春の獅子座脚あげ歩むこの夜すぎ きみこそはとはの歩行者 山中智恵子

所収:『紡錘』不動工房 1963年(確認は「山中智恵子全歌集」による)

星座を造るのは光の明滅を繋ぐ想像力です。とはいえこの想像力は、人間の溢れんばかりの創作意欲の発露ではなくて、未整理な星空の混沌への恐れと見ることが出来るのではないでしょうか。物語的な理解により安心したいが為に、古今東西の人間は光飛び交う星空の混沌に線分を引いた。既知の無数の物語を天球に貼りつけたのは、降り注ぐ無意味な星の光を怖がった人間の臆病さであるように思います。

黄道十二星座の一つ、日本では春の代表的な星座で、天体に疎くとも馴染み深い獅子座も、そのような星座の一つです。この獅子は、ネメアの谷でヘラクレスに棍棒で叩き殺された獣であるという意味付けが為されています。星の光を繋いだ線が造りなす獅子は、右を向き前脚を上げた状態で天に吊るされている。

山中智恵子は掲歌の中で、獅子座の獅子に「君」と呼びかけ「とはの歩行者」と言い替えていますが(「君」を任意の第三者と考えることも出来るけれども、まず想定されるイメージとして妥当なのは「君」=「獅子」だと思います)、確かに獅子座の獅子は歩行せんとしているように見えます。

山中は前脚を上げた獅子の静的なイメージから「歩行」という動的なイメージを束の間取り出して見せます。が、同時に「とはの(永遠、永久の)」という絶対的な静のイメージを冠することで、獅子を脱目的な、果てない歩行の牢獄に閉じ込めもします。山中によって、光の獅子は星辰瞬く夜空を永遠に闊歩することを義務付けられる。「この夜すぎ」に春の晴れた夜空を見上げれば、われわれはいつでもこの獅子を見ることが出来ます。

とはいえ、そのような見立ては取り立てて新しいわけではない。例えば絵画などの静的なものに永遠の動作を見出すことは、詩的な把握として例が無いわけではありません。しかしながらこの歌が優れていると筆者に思われるのは、下の句「きみこそはとはの歩行者」が、7音・7音から2音少ない5音・7音の音数により、組み立てられたことではないでしょうか。「とはの歩行者」にどこか寂しげな、欠落した印象が付与される。音を足すのではなく引くことで、韻律の面で意味の強度を上げるのです。

この歌は、永遠に目的地に辿り着かずに歩き続ける獅子を言祝ぐに相応わしいように思えてなりません。

記:柳元

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