ああ数えきれない数のドア過ぎてわが家のドアにいま手をかける 小島なお

所収:『サリンジャーは死んでしまった』角川書店、2011

 ドアに手をかけようとして、今まで通ってきたドアのことを思い出すという、ありそうでなかなか見ない発想の歌。人生の節目節目で、ああもうこんな遠いところまで自分は来てしまったのかと思うことはよくあり、「数えきれない数のドア過ぎて」は色々つらいことがあったけどここまで来た、くらいに意訳(?)は出来る。が、ドアを目の前にしてドアを思い出すというのはなんだか不思議な思い出し方な気がして、そういう単純に昔を回顧しているのとは違う印象がある。

「数えきれない数のドア」に、仕事で疲れた日とか、親が死んだ日とか、めちゃくちゃ楽しかった日とか、実家のドアとか、友達の家のドアとか、元恋人の家のドアとか、色んな日々・ドアが想像される。引越しのタイミングで、この町にもお世話になったなあ、色んな思い出があるなあと思い返すような感覚が、我が家のドアを開けるという何気ない瞬間に訪れた。その些細な一瞬に今までの記憶が一気に流れ込んできて、溢れそうなくらい感情で一杯になっているのが、「ああ」から伝わってくる。

 この歌の上の句が、たとえば「辛いことも楽しいこともあったなあ」だったら、ふつうの歌になってしまっていた。それ以上こちらが思い浮かべることは無く、ただ思い出している主体を想像するに終わっていた。
 ドアを開ける瞬間に今までのドアを思い出す。この若干おかしな想起の仕方によって、要素が一気に絞られて、読者はドアのことばかりを想像することになる。今までのドア、主体、我が家のドア、手。ドアという物の重要性がぐっと上がって、「いま手をかける」の映像の臨場感も上がった。

 関係のないことだが、数えきれないくらいの他人の短歌を読んできて、いま自分は自分の短歌を作ろうとしている。そこには、他人の短歌へのリスペクトがあり、向こうから影響されたりする。
 この歌の主体がただ過ぎてきただけのドアだが、かつての色んなドアと、今目の前の我が家のドアが、ドア同士で何か影響し合っているのではと思ってしまう。ドアとドアがあるだけなのに、かつてのドアがあったから今のドアがあるという、変なドア同士のつながりがうっすら見えてくる可笑しさも、この歌は持っている。

 最後にもう一つこの歌の面白さに触れる。これがドアではなく「大会」であった場合を考えてほしい。色んな大会を経て、この大きな大会に到れた、というふうに。スポーツプレイヤーが努力の果てに、より大きな舞台に上がることが出来たと。このとき、今の大会に辿り着いたのは今までの大会での努力や成果による。今までの大会が、自分の中に経験値として蓄積しているわけである。
 そこで「ドア」を考えると、別にどれだけドアを開けてこようが、今のドアを開ける技術に何のプラスもない。ドアをただ「過ぎ」るのに、今までの数えきれないくらいのドアは別に必要はないわけである。小さな大会で慣れておいて大きな大会、とは違って、今までのドアを開けてきたからこそ、このドアを開けることが出来るということは特に無いわけである。(開くのがよほど難しいドアとか、開け方にコツがいるドアとかなら話は変わるが、わが家にそんな変なドアは作らないだろう)
 それでもこの歌がなんとなく大会みたいに見えてしまうのは、過去の自分があるからこそ今の自分があるという過去ー未来の時間の連続性であったり、「ドア」というものからくる希望的なイメージ(開いて新しい場所へ進む、日々の安心の住処に帰ってくる、など)であったりを、過剰に思い浮かべてしまうからである。
 ドアに要素を絞ることによって、別に暗喩として書いていなくても読者は深い暗喩のように読み過ぎてしまう、シンプルなようでさらっと大量に想像させる巧い一首であると思う。

記:丸田

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