り感のあるサンドイッチは思いつきの気楽な一人旅を感じさせます。
口語の言いかけ感を切れ字のように使ったりと口語のリズムの作り方が楽しい句が多い印象でした。柳元はいかがでしょう。
柳元:ぼくもその3句好きですね。というか、私は句集収録の句はわりにどの句も面白がれたたちなので、格別この句が好きだということでなしに、今のコンデションの自分にフィットする句、というくらいで選びますね。そういう風にアルバムを聴くときありますよね。
まずは表題句の
炒り卵ぜんぶ残して湖へ
句集タイトル『ぜんぶ残して湖へ』は、いわばこの句の中七下五だけ取ったかたちなわけですが、集名だけ見ると煩わしい人間関係とか、仕事とか、そういうもの全てをいったん放置して、湖へ向かった印象を受けました。ただ句に即すると〈炒り卵ぜんぶ〉を残して湖へ行った可能性の方が、わりとリーダブルな読みとして立ち上がるわけです。句からとられた集名でありながら、集名は句とは別の意味として立ち上がるという、こういう集名の付け方は、楽しいなと。思えば佐藤文香さんの『菊は雪』と同じ集名の付け方ですね。
茄子漬がすこしふしぎで輝きぬ
これは写生という文体が、視点としての主体を構築するのだということを如実にあらわすなと。智子さんの句はどの句もその傾向がありますが、世界に対しての居心地の悪さ、ズレ、不思議さを抱えた主体が仮構されるつくりになっています。つまり、不思議な世界を描いているということではなくて、世界に対して不可思議さを感じる〈私〉に諸々が結果的に収斂してゆくというか。最近の小説家だと村田沙耶香さん的な感じをパッと思います。……という評に対して、〈たちくらみ不思議がりたいだけでしょう〉という句が自己言及的に周到に用意されているようにも思えました。
スニーカー適当に萩だと思う
とかも良いですね。凝視とか、観察とか、そういう極めて俳句的な視覚制度を遠く離れている感じがします。かといって、前衛のようにオルタナティブな〈言葉〉それ自体世界を志向するわけではなくて、視覚とか、思考とかの糸を緩めることでたまたま見えてくるものをその都度面白がる感じというか。
吉川は口語のリズムや機能に着目してくれましたが、ぼくは総じて、世界に対して不思議な認知をする主体、という自己演出の巧みさみたいなものを面白がったように思います。ぼくはだいぶそういうの気になるほうで、口語俳句とされるものの自己演出感はかなり苦手なんですけど、今回は全然鼻につきませんでした。むしろピュアさすら感じるというか。
吉川:挙げてくれた句の中では〈炒り卵〉の句なんかは表題句なんだけれど、表題句然とした風格をだすのではなく、「炒り卵」で少し外すその感じが良い意味で気になっていました。(句→タイトルの順なんでしょうが)
私としては口語のリズムとかよりも主体の方の話をしていきたいですね。
句集の主体に関して私が感じたことは柳元と多分同じで。句に含まれる動詞の選択から主体の存在が明らかな句は多いんですけど、そこで現れる主体はキャラを被ってる印象はないんですよね。口語と自己演出が結びつきやすい印象はあるけど、そうではない。むしろ、自分が挙げた〈いはむやをや〉の句や、〈あなミントゼリーに毒を盛られたし〉の句は古語を自己演出として意図的に使っていて。口語の方が自然体に見えるんですよね。
口語俳句の力みがない感じから、この方は文語→口語じゃなくて口語から俳句を出発した方なんだろうなあと勝手に思いました。
柳元:あ、そのキャラをかぶってないというのは面白い視点かもしれません。「キャラ(再起的同一性)」っていうのは、あくまでも再起的な同一性なのであって、他者とのコミュニケートするなかで、相互確認的に安定させるしかないものしろものと言われますよね。だからキャラを安定させるためには、他者との場に繰り返し身を投じつつけるほかないわけなんですが、智子さんの句集に出てくる主体は、どうもそういう、他者とのコミュニケーションによって、キャラを再起的に安定させなきゃ!みたいな営みを全然志向してないというか、自己同一性への欲求みたいなのが、すっぽり抜け落ちてる感じがします。そういう意味では、現代人がSNSで四苦八苦しているみたいなありようは超越している感じがするんですよね。わたしはわたしですし、というような感覚が、他者の回路を用いないでも、アプリオリにある感じがするというか。だから、キャラをかぶるかんじが無いのかもしれない。ただ、ネガティブな意味合いで言われる「他者不在」というのともまた違う気がしていて。このへんどう思いますか?
