この世にて会ひし氷河に嗚乎といふ 平畑静塔

所収:『平畑静塔全句集』(沖積舎、1998年)「壷国」

氷河は果てしない時間の層を抱えこんでいる。自然の表情や彩りは脱色されて、河のひろがりは濃淡であらわされるくらいの乏しい色彩となる。

それでも惹きつけられるのは、氷河に出会うとき、何億年も侵食と堆積を続ける地形の現在地点に立つからなのだろう。自然の表情は脱色されていたとしても人工っぽさはなく、かえって自然というものをありありと示す。

嗚呼という詠嘆は、胸に迫ってくる自然の厚み、あるいは時間の厚みに対して、最も誠実かつ率直な言葉だと思う。

私は氷河を見たことがない。いつか見てみたいが、今のところは面倒くささに打ち勝つほどの動機はなく、誘われても寒いからきっと行かない。

氷河は静かなのだろうか?あるいは絶えず氷のきしむ音がしているのだろうか?

分かるのは、氷河からしてみれば人の一生など無に等しいほど短いということ。そして人からしてみれば、氷河と抱える時間の厚みはこの世の尺に合わない。この世の尺に合わなければそれはあの世である。

氷河を見て、あの世みたいという感想は陳腐だろうが、結局みんな氷河を前にすればそう感じるじゃないかと思う。もしかすると実際に行ってみれば、嗚乎などというのは気取りで、こんなものかと思うのかもしれないが、それはそれで結構とも思う。

ちょっと文法の話をすれば、〈会ひし〉の「し」は恐らく完了的な用法(会った)で使われているのだろうが、文法的には過去なので、掲句の主体はこの世がすでに過去のものとなっている亡者とも考えられる。

死因は分からないけど、死んで、視界に迫ってきたあの世という場がまったくこの世でかつて見た氷河と同じで、「嗚乎、この世にあの世はあったのか」そんな落語?みたいな読みも、案外悪くないかもしれない。

記 平野

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