水田を歩む クリアファイルから散った真冬の譜面を追って 笹井宏之

『ひとさらい』 書肆侃侃房(2008年)

よくよく考えなくても、なぜ「真冬」なのに「水田を歩む」なのかと思うところ。「譜面を追って」いたら季節が巡って夏になったと読むことは可能だが、この歌の物語性の薄さに則ると、そういうストーリーにあまり寄りかからずに読みたい(これは私の好みの問題だが)。

クリアファイルの反射する光、そこから冬の日差しの中で散る譜面、そして水田の反射する光、とこの歌では淡い光が羅列され、そこに仄かに「追う」主体の姿が浮かんでくる。鑑賞者自ら「追う」主体として、物語や意味に担保される以前の淡い光そのものが持つ抒情を楽しむべきな気がしている。

記:吉川

セロテープカッター付きのやつを買う 生きてることで盛り上がりたい 永井祐

所収:『広い世界と2や8や7』左右社、2020

制服にセロハンテープを光らせて(驟雨)いつまで私、わらうの/山崎聡子
あめいろの空をはがれてゆく雲にかすかに匂うセロファンテープ/笹井宏之
疲れっぱなしの下半期 百均の幅の小さいセロハンテープ/武田穂佳
自分はこれからもっと悪くなる 見なくてもわかる 幅の小さいセロハンテープ/同

 セロハンテープといってぱっと思い出す歌を並べてみた。その透明さからくる素敵な雰囲気が詩的に昇華されていくものもあれば、生活圏内で多用する道具としての一面が濃く出ているものもある。

 永井の歌は、どちらかというと生活の中の一道具としてのセロハンテープ感が強く出ている。「カッター付き」であることで一気にストレスフリーになるセロハンテープ。もし詩的なものとして「セロテープ」を見つめるなら、カッターがついていようがついていなかろうがさほど関係ないだろう。「付きのやつ」という言い方からも、より便利なものだとなんとなく捉えられているだけで、それ以上のものは見られていないように思う。
 この、ふつうセロハンテープといえば思い浮かんでしまうような透明な素敵さを、ほぼ無視して道具として押し出すことが、逆に詩的に感じられてくる。

 下の句では、「生きてること」自体の素晴らしさで「盛り上がりたい」と言う。たしかに、生きつづけていること、生きられているということは常に奇跡の上で成り立っている。生きて、社会の中で動いて、忙しく色んな事を考えていると、つい生きていること自体の奇跡を忘れてしまう。改めて生きれていることで盛り上がりたい、という主体の気持がとても分かる。
 ここで面白いのは、その感覚が生じたきっかけが、カッター付きのセロテープを買ったという点である。見過ごして忘れてしまうようななんてことのない幸福、というのを、そんな小さな道具が引き出しているというのが面白く、感動的である。ここで、うつくしいセロハンテープの透明さが、主体に人生まで透かして見せて、こう感じるに至ったなどと無理矢理詩的に解釈していくことも可能ではあるが、ここではそれはしない。セロハンテープを詩的な要素として使っているから良くなっているのではなく、敢えて道具的な側面を言うことでそんな道具から考えたのかと思わせ、飛躍自体の詩的さを全体で増幅している点が優れているのである。

 実際この歌は、いち道具から思考が飛び過ぎているのに、さほど違和感なく受け入れられるのは、それくらい思考というものは常日頃からぶっとんでいるんだということが、無意識のうちに分かっているからなのかもしれない。上の句と下の句というテンプレートを持つ短歌は、その形からして、そういう生活上の思考の飛躍を記すのにはぴったりな形なのだろうと、永井祐の歌を見て改めて思う。

 とだいたいこの歌に関してはそういう把握(小さい道具に端を発して、生きていること自体の嬉しさに目を向けたという歌)だが、最後の「盛り上がりたい」には若干アクというか、すっと飲み下せない何かがあるように思う。
 この「盛り上がりたい」を、テンションの高いクラブでのダンスや、友達と集まってするパーティーのようなものとして考えると、急にみんなを巻き込んでいるのが気になる。生きてることを「みんなで」盛り上がりたい、となると、そこに事情を見てしまう。何もかもみんなと感情を共有したいという若者的な感覚なのか、みんな生きてることの奇跡を忘れてしまっている、そうさせられてしまうような忙しく圧をかける社会があると非難する意図があるのか。
 「盛り上がりたい」をひとりの、自分自身内で完結する感情と考えると、「たい」が気になる。~したい、という言い方は、その時点ではそれが叶っていないことを意味する。空を飛びたい、と言えば、今は空を飛んでいない。ご飯を食べたいと言えば、今はご飯を食べていない空腹な最中だと考えられる。「盛り上がりたい」とは、今、またそれまでは生きてることだけでは盛り上がれていなかったことを意味する。ここでも、生きてること自体の大切さを忘れさせてしまっていた原因をいろいろ想像してしまう。
 カッター付きセロハンテープから、「生きてることで盛り上がりたい」と思えた、その思えたということに希望を見たいが、主体は果たして今後生きてることで盛り上がり続けることは出来るのだろうか。買った一分後には、そんなこと言ってもやっぱりそれだけじゃやってられないよね、と熱が冷めてしまうかもしれない。
 この歌に、生きてることで盛り上がるぞ~と嬉しくなっている主体を見るのか、生きていることだけでは正直盛り上がれないと分かっていて寂しくもそう言っている主体を想像するのか、私/みんなが生きていることだけで