目がさめるだけでうれしい 人間がつくったものでは空港が好き 雪舟えま

所収:『たんぽるぽる』2011年 短歌研究社

どこの空港もそうなのか分からないけれど屋上や屋上に類するところにバルコニーのようなものが設えてある。そこから降り立つ飛行機を迎えたり、あるいは親しい人が乗り込んだ飛行機を見送ったりもする。

空港という名詞が情緒的なのはそういうところで、つまり人とのと別れとか再開とか、そういう場として機能する美しさがあるのだと思う。

そしてそういうこととは別にして、空港は建築物としての美しさもある。臨海部の空港の、大きな窓から差し込んでくる海の柔らかな照り返しは何とも言い難い嬉しさがある。その窓は夜には大きな鏡のようになる。フライト後の自分のやつれた姿が映る。最終便が着いてしばらく経ったあとの無人のフロアはとりわけそれが際立って、普段は人で溢れているから気がつかないけれど、空港はこんなにも大きくて広くて淋しい場所なんだ、と思う。

〈目が覚めるだけでうれしい〉というフレーズの驚くほど単純で、そして些か安直な生の肯定は、ある種幼児退行的であるように感じる。なぜなら実際この世界はもっと困難で、複雑で、悲しみに満ちているのは諸氏がご存知の通りで、赤ん坊すらこの世に生を享けた悲しさに泣きじゃくるのだ、という慣用句すら引きたくなる。

けれど、ここにおいては作中主体はそういうものに目を瞑り、虚勢を張る。というかたぶん虚勢ですら無いのかもしれない。本当に〈眼が覚めるだけで嬉しい〉のである。言祝いでいるのである。

このフレーズは両義的で、明るく素直な切実な主体を提示しながら、ごく僅かながら屈折したニヒリズムを無意識のうちに世代として内面化しているように思える。

しかも本人がニヒリズムを感じていないであろうことで、そのニヒリズムが無敵になっている感すらある。

ここで書かれているのは浅くて単純なヒューマニズムだと思う。でもそれを切実さ一辺倒で突破しようとしているからこその強さがあって、それこそが唯一の生き方のように感じている作中主体がいる。そしてその生き方を否定出来る手札が、もうペシミストの側には無い。何かそういう諸々の、平成という時代の虚無で底抜けの明るさ、消費社会の消費することでしか物事が進んでいかない難しさが、鋭敏な感性とともに現れている感じがする。

記:柳元

“目がさめるだけでうれしい 人間がつくったものでは空港が好き 雪舟えま” への2件の返信

  1. 好きな歌で、なんで好きなのかなと言語化する機会もなかったのですが、この記事を読んで書くきっかけになりました。
    以下ちょっと長いですが、この場をお借りします。

    私は普段、空港に限らず、建造物をみて「人間がつくったもの」と意識することはほとんどない。
    あえて「人間がつくったもの」と表現することで人間の営みを俯瞰している感覚が前面に出ている歌だなあという印象がある。
    自らも人間でありながら、それを離れたところからみている視点。
    「俯瞰」でググったら「高いところから見おろすこと」との意味が出た。
    「俯瞰」とリンクして飛行機から見おろされる空港のイメージがわく。

    「目がさめるだけでうれしい」は、「目がさめるだけ」だからうれしいのではないか、とふと思った。
    目覚めると、例えば仕事がきらいな会社員だったら、今何時だろう、会社行くまでどれくらい時間があるか、とか、
    会社着いたら昨日の続きのあれをやらなきゃ、だとか、またあいつに会わなきゃいけないんだな、とか、
    もっと寝ていたくてもうんざりしながらも、起きてその日するべきことの準備を始めるのだろう。
    逆に、うれしいことがある日はウキウキしながら目覚ましの鳴る前に起きてさっさと準備にとりかかってしまう
    なんてこともあるだろう。

    私が“「目がさめるだけ」だからうれしい”と思ったのは、上記のその日の出来事に気分が左右されるような状態の前に、
    ただ目がさめただけで何の属性も自らに適用しない、まっさらな状態があると感じるからだ。
    時々起きて、ここがどこで自分がなんでここにいるのか、一瞬わからなくなっていることがある。
    寝るという行為は、一旦寝る前までの脈絡をリセットする。
    リセットの度合いはその都度違うだろうが、リセットすることで、性別が変わったり、空を飛んだり、
    アイドルと普通に友達だったり、学生時代に戻っていたりなどの夢をみることができる。
    もちろん気分のいい夢ばかりではなく悪夢もあるだろうし、夢自体覚えていないこともある。
    どちらにせよ起きると、寝る前の脈絡を取り戻し、学生だの会社員だのと自分に属性を適用して昨日の続きを送り始めるのだ。

    「何の属性もないまっさらな状態」は、寝る前の脈絡を取り戻す前の、空白の部分、
    「ここがどこで、なぜ自分はここにいるか」という疑問がわく以前の、どこでもなく、何者でもない状態である。
    それはただ存在しているだけの感覚で、自らを規定することで生まれるわずらわしさも楽しさもない。
    今日はこれがあるから嫌だ、もないし、今日はこれがあるからうれしい、もない。
    「目がさめるだけでうれしい」は、何々だからうれしい、何々だからかなしい、の「何々だから」がなく、
    ただ存在している感覚を純粋に味わえている状態なのではないか。

    日常から、夢という状態を通過して目ざめ、また日常に戻っていくのと、
    空港から離陸した飛行機が空を経由して、また空港に降りてゆくのもなんだかリンクして感じるのであった。

    1. 濃度さま

      ブログご高覧くださりましてありがとうございます。コメント拝読いたしました。ご返信遅くなりまして失礼いたしました。

      目覚めるというのは日常→夢→日常という営みであり、それが飛行機の陸→空→陸とアナロジーになっているというのは気持ちの良い読みですね。逐語的ながら深く読み込んでいく鑑賞で、嬉しい気持ちになりました。拙文に代えたいくらいです。

      また気が向いたときにコメントいただければ幸いです。ご自愛くださいませ。

      柳元佑太

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