ひといつかうしろを忘れ小六月 飯田龍太

所収:『遅速』(立風書房 1991)

単純なようでいて意味がはっきりとしない、ただ忘我の境に立っていることだけ伝わる句として鑑賞していた。ここに原子公平『浚渫船』より〈水温むうしろに人のゐるごとし〉を並べてみると、もっと身近に引きつけて解釈することも出来そうだ。若いころに詠まれたの原子の句に対し、掲句は龍太最後の句集となった『遅速』に収録されている。つまり若年と老年の意識の違いが見える。

青春という過渡期において多くが誰かに見られているような感覚で苦しんだろう。いたるところに眼があり、光りを帯び、じっとり絡んでくる。想像上の視界の中で自らの行動を抑えつけてしまい、なし崩し的に悪い方向へ流れていく。原子の句にはこうしたある種の感じやすい青年の怯えが伺える。一方で龍太の句はそうした眼の範囲から逃れ、ゆうゆうと過ごすだけの老いのゆとりがある。

また、意識の違いは取り合わされた季語によってより明白になるかもしれない。原子の句は「水温む」と冬から春への温かさを感じていながら冬に意識が寄る語であるのに対し、龍太の句は「小六月」と冬にいながら暖かさを感じている。青春という時期は明るく満ち足りていると同時になにかうすら寒い暗さが奥に潜んでいる。それは温さや生命の横溢だけでない「水温む」に通じる一方で「小六月」は年を得て、あとは死にゆくだけの冬にありながら老いの充実を感じさせる語であると思う。

記 平野

正面 吉川創揮

 正面  吉川創揮

冬木の輪郭のありあまる乱立

砂時計冬の日にこの響きかな

落葉掃く時々に蛾の翅や腹

霜夜部屋そのままが液晶にあり

十二月扉の中に鍵の鳴る

空風にひらめく建築の途中

窓拭きのこんなにも冬夕焼かな

雑然と蒲団干されて向かいが家

雪二人うつとり黙りゐたりけり

後ろの正面の前にある枯木

着古した服に似ている神秘に出会う人よ スプーンとスプーンとナイフ 瀬戸夏子

所収︰『かわいい海とかわいくない海 end.』書肆侃侃房、2016

 内容的にはかなり静かな歌だと思っているが、韻律や歌の展開のさせ方から表現の激しさがうるさく聞こえてくる。深海と水面に起こる荒波の二つを透かして見ているような感覚を抱く。

 それぞれ読んでいくが、まず「着古した服に似ている」について。私は、よれていたりどこかがほつれていたりしている服で、でも沢山着てきたから愛着があって愛おしく思う、くらいにイメージしている(愛着、という言葉が、「愛しく着る」に見えてくる)。これを、古びたもの感を強く取って、早く捨てたいとか、早く新しい服に移りたい、と考えることもできる。ここをどうイメージするかによって、景の立ち上がり方が異なってくる。

 次の「神秘に出会う人よ」について。「着古した服に似ている」が、「人」に掛かっている可能性も無くはないが、変な人がノーマル神秘に出会うより、「人」が変な神秘に遭遇してしまう事件性の面白さを取りたく、ここでは置いておく(ただ、そういう神秘に出会うのは神秘と同等に特殊な人と捉えることも可能であり、韻律のスピード感も合わせて、最初の措辞を「人」に掛けて読むこともできる、また後述)。
 着古した服のような神秘。神秘とはそもそも、人知では届かないような不思議や秘密を指す。「着古した」を愛着と取るとき、人知から離れたものに対して人間的な妙な愛着を感じているのが妙である。「出会う」と初めて遭遇したように言っているのにもかかわらず「着古した」なのは、何度も味わっていたりずっと身につけていたかのようである。デジャヴのような感覚で、見たこともない神秘であるはずなのに何故か懐かしく愛着を覚える、というふうに読むのがいいだろうか。
 一方、「着古した」を古ぼけて早く捨てたい、新しいものへ移行したいという感情として取ると、「神秘」がやや皮肉っぽく見えてくる。神秘というと畏れ多かったり綺麗だったり謎めいて素敵! 的な受け入れられ方がされたりする。が、この読み方であれば、例えば旧習であったり古びた価値観であったりを敢えて「神秘」と言い直して、まだそんなものを崇めて服みたいにずっと身につけているのか、と述べているように考えられる。