吉川:「キャラ(再帰的同一性)」についてはうすいまた聞きをしただけなので、100%同意とは言えないけれど言わんとすることはすごい分かる。この感じは佐藤文香さんが句集の栞に書いていた「お一人様でことたりる感」と通じるものな気がします。
自己同一性の確認を人間の他者に求めない場合、「暮らし」が一つの手段として考えられると思うんですね。実際「暮らし」がモチーフになっている句は多くあって、〈冬を愛すビオフェルミンのざらざら〉〈オリーブのすっぱいパスタ明日にする〉とか。「暮らし」をテーマに据えると「他者不在」に陥りやすい(私の直感ですが)。それは、生活圏内のものは「私が主体的に営む暮らし」という基準のもと、「私」に全て取り込まれ従属してしまうからだと思うんです。
この句集が「暮らし」をベースにしながらも「他者不在」な雰囲気を持っていないのは、もちろん俳句という詩形が「季語」という他者を要請するからっていうのはあって。でもそれだけじゃなくて、「私」と「句のモチーフ」の距離が他者の距離感を保っている句が多くあるのも理由なのかなと。<秋は今三十デニールくらい 川>なんかで考えると、秋を三十デニールと捉えるのは誇張して言うと「私」の思考の枠組みに「秋」を取り込むことなんだけど、「川」が挿入されることで簡単には終わらない。句に「私」という主体はいても句全体に「私」の気配が充満している句はそう多くはないというか。
かなり直感で喋りましたが、この句集の「私」の「他者」への態度というか距離感というか、それが柳元にはどう見えてますか。
柳元:なるほどなるほど。「暮らし」について補足ですが、「暮らし」という視座で俳諧、連歌や和歌などから振り返ると、基本的には古来から脈脈と「暮らし」が文芸のベースにはなってますよね。でも昔は中間共同体があったから、「暮らし」を送ろうと思ったら否応が無しに他者と交わらざるを得ないわけで、「暮らし」をしてても他者不在にはなり得ない。
でも、都市化が進んで、伝統的家業が没落して、核家族が増えて、中間共同体が没落して、となったときに現代の「暮らし」は、やっぱり吉川が言うようなものになってしまいますよね。現代の都市生活者って他者と交わらなくても、全然生きて行けるわけで。COVID-19でより実感しました。もちろんこういう現代的な暮らしは、配達員の方とか、エッセンシャルワーカーの方に支えられているわけですけど、とはいえそういう方たちも、〈顔〉のある他者というよりは、非個性的なシステムそのものと対峙してるように思えるような設計になっている。携帯の画面をタップするだけで配達員が来る時間を選べて、ドア越しに置いていってもらえるわけですから。
そう思うと、智子さんの句には、そういうシステムが人間を阻害している感じが、どことなく漂っている。〈コンビニの食べていい席柳の芽〉とか。仄かに生権力が匂う。智子さんの立てる主体が奇妙なんだ、不思議ちゃんなんだ、みたいなことでは実は全然なくて、むしろ現代「暮らし」の形式そのものが奇妙なことになってるんじゃないか、智子さんが立てる主体がむしろ正常であるゆえに、世界との出会い方が不思議にならざるを得ないというか。不思議がらないと終わりなので、不思議がって記憶することが抵抗体になってる。句集末尾を飾る
忘れない冬の眼科の造形を
とか、感動的ですよ。
他者の話に戻せば、〈他者不在〉になってるんじゃなくて、〈他者不在であること〉の奇妙さを描いてるんですかね。後者には批評性がある。だからいざ他者が登場しても、
おじいさんとわたしで食べるちいさな無
みたいなことになる。現代の「暮らし」に身を浸す主体によってそれを照射する。
まあ、現代が置かれている状況についての俗流批評にかなり引きつけてしまったけど、そういう風に同時代的な問題意識を、真摯に重ね合わせて読める句集がある、ということが、俳句においてはもはや感動的です。
