酒が飲める ことがうれしい CM の歌 むごすぎる 「けっこう 見ていきましょう 伊舎堂仁

所収:「ねむらない樹 vol.4」書肆侃侃房 2020

 連作「たすけて」より。当書は新人賞の選考結果が掲載されている号であり、どうしても小さくまとまってしまう(傾向的に)応募作品たちの後の二つ目にこの連作が載っていて、その差が非常に印象的だった。見た目から自由の作品で、最後の一首は下の句が手書きになっている。

 伊舎堂仁の短歌には、ふざけているような面白いものが多い。ただ大喜利をしているだけなのではないかというような歌も見られる(そもそも短歌そのものが、短歌という大喜利の蓄積でしかないのかもしれないが……)。ただ、ここで考えさせられるのが、そのふざけ方が、ふざけるしかなかったように見える瞬間があることだ。それは、自分がいじめられた経験を、敢えて笑い話にすることで乗り越えようとする感覚に似ている(違うかもしれない……)。別に誰かを笑わせようと思って書いているのではなく、真に思ったことを表現するにはその在り方でしかなかったというふうな。
 歌集『トントングラム』(書肆侃侃房、2014)で、加藤治郎は帯に「少し笑ってから寝よう。」「短歌エンターテインメントの世界」と書いている。売り出すために「笑い」「ユーモア」のジャンルに入れられたのだろうが、加藤が解説で触れているように、簡単に笑っていられるような作品ばかりではない。

  献血かぁ 始発までまだあるしねと乗ったら献血車ではなかった  『トントングラム』
  はだいろの団地にいたのです すさまじいもの埋めてでてきたのです  同
  由来は、ときいてもすぐにはこたえてはくれずにカップをおいて「蛍が、  同

 献血の「かぁ」の感じ、乗った車が分からない恐怖。「はだいろ」の団地とは、埋めた「すさまじいもの」とは何か。名前の由来ですぐに答えださない理由。シンプルなお笑い短歌を作っている人だと見られはしないかと、帯を見るたびに未だに心配になってしまう。

 笑う、ということは、冷酷さと表裏一体であったりする。無防備に笑える歌と、ぞっとするようなユーモアの歌が頻繁に交替することで、そういう「笑い」の性質について思わされる。

 短歌、というものも、冷酷さと一体なのではないかと思う。短歌にするということは、リズムと文脈の上に乗るということだから、過剰に装飾されてしまう部分や、省かれてしまう部分、取りこぼしてしまう部分、歪曲してしまう部分などがある。それを暴力と言っては極端かもしれないが、冷たいな、と思うことは今も頻繁にある。
 短歌というか、書くこと、話すこと自体にそもそも、そういうものが付きまとうのだろうとは思う。伊舎堂の作品は、定型でないものだったり、短歌っぽくない単語(短歌っぽい単語とはなんだ、とも思うが、「桜」「光」「夏」などよりは「闇金ウシジマくん」「2000万」(連作「たすけて」より)の方が、ぽくない単語だと感じる)が多い。それは、「っぽく」なって、思っていることが歪められるのをできるだけ拒否しようとしているのではないかと思う。その拒否の力が強いあまりに、独特の寄せ付けない力が歌群に在るように思うが、それこそがオリジナリティだろうと私は思う。

 さて〈酒がのめる ことがうれしい〉の歌について、怖い、と最初に思った。誘拐されているような気持ちになったからである。一字空きの多用が、上から読んでいって、どういう風に続いていくかがまったくわからなかった。「酒が飲める」から、仕事終わりとかかなと思えば、「ことがうれしい」になって、20歳になったのか、急に酒に感謝し始めたのかと思えば、「CM」になって、CMの話だったのかとなり、「歌」「むごすぎる」になって、歌?惨い?とCMの歌を思いだそうとしている瞬間に、「「けっこう」で、混乱する。何かの酒のCMの声が入ってきたのか、誰かがCMに対して喋りだしたのか(「けっこう」で始まる有名なCMがあるのかもしれないが、私は知らなかった)。混乱しているときに、「見ていきましょう」と言われる。CMの歌がむごいと言っているのに、それを見ていこうというのはどういうことか。惨いから逆に見たくなる、スプラッタ系の映画の感覚なのか。もしかしたら見ていく対象がCMではないかもしれない。何が何だか分からない。目隠しして攫われて、誘拐犯同士で全く関係ない話をし始めたみたいな(「コンビニで飲み物買っていこうぜ」的な)恐怖がある。
 他の歌、連作タイトル「たすけて」も考慮すると、私たちは、気付かないうちに笑うしかないような怖い事実に囲まれていることが分かる。
 以下、まとめに代えて。

 すこし怖い 日常 のリズム(笑)(詠)「これからも 見ていきましょう

 

記:丸田

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