 私は最初、完全に先の愛着の読み方で読んでいた。美しい神秘、それに遭遇する人、それにぶつけられる謎の映像(情報、表現)。しかしそれだと、「人よ」が引っかかることになる。音数的にも、別に「人よ」ではなくて、個人的に自分が神秘に出会って愛着を感じた、という話にしてしまうことは出来る。それを破って他者に拡げていくこと、呼びかける(詠嘆とも読める)ことの必要が、いまいち分からなくなってしまう。
 これが、捨てたいものとして考えたとき、「人よ」が分かりやすくなる。そういうある意味神秘的な旧習に好んで出会いに行く人々よ、聞こえているか、と「人」に対して怒りを向けているという読み。だんだん読み返すたびにこちら側寄りで考えるようになった。
 ただ、愛着でかつ皮肉にも読むことは出来る。先ほど「〜に似ている」を、「神秘」に掛けるか「人」に掛けるかという話も述べたが、それは感じている人によって分岐する。

 分岐をまとめると(ここでは「人」≠主体として)、
①「着古した服」は愛着あるものか、捨てたくて次に移行したいものか。
②「〜に似ている神秘」と感じたのは「人」か主体か。
 もちろん「着古した服」への感覚はその二つに限ったことではないため、読みはもっと広がっていくと思われるが、大きく考えるとこの二点で考えられる。

「本人が愛着を感じる神秘と出会った。その人へ」というタイプ、「本人は愛着を感じているある意味神秘的な旧習に、また(好んで)出会おうとしているめでたい人へ言いたいことがある」というタイプ、「私にとってはとっくに古びたものを、明るい神秘として受け止めて出会う人へ」というタイプなどなどが考えられる。
 しかし、そもそも「着古した」には愛着も離れたい願望も、どちらとものニュアンスが含まれているであろうし、「神秘」にも素敵さや畏れ、分からないからとりあえず格をあげて謎として無視する、などさまざまなニュアンスがあるため、はっきり分類することは出来ない上に、する意味はほとんど無い。
 ただ、上の句の部分に何らかの皮肉や批判の意を汲み取ろうとするならば、「着古した服」か「神秘」の箇所で、主体と「人」の感覚のねじれが生まれていることになることを確認したかった。

 そしてようやく「スプーンとスプーンとナイフ」を考える。一字空きがなされてリズムよく並べられる。銀色の食器が(テーブルの上に並んでいるか、同じ場所にしまわれているかなど位置情報を欠いて)現れることを、まったくの美しい光景として読むことも出来るが、明らかに何か意味がありそうな雰囲気と、前半の皮肉の気配から、詳しく考えたくなる。
 ナイフよりスプーンの方が多い。例えばフランス料理を食べるときのテーブルを想像したとき、そこにはスプーンよりもナイフが多くある。そしてナイフと同じくらいフォークがある。この歌ではフォークが消えて、スプーンが増え、ナイフが減っている。ただ「ナイフとスプーンとスプーン」ではなく、「スプーンとスプーンとナイフ」。スプーンの多さにも目が行くが、やはりナイフの鋭利さは最後の体言止めによって残っている。それはむしろ強化されているほどである。湖と湖と滝、と言ったら滝の落下のイメージが強くなるように。スプーンにはない切れ味と危険さが特に現れている。
 とりあえず具体的にどういう食事風景なのか、と考えていくような歌ではない。食事かどうかすら分からないが、主体は「スプーンとスプーンとナイフ」を発見/想像した、ただそれだけである。それをどう思っているのかまでは分からない。

 皮肉や批判という線をここに繋げるとしたら。制度、社会、性、宗教、年齢、文化……。一つ多い「スプーン」は何で、たった一つ未だ切れ味を持つ「ナイフ」は何か。また述べられていない「フォーク」はどうなっているのか。そして前半と繋ぎ合わせたとき、「ナイフ」は武器となって「人」を指すことになるのか、「人」そのものが「ナイフ」であると指摘することになるのか。歌の輝きや勢いは収まっていくのか、増していくのか。

 鑑賞としてはそこをどう読むかを明かして語っていくべきなのだろうが、私はそれを固定して語りたくない。「着古した」と「神秘」の揺れと、過剰とも言えるくらいの清潔な「スプーンとスプーンとナイフ」の情報の絞り方が魅力である歌に、何かをどんどん当てはめてパズルのように解くことは、それこそ「着古した」短歌の読み方なのかもしれないと思うからである。なんだか素敵な比喩と神秘と銀のカトラリーからなる歌としても、最後まで皮肉の効いた高潔な歌としても読めうるという、この歌の豊かな魅力を紹介して終わりたい。

