かたくりは耳のうしろを見せる花 川崎展宏

所収:『観音』(牧羊社 1982)

ロープウェイを降りるとそこは緩い傾斜になっていて、木々に囲まれたうす暗さのなかにレンゲショウマが咲いていた。ひょろ長い茎の先に、ほの白く、むらさきがかった花をつけていて「うつむく」という語が浮ぶほど弱々しかった。消え入りそうだった。一匹の蜂がやって来て、花のうちに身を収めるとポロポロ落ちるものがあった。細やかな花びらのようで、可憐なレンゲショウマの姿に気持ちを寄せれば涙に見えた。

下を向いていているレンゲショウマの表情を撮ろうとして、膝を曲げ、スマホともども両手首を返すのだったが、画角に収めてシャッターを押さなくてはならない。押すタイミングを見極めなくてはならない。というわけで角度がついて真下から花を撮れない。そこで工夫した。セルフィーモードに切り替えてレンゲショウマの自撮りを取ることにした。

掲句が口をついて出たのはこの時である。掲句はまなざしのやりとりを詠んでいるのだろう、と思った。かたくりの花は観察者を見ている。もちろん下を向いているため、注がれる視線にかたくりの花が返すのは心のまなざしである。

見せる、には二通りの解釈がある。他の花が目を合せてくれるのと違い、かたくりの花は伏目がちにうつむく、恥ずかしがりやの花だという解釈。もう一つは、おのれ自身の美しさを知り、そっけなく耳のうしろを向けるコケティッシュな花だ、という解釈。どちらを取るかでかたくりの花の印象は大きく異なるが、前者なら「うしろが見える」のほうがふさわしい気もする。ただ、二つの解釈に共通して言えるのは、観察者の視線を意識してそれに対してかたくりの花が立ちふるまっていることである。

ハタチ過ぎの男がひとりで自撮りすることにはなにかしらの痛々しさが絡みつく。耳のうしろの世間という目に見据えられている気がする。レンゲショウマにセルフィーを向けたとき、その痛々しさが蘇った。掲句にも似たような花と観察者の心理の近づきがあるのではないか。句をつくるため過剰に花を見る。そのとき心の目は外を向き、他人の邪魔になっていないか気になる。その一方で自分は句を作っているのだから多少の邪魔は許してくれという傲慢さもある。かたくりの花は、観察者と重なる。

そんなことを考えながら撮った写真のうちの一枚が今回のヘッダーの写真である。こうして見るとレンゲショウマは病臥している者の顔をのぞきこんでいるような、心細げな表情を浮べている。

記 平野

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