所収:週刊俳句 第691号 https://weekly-haiku.blogspot.com/2020/07/10_19.html?m=1
一読して読み直したとき、上五を「冷房や」に空目した。掲句の上五は「寝室や」である。いやしかし、意味からして普通、上五は「冷房や」として書き始めるのが定石なのではなかろうか。季語の方が上五や切れとは膠着するから。
そういう風に思ってしまうのは、ぼくが(われわれが)季語に思考を促されるかたちで句型を決定することが多く、句を書くときだけでなく読むときにも無意識にその手順を再現してしまうからだと思う。つまり「冷房」が季語だから、上五や切れと親和的だろうと思い、頭の中で勝手に上五や切れを「冷房」を置き換えて、「冷房や寝室にして絵傾き」くらいで掲句を無意識に別の次元で認識している自分がいる。そしてその自分に否をつきつけるぶん、読みのスピードが落ち、句の読みがメタになるのである。
掲句はそういう定石をハックしていることがその旨味の主たる部分と言わないまでも面白みのそれなりの部分を占めていて、となると、その読みの定石をハックしているか否か、というときに、言うならば勝負を賭けられているのは、われわれの読み手の偏差値に対してであり、読みの共同幻想に対してであり、読みの信頼性に対してなのである。こういうことを書くと、エリーティシズムだとか蛸壷的だとか何とか言われがちだけれど、しかしそういう風に書かれている句に対して誠実さを示す方法は今のところぼくはそのメタに応答する読みを試みることにしかないと思う。その営為の善し悪しはまた別にして。貨幣経済が信頼をもとに再生産していくというのが何となくよく分かった。
記:柳元