記︰丸田

天は二物を与へず愛しき放屁虫 有馬郎人

所収:『天為』2020.12

「放屁虫」はゴミムシの類い、捕まえると悪臭を散らすとされる。ゴミムシという名を与えられた所以は彼らが獲物とする小昆虫がゴミに群がるからであるとされるが、当のゴミムシからすると堪ったものではない。彼らは彼らでおのれの食事を得るための最適な場所を正当な理由で陣取っているのであって、近代的衛生観念などというものは人間の常識、糞喰らえなのである。しかしながら有馬氏はそんな「放屁虫」も「愛しき」ものとする。それは「放屁虫」すらも神の被造物であり、人間から見たその単純な身体の造りは、神の愛、アガペーの降り注がれることを可能性として排除するものではないからだろう。有馬はここで、ある種の超越的な付置からの強引な愛を宣告する。

ここで明確にしておかねばならないのは「天は二物を与へず」というのは現世的に見れば間違いなく嘘であるということだろう。環境が偏る以上、はっきりとこの世においてギフトとして見出されるものには偏重が出てくる。「天は二物を与へず」というのはそういう不平等を覆い隠す極めて都合の良い言葉である。しかし、前述のような、等しく降り注がれる神の慈愛の前にはある種の公正公平な関係が切り結ばれるのであって、有馬がここで述べる「天は二物を与へず」というのはこういうキリスト教的な観念、「最後の審判」のような絶対的な未来の時制が確保されていることによる、ある種の諦念による公平さのようなものが前提になっていると思う。

しかしそれでも現世利益的に動く蒙昧なわれわれにとっては「天は二物を与へず」は所詮「天は二物を与へず」でしかない。有馬氏が行った様々なこと(それは俳句以外のこと、例えば公職にあったときの、現在から見れば愚策と評するしかないような諸々のこと)はこういうズレから来るものなのかもしれない。それは先見の明や政治的手腕などに起因することではなくて、有馬氏は「愛の人」なのであり、我々はそうでは無かった、ということなのかもしれない。そんなことをつらつらと考えながら、この文章を書いている。ただ、こんな修辞に満ちた駄文を読むよりも有馬作品を読む方が何千倍もよいと思う。「天為」のサイトでは有馬氏の近作が読める。ご冥福をお祈りします。

記:柳元

棹ささんあやめのはての忘れ川 高橋睦郎

所収:『花行』(ふらんす堂 2000)

芭蕉とほぼ同時期の生まれである池西言水に「菜の花や淀も桂も忘れ水」の句がある。この句を高橋の師にあたる安東次男は「忘れ水」の語が『後拾遺集』の大和宣旨の歌「はる〴〵と野中に見ゆる忘れ水絶間〳〵をなげく頃かな」に由来するとして〈菜の花の黄一面に心を奪われているというより、むしろ、黄一面の中に光の反射をたよりに水の在りかを探る意識の方が強いように受け取れる。「忘れ水」とは、このばあい、そうした遠い何ものかを探る放心とやや郷愁を帯びた表現でもあろう。〉と言っている。

このとき掲句はひとつの決意のように読める。つまり「忘れ川」という現代の人々が忘れかけた遠い何ものかをあやめのはてに見出し、そこに自ら棹をさし、大きな流れに乗って書いていく。個人は歴史のうねりの中を流れる不確かなものでしかなく、高橋睦郎は別のところ(『友達の作り方』)で「卓れて没個性的な詩である俳句」と言っていた。忘れ川に身を任せる決意は個人にとって怖ろしいものだろう。しかし遠い地平にまで連れていってくれるものでもあるはずだ。ところで、あやめは文目とも書ける。こうした遊び心も句中にはあるかもしれない。

記 平野

Overlap 丸田洋渡

 Overlap  丸田洋渡

秋も冷えて針を正確に思う

嘘ですが水族館がありました。

鮫のことなら雰囲気として判るよ

霜夜はるか流線形の流行ったころ

舌禍と句 話すの上手いね昔のこと

柚子湯夕ぐれ失踪も死あつかい

牡蠣鍋や転生を確かめあった

夢という大きな疲れ得て狼

雪の日の気分は火 死なないでいたい ね

鳰ふたつの椅子のように凛

 *鳰(かいつぶり)

