所収:『パーティは明日にして』(書肆書肆侃侃房・二〇二一)
スーパーカブと言うのは本田技研工業が製造販売している世界的ロングセラーのオートバイである。累計で一億台以上のカブが世界を走り回っているらしい(これは世界最多の生産台数および販売台数である)。猫も杓子もカブライダー、詳しくない人向けに言うならば、蕎麦屋や中華料理屋が出前に使うときに乗る出前機を装着したバイク、あるいは郵便配達夫のまたがる赤いバイク、新聞配達夫のバイク、あれがカブである。小回りが利く愛くるしいボディのわりにとにかく丈夫で頑丈で屈強、一九五〇年の発売開始以来様々な人が走り倒していて、高度経済成長の記憶はカブと共にあると言っても過言ではないといってもよいくらい、日本の戦後とともに歩んだバイクである。いったいこの七○年間でカブが蕎麦を何億枚運び、何億杯のラーメンを運んだのだろうか。いったい何億通の手紙を人から人へ手渡し、激動の情勢記す朝刊夕刊を配ったのか。飛行機や車や電車のような乗り物とは比較の出来ないほどカブというのは生活に根を張ったバイクなのである。
さて句に立ち戻れば、木田氏が「スーパーカブに乗れば敵なし」というときのこの幼児的万能感、これは、前述のような歴史に支えられているのである。このときカブに乗っているのは私だけではない。日本戦後史であり、過去の人々の営みそのものなのである。しかも「雲の峰」という季語が単なる高揚した気分だけでなしに、経済成長に胸を膨らましていた時代へのノスタルジア、いわば「三丁目の夕日」的な懐古を一瞬行うかに見せながら、しかしカブの動力が力強く加える推進力に導かれる車体のように、やわらかく風を切って、確かに現在未来において前進してゆくのである。「雲の峰」が遠景である以上、目線は落ちておらず前をしかと捉えて進んでいる。
この今・ここへの疑いの無さ、この判断速度の速い肯定、一瞬もメランコリアの侵入する余地のない底抜けの明るさこそ、木田氏を特徴づけるもののように思う。しかしこの口語的素直さはたとえば何かへの世代的な不信によりもたらされたものであって、たとえば同じ口語的な作家でありやや年長の神野紗希氏のものとは明らかに質が異なる。神野氏は近代的主体を前提にしているように思われるけれど、木田氏はもっと表層の近くにいて、深さと手を結ぼうとしない。ぼくはここに(ほぼ)同世代として木田氏に共感を強く感じるのだけれど、たぶん帯文が神野氏であることなどから察するに、あまりここは意識されていないのだと思う。それでも、ある意味においては、実のところ神野氏と木田氏ほど最も遠い位置にいる対照的な作家はいないのではないだろうか、とひそかに思うのだけれど、ジャーナリスティックに過ぎるだろうか。
余談だがぼくにとってのカブは「水曜どうでしょう」で大泉洋が乗り回すものである。
記:柳元