菌山あるききのふの鶴のゆめ 田中裕明 

所収:『花間一壺』(牧羊社・1985)

「菌山」というからには山じゅうにきのこが生えていてほしい。ありとあらゆるきのこが生えていてほしい。みちばたに、崖のうえに、木の下に、川のほとりに、色とりどりのきのこが生えていてほしい。歩いているうちにたのしくなりたい。きのこは菌である。胞子を飛ばし、菌糸をのばし、どんどん大きくなってゆく。わたくしのまわりを覆うように、成長してゆく気配が、いまこのまわりで、たちどころに濃密になってゆく。そこいらにあるということの気配が立ち込めてきて、存在にうっすらととりこまれ、ひらかれて、それに応じることでわたくしの存在はなにとなく希薄になってゆく。

きのう見た夢は何だったろう。不確かさすら心地よい。鶴が出てきた。あるいはわたくしが鶴であったか。とにかもかくにも、鶴、それは覚えている。毎夜みては忘れてゆく夢の積み重なる層があるとしたら、それは数億年後の地表でどんな断面をさらすだろうか。そしてその断面の中で、わたくしがきのうみた鶴の夢はいかなる結晶化をみるのだろうか。石英のようないろをたわむれに思い浮かべてもみる。忘れられゆくものへのさびしさをうち抱きながら、あるく山みちである。

記:柳元

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