チャールズ・シュルツ倒れし後もチャーリーは獨身のまま白球を追ふ 佐々木六戈

所収:『セレクション歌人14 佐々木六戈集』邑書林

チャールズ・シュルツは言わずとしれた漫画『ピーナッツ』の作者であり、世界で一番有名なビーグル犬・スヌーピーの創造者である。チャーリーというのもスヌーピーと同じく『ピーナッツ』の登場人物であり、どこか冴えないが心優しい少年である。チャーリーの前にはいつも失敗が待ち構えるわけだが、彼のひたむきな姿勢に心打たれ、内向的な趣きや卑屈さに共感した読者は世界中に居るはずだ。

さて、作者シュルツは2000年に死去したわけだが、大きく育った作品というものは恐ろしいもので、作者の亡骸などは目もくれずに、人々の記憶と想像力のもとで膨らみ続ける。『ピーナッツ』も例外ではなく、登場人物たちは物語的運動をやめない。死後20年経った今日でも哲学的思索が繰り広げられる漫画は増刷され、スヌーピーの長閑なほほ笑みはTシャツにプリントされる。チャーリーの恋も実らないまま、のろのろと白球を追い続ける。

ただ佐々木六戈が用意した「独身のまま」という措辞はどこか丸顔の少年に似合わない。『ピーナッツ』の世界を考察するウェブサイトを幾つか見たところ、チャーリーは1950年の連載時は4才、1971年の連載時は8歳らしく、そこからさして背丈が伸びていないことを考えてもせいぜい彼は小学校低学年のはずである。この年齢には結婚も何もない。「独身のまま」という措辞は時間的な成長がないお約束ごとの世界にはそぐわないのだ。

つまり氏は、チャーリーに対して漫画的設定からの逸脱を夢見ているのである。ここには成長したチャーリー・ブラウンがいるのではないか。作家の死によってチャーリー・ブラウンがお約束ごとから解放され、時間が正しく進み始め、大人になり、チャーリーが「赤毛の女の子」なり彼が憧れる想いびとと結ばれる世界線が可能性としては準備される。なのだけれども、なのだけれども、チャーリーは「独身のまま」……そういう措辞なのだ。大人になってもスヌーピーと戯れ白球を追う有り様はさながら独身貴族(?)である。ルーシーやライナス、サリー、他の登場人物らはどうなっているのだろう。チャーリーと同様に、シュルツが造形した通りの物語を遂行しているのだろうか。それとも。

チャーリーの関して言えば、ここに自分が知っている世界が継続している嬉しさと一抹の悲しさを思ったりもするのだが、ぼくらにそんな権利を行使される言われはなくて、連載が停止したのちにチャーリーがどんな人生を選びとっていようと彼の勝手であろう。彼はいつもいつでも白球を追っているのであり、そしてまた追っていなくともよいのである。ともかく幸せあれ!

記:柳元

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