所収:『臥像』(新甲鳥 1954)
療養所には門が二つあった。福永武彦は『草の花』で「正門から出て行くか裏門から出て行くか、――このサナトリウムに病を養う七百人の患者にとって、出て行く道は常にこの二つしかなかった。多くの者は正門から出た、そして幾人かは裏門から出た。私は鎖された裏門に手を掛ける度に、暗い憤りを禁じ得なかった」と記している。作中では東京郊外K村のサナトリウムとなっているが、清瀬の東京病院とみて問題ないだろう。福永と同時期に、波郷が入院していたこともある。
雪が解けることによって露わになる道、この道は生に続いている道なのか、死に向かう道なのか、一句から明確に読み取ることは出来ない。道に横溢する明るさは、妖しくきらめいて波郷を死へ誘うようでもあり、素直に春らしく生命を称えているようでもある。
福永武彦の日記が2012年に新潮社より出版されている。1949年2月8日の記述に「夕食後六番室に石田波郷さんを見舞ふ。俳人。二次成形後尚ガフキイが出るとのこと。一日も早く家庭に帰ることを目的としてゐるから気分にあせりがある。僕のやうにボヘミアンの気持に徹せざるを得ない者には、今日寝る場所が終の棲なのだが」終の棲とは、二人のあいだで一茶の話でもあったのだろうか。
福永の日記から波郷の眼は家庭に帰ること、生き続けることに強く向いていたと分る。波郷はその焦りのためか、外の世界まで自由に続いている「道」と、いつまでも療養所にいなくてはならない自分とを比較してしまう。雪解くるという上五には、一面雪だった冬が過ぎてもなお……という波郷の失望が込められているようにも感じる。ただ、冬が結核患者に厳しい季節だったことを踏まえると、冬を乗り越えた今、いずれ自分もあの道のように療養所を出てゆくのだという希望にも取れる。心のうちの明暗入り混じった句だろう。
記 平野