巨き星めらめら燃ゆる木枯に 相馬遷子 

所収:『山河』 東京美術 1976

スーパースターと呼ばれる人物がどの分野にも、存在する。

生まれ持った資質に寄りかかるのではなく、度しがたいほど精力的に、もしくは無邪気に見えるほど熱心に打ちこみ、誰よりも高い志を抱いている。その姿を常人は仰ぐことしか出来そうにない。巨星の熱に肌を焼かれながら、尊敬するか、滑稽に思うか。自らも同じ高みに登ろうとして、無理だと悟るか。そこで諦めるか、自分に出来ることを頑張るか。

溢れるバイタリティは自らを燃やして尽きる。燦爛とかがやいていたはずの巨星は忽然といなくなることもあり、去り際まで燃えて、ふっと消える。巨星が照らしていた範囲を知り、頭上の空虚さと、巷を覆う暗闇の広さに気がつく。それでも巨星は昇りつづける。寂しさを導く木枯らしに燃えるようにして、巨星は心の内に輝く。一人の心だけではなく、人びとの記憶の中に、巨星なら輝く。

あまり鑑賞に関係ないが、吉行淳之介に『スーパースター』という題名の短編がある。同年輩の三島由紀夫について、吉行がどのような感情を持っていたか、回想が主になり話が進んでいく。 三島もまた数少ない巨星の一人だった。

                                            記 平野

春の筆かなしきまでに細かりし 田中裕明

所収:『櫻姫譚』ふらんす堂 1992

何を書くでなく筆を持ってみたりする。考え事をする際の癖なのかもしれないしそうでないのかもしれない。それによって何かを思いつく訳でも、特段安心する訳でもないが、しかし何となく筆を持ってみたくなるときがある。

そしてそんな日は、普段にも増してその筆が心細く思われる。寂しく思われる。何があったというわけではないのだけれど。春の憂いというものか、などと、のんきに考えてみたりもする。

裕明には〈好きな繪の売れずにあれば草紅葉〉〈約束の繪を見にきたる草いきれ〉など、絵の句が多いから「春の筆」とは絵筆なのかもしれない。

けれども、よく考えてみれば裕明の絵の句はほとんどが鑑賞する側。と思うと、絵筆ではなく、書に用いるときの筆と考える方が何となく自然な気がする。

ちなみに『櫻姫譚』は千葉皓史の装丁。クリーム色の表紙に薄いピンクの帯が美しい。

記:柳元

石段のはじめは地べた秋祭 三橋敏雄

所収:『しだらでん』沖積社 1996

文字通り、石段を昇る手前の場所が地面そのままであることを詠んでいる。こういった石段はよく見るけれど、このようにわざわざ言葉にしなければ気に留まることも思い出されることもない。
「地べた」と「秋祭」の間に切れはあるものの、この順に語が並ぶことで地べた続きに秋祭の風景がイメージされる。夜店や提灯の並ぶ淡く眩しい通りやその地面の硬さ。
秋祭は、収穫後に豊作に感謝して行われるもので、「地」とは非常に関わりが深い。だからこそ、この句の「地べた」はただの風景としてでなく、どことなく親しみをもって現れる。

記:吉川

白き午後白き階段かかりゐて人のぼること稀なる時間 葛原妙子

所収:『葡萄木立』白玉書房 1963

 文字だけで圧倒されそうになる眩しい一首。「午後」や「階段」などの詩的な単語をいくつも入れようとなると、だいたいその語の詩的な雰囲気に追いやられて、一首固有の世界を描けずに終わってしまうことが私はよくある。しかしこの歌は語に負けることなく、むしろ、とことん語の詩的さを増幅するように書かれていて、異様な光量を放っている。