吉川:現代日本の主体を描いてる句集だなという認識はなんとなくありましたけど、じゃあその現代日本の主体ってどういうものなのかを考えると確かに柳元の言う切り口はこの句集の読み解き方の1つとして考えられますね。ただその切り口一つでは捉えられない句も多いところがこの句集のおもしろさだとも思う。<昨日は雪雪の日に差した傘><バスマットとりこみクリスマスはじめる>とか。色んな句があるし、句集の表情がゆるやかに移り変わるように句が並べられてる感じもする。色んな句はあるんだけど基本的に「生活」がテーマになっている、というか逆な感じがする。「生活」にアンテナを隅々まで張るというアプローチだからこそ、コンビニという都市の風景も、バスマットを取り込むクリスマスっていう個別的な経験も同じ句集に自然に同居してしまったというか。単に時代を映す鏡であるだけでなく、そこに「私」も存在していて、更にはそこに「季語」もあってと色んな要素が縒り合わさってる感じが私にとって魅力的なんだなと気づかされましたね。
柳元:そうですね。むろん私のさっきの議論はかなり粗雑で、この句集の豊かなところを捨象してしまっています。おっしゃるとおり、「生活」にアンテナを隅々まで張るというアプローチだからこそのヴァリアントを作ってますよね。豊かで多面的です。蛇足なんですが、これで思い出すのは、劉慈欣(りゅう・じきん)のSF小説『三体』(早川書房・2019)に、「智子(ソフォン)」という超微粒子ロボットが出てくるんです。ネタバレを避けるために簡略な説明に留めますが(とはいえややネタバレになりますが)、これは異星人が、地球人を監視するために作成した智恵のある粒子状のスーパーコンピュータなんです。もちろん意識もある。この「智子」なる粒子が地球に張り巡らされ、地球人の体内に取り込まれ、いちばんミクロのレベルで、地球人の日々の生活が逐一監視されるんです。いわば密着取材ですね。で、異星人の微粒子スパコンからすれば、地球人の諸々なんて何もかもが目新しく不思議に見えるわけですよ。上手く言えないんですが、この句集、そんな感じないですかね……ないかなぁ。
吉川:『三体』今後読むつもりなので薄目で文章読んでますけど、言いたいことは分かります。この句集の観察態度をエイリアン側の視点だと思う理屈は分かるけど、かなり人間味もある句集なのでそういう表現がしっくりこない自分がいますね。
柳元:そうですね、伝えるのが難しいな。エイリアンめいていて人間味がないということでは全くなくて、キリンジの曲の「エイリアンズ」みたいなイメージですね。〈まるでぼくらはエイリアンズ〉というあのサビの歌詞は、同種の恋人同士が愛し合っているのだけれど、どこかで他者の他者性を感じている、ということだと思うんです。みんな同種で分かり合えるはず(というかたちで社会が構築され動いている)のにそもそも本質としてみんな他者という感覚、というか。だから極めて人間的なジレンマがある気がします。
まとめがこれではいけないと思うので、好きな句を引いて締めますね。〈喉きゅっとしまるほど今行きたい橋〉。こういう感情が、理性とか常識とかに抑圧されず、嘘くさくない身体性を持って知覚されることを追体験させてくれることが、すごく嬉しかったです。
吉川:自分もその句好きですね。最後の橋でそこまで閉塞感のあった句がいっきに開けてくる構成が内容とマッチしている。
まとめではないですが、天の川銀河発電所で作品を初めて拝見した時とは印象が変わりました。それは句集としてまとめられることで自分が新しい読み方を発見できたからで、句集という形式ならではの旨味を再確認しました。
語れていないトピックもありますが今回のところはここで締めとします。ありがとうございました。