あなたはおかあさん正真の雪正真の白  宇多喜代子

所収:『記憶』角川学芸出版 2011

私は自分の母のことを幼い頃から「おかあさん」と呼んでいるので、「おかあさん」と呼び掛けられることはさもありなん、と思う。だがこの句は「あなたはおかあさん」と念押ししてくる。この句では、私にとっては深い意味はない「おかあさん」の呼びかけが、あなた=母であると規定する(もしくはその事実を確認する)切迫した言葉へと意味を変えている。

そこに続く「正真の雪正真の白」もまた念押しといえるフレーズである。俳句においては基本的に、「雪」と書けば大気中の水蒸気が氷の結晶と化して降ってきたもののことを指すし、「雪」は「白」であるにも関わらず、偽りなく「雪」であり、その雪が「白」であることを強調する。

当然と思われることを念押しする切迫した言葉の連なりとして現れると、その当然と思われることに至る前に私は立ち止まってしまう。あなた=おかあさんなのだろうか、雪=白なのだろうか。
答えが「はい」であることに変わりはない。しかし「はい」と答えながら恐ろしくなってしまう。美しい「雪」、清廉潔白をイメージさせる「白」と並んで書かれた「あなたはおかあさん」は、一人の人間に、美しく清廉潔白な母親という役割を付与しているような気がするからだ。
私は男性であり、おそらくこの句における「おかあさん」になることはないから、想像でしかないが、この「あなたはおかあさん」は非常に重く、時にを人を苦しめる言葉であるだろう。

作者は雪と白で「おかあさん」を寿ぐことを意図したのかもしれず、かなり独りよがりな読み方かも知れない。

記:吉川

黄昏のふくろう パセリほどの軽蔑 小池正博

所収:小池正博 編『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房、2020)*アンソロジー

 黄昏のふくろうと、パセリほどの軽蔑、の衝突。美的だと思った。
 読者のことを信頼しきっているようにも、挑戦してきているようにも見える。

 このふくろうと軽蔑は、どれくらいくっついているのか、離れているのか。
 ふくろうが、何か(人間とか、世界とか)に対して軽蔑しているのか、何かがふくろうを軽蔑しているのか。それによって「パセリほど」の威力が変わってくる。
 離れているとしたら、ふくろうと軽蔑は全くの別の話となり、句の上で急に合体したことになる。そうなると、一枚の絵を見るような読み方が良いのかもしれない。

 何かぼやぼやとした鑑賞文になってしまったが、こういう句の鑑賞は非常に難しい。コラージュ作品を見ているような。ある絵とある絵が切り取られて同じ場所に引き合わされたとき、そこにどれだけ意味を付与していくべきなのかが、作品を見ているだけでは分かり切らない。そこは評者の領分となるのかもしれないが、私はこういう句に対しては意味が無ければ無いほど面白いと思ってしまうタイプで、どうしても口がもごもごしてしまう……。

 それで言うと、「パセリほど」には意味があるような気もしている。例えば俳句で言うとパセリは季語で、〈摩天楼より新緑がパセリほど/鷹羽狩行〉、〈抽象となるまでパセリ刻みけり/田中亜美〉などがある。本当に小さいどうでもいいもの、という感覚ではあるが、それにしてはどこか可愛げ(緑で、あの小ささにして食材に彩を与える……)である。どこかそれは、「ふくろう」から導かれた気がする。「黄昏」と「軽蔑」というやや強い感じの単語に挟まれるようにして、やや可愛げな「ふくろう」と「パセリ」。
 だから何かがあるわけではないが、「パセリほどの軽蔑」とすることで575から逸れてしまう分の韻律が、その挟まれた可愛さに似通うような気がする。

 見ただけで切れるようなシャープさと、甘い黄昏のやわらかさが妙な味わいを演出している心地いい句である。
 川柳には分かりやすく語りやすい面白い句と、語りにくい不思議な句があるが、そのどちらもを積極的に作っている作家がいるのがさらに面白い。今回挙げた小池正博もその一人で、〈君がよければ川の話をはじめよう〉〈たてがみを失ってからまた逢おう〉がある中、〈気絶してあじさい色の展開図〉〈変節をしたのはきっと美の中佐〉などがある。
 いや、「君がよければ」も実際はよく分かりはしないし、「あじさい色の展開図」を語りつくせるような気もする。分かる/分からないの前提からいちいち考え直さなければならなくなるような、川柳の圧に、今は無言で酔っていたい。黄昏のふくろう…………。

記:丸田