 まず上の句、「白き」の連続がぱっと目に入る。白い午後の白と、白い階段の白は、果たしてどれほど近似したものなのだろうと思う。全く同じ白であれば、階段が、午後の白に埋もれて見えなくなってしまうのではないか、そうだとしたら、少し異なる白なのか、もしかして、光の白と色の白なのか……などと考えるうちに、午後(時間帯)と階段(物体)という全く異なるものが白を通じて重なりあっているのが面白いなあ、と感じた。なんだか分からないけど空間もその中のものも白いのだ、ということだけは確かに分かる。
 下の句、「稀なる」が巧くできた修辞である。めったにないが少しはある。0ではない。その白い階段を誰かがのぼることはある。ここでは「稀なる時間」と書かれてあるだけだが、この白い現実感が薄れていく光景の中で階段を上っていた人のおもかげがすーっと残る。居ないが居る人の姿によって、白で広がりつづける一首にキレと説得力を与えているように思う。また、漢字が稀薄の稀であることも、一首の立ち上がる光景に好影響を与えている。

 私は、幻視的な作品と見ている(意識が遠のくような眩しい、本当に白い世界)が、ふつうの現実の日常風景のように読むこともできるかもしれない(少し眩しい午後、ビルの外にあるような階段にあまり人が通らないなあと思う、というふうに)。ただ、どうしても、人が白い階段を上っていくということに、死や昇天がちらつく。そして「かかりゐて」に、もとからそこに在ったのではなく、白い午後に俄かに架かった感覚が受け取れる。どちらにせよ白と時間のうつくしい余韻を味わいたい。

 「白き」の連続、「稀なる」の巧さ、「午後」で始まり「時間」で終わる構成の意識・うつくしさが、読むたびに私を白い世界に誘拐してくれる。

記:丸田

花花花花花花花かな 三井秋風

所収:『近世俳句俳文集』(「新編日本古典文学全集72」小学館 2001)

〈吉野にて〉の前書がある。例えば貞室の「これはこれはとばかりの花の吉野山」みたいに、桜があまりに美しくて圧倒されたから言葉にできなかったよ、と過剰に桜を讃える歌や句、または「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」などの誇張された表現は胃もたれしそうになるので避けてきた。実際、桜を目の前にしたところで、太い樹だなと思うだけ、どちらかと言えば人ごみの方に興趣を感じる。

先日、山手線に新しく出来た高輪ゲートウェイを見た帰り、高田馬場で下車しようと考えていたはずが、いつの間にか三駅も寝過ごしてしまった。逆回りに乗るのもなんだか癪で、流れに任せてみるかと大塚駅前から都電荒川線に乗りこんだ。すると面影橋に差しかかったあたり、神田川沿いの桜並木が満開になっていて、せかせか過ごしていたならば鬱陶しく思うだろう桜や人が、心にゆとりを与えてくれる。自分へのささやかな慰めとなった。

掲句、花を七つもつづける人を食った気分にしつこさを覚えながら、花の繰りかえし以外は何も言わず、ただただ「かな」と詠嘆する姿勢に、忙しい生活のなかでほっと一息ついたときの余裕をおもう。胃もたれもまた余裕をもって眺めれば一興だろう。桜はこうした視点を与えてくれる。

                                            記 平野

良く酔えば花の夕べは死すとも可 原子公平

所収: 『良酔』風神堂 1980年

週末、コロナ禍の上野公園に行った。美術館、博物館、動物園が軒並み休止しているにも関わらず、存外に人で溢れていてやや面食らった。訪日外国人客が上野から消えて驚くほどがらんとしているという前情報があったから訝しく思ったものの、道なりに歩いてみればたちまちに理由に思い当たる。

まだ七分咲きではあるものの、桜が開いている。つまりこれらの人々は、コロナウイルスが猛威を奮うなか、逞しくも咲きかけの花を目当てとして酒瓶片手に集まっているのである。

もちろん公園を管理するサイドもコロナウイルス対策をしている。ブルーシートを引くことを禁じ、平時のようにゆっくりとした花見は行えないようになっている。

しかし平安以来の伝統である桜樹下での酒宴、その程度の対策では妨げることが出来ない。堂々とブルシートを広げ、注意されたら場所を変えるというゲリラ花見戦法をとる人、地べたに座ることを意に介さず芝生でへべれけになっている人。

