鵙がをり鵙の論理はきらきらと 加藤楸邨

所収:『まぼろしの鹿』思潮社 1967

 鵙の句で楸邨といえば、〈かなしめば鵙金色の日を負ひ来〉(『寒雷』1939)の方が有名かと思う。三橋敏雄に〈かもめ来よ天金の書をひらくたび〉(『まぼろしの鱶』1966)もあるが、金色と鳥の相性の良さを思わせられる佳句である。

 鵙の様態や習性を見ていて「鵙の論理」という言葉に到着した時点で、おそらくこの句はもうそれで十分なほどの満足がある。残酷にも思える習性に対して、「論理」というシャープで冷えた言葉で仕留められたら、私だったらすっかり満足してしまう。
 この句はそこで留まらない。鵙がいるという状況を最初に提示することで、映像に緊張感が生まれ、「鵙の論理」という内的なものが宙ぶらりんになることなく、今そこにいる鵙に論理がたしかに内在しているのだという説得力と迫力が生まれた。
 そして「きらきらと」。きらきらという言葉は非常にライトで、それだけだと手放しに褒めているような浅さを伴ってしまう(ことが多い)。童謡の「きらきら星」のような形で、幼稚なイメージも若干ある。掲句ではその付帯する幼稚さや軽さのイメージが、邪魔することなく、かえって武器になっている点が魅力になっていると思う。
 ここが例えば「整然と」であった場合、別に悪くはないが、論理が整然としているんだな、ということだけで終わる。「論理」という語もそれほど効いてこない。他に「どろどろと」であった場合、鵙のイメージ通りに終わってしまう。そりゃあどろどろしてるよなあ、と簡単に飲み込まれて終わる。
 そこが「きらきらと」であることによって、鵙のイメージ(恐怖・残酷……)との乖離と、言葉としての「きらきら」の軽さと(論理の)内実の重さの対比が、重なって深みが生まれている。皮肉、のような。「きらきらと」の「と」の残し方も良い。明るいようで暗くもある後味が愉しめる。

 上五の入り方で臨場感を出し、「論理」という言葉で仕留め、「きらきらと」で現実でも言葉の面でも裏を透かして深さを増す。非常に構成が凝っていて、さらっとしているようで読めば読むほど重くかつ眩しく響いてくる、名句だと思う。
 楸邨は動物の句がかなり多く、鵙の句も他に十数句ある。「きらきらと」は皮肉めいた部分だけではなく、鵙への愛着からくる本心の「きらきらと」でもあるのだろうと思う。動物句では真っ先に思いだすお気に入りの一句である。

記:丸田

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