死すとも可、と言った原子公平のような強靭な意志でコロナ禍中の花見を企てた人がどれくらい居るのかは分からない。けれどもまあコロナウイルスに感染しても可、くらいには思ってはいるのだろう。

彼らを積極的に肯定するつもりはないけれど、エンタメが自粛に次ぐ自粛のなか、屋外という換気環境であることに鑑みればこれくらい許されてよいのではないかとも思う。まして支持者を集めて公金で呑んでいる訳でもあるまいし。

ワンカップ大関を啜ってみても死すとも可、という気持ちにはならなかったけれども、楽天的な気持ちの延長にふっと死が待ち構えている感覚はぼんやりと分かる。

記:柳元

獏 柳元佑太

獏  柳元佑太

浴室に鰐飼ふ夢を町ぢゆうの人間が見し春のゆふぐれ

孔雀その抜けし羽根こそ美と云はめ蓄電したる様と思はば

鉛筆を作る仕事につきにけり日に二本づつ作る仕事に

草木を抽象化せし文字(もんじ)らに雨季は花咲く気配感する

月は日の光を盗み輝けり黒猫の眼を見てより思ふ

婚約の日に飼犬を選びにゆき入籍の日に受け取りにけり

ウヰスキーを海と思へば忽ちに黄金(わうごん)いろの魚跳ねたりや

優しさゆゑ運河逆流してゐたりただ一匹の鮭の遡上に

夏は夜たとへば蛇の抜け殻は風と親しくなるために要る

かすれきし虹を補ふ働きをこころと云へり虹ぞ消えたる

歩く 吉川創揮

歩く  吉川創揮

考へる指を机に初日記

薺みちいつしか土筆みちへかな

口笛を吹くまなざしやみどりの日

げんげ田や遠きなにかの眩しさに

楓の芽大声の気分で歩く

間違えて振り向くやうに野の遊び

沈丁に自動販売機の黙が

スリッパの先へと脱げて宿の虻

この部屋よいくども雲雀のこゑ来る

夕映えの長引いてゐる田打かな

蝶々の大きく白く粉つぽく 岸本尚毅

所収:『感謝』ふらんす堂 2009

類似の表現が3つも並列された大胆な1句。一見かなりざっくりとした把握の句に見える。が、突然視界に飛び込んできた蝶に目のピントが合うまでの僅かな時間と思考の推移を、「サイズ」、「色」、「質感」の順に書くことで言い留めている繊細な1句。
このような並列表現は『感謝』には多く見られるが、どれもゆったりとした詠みぶりの中に繊細な感覚と把握が息づいている。

記:吉川

鯉におしえられたとおりに町におよぎにゆく 阿部完市

所収:『軽のやまめ』角川書店 1991

 なめらかで不思議な句。鯉とそういう関係を結べていることがまず面白い。鯉に教わった「とおりに」行くくらい素直で従順なら、せっかく泳ぎ方を教わったんだから、鯉と一緒に泳げばいいのにと思うが、そうはせず、ひとりで町に泳ぎに行く。あくまでプライベートは別という教師と生徒のような距離感がある。恐らく教わったのは泳ぎ方だろう、だとすれば「町をおよいでゆく」くらいしたい気もするが、あくまで人間で、ちゃんと泳げる場所で泳ごうとする真面目な主体。読みようによっては色々考えられる(主体が人ではなく鯉以外の魚かもしれない)が、主体の愛おしさは変わらない。大きく定型を逸れているが、助詞「に」の連続や平仮名の多用から、ゆるやかに句自体(内容も、文字も)が泳いでいるような感覚がして心地が良い。これまでの時間と、今、そして泳いでいる未来が透けて重なり合っている、非常に印象的な一句である。

 阿部完市には動物の句(鮎や狐など)が多く、主体と微妙に距離を取って描かれる。童心を基にした動物とのさりげない信頼のようなものに、いつも惹かれている。

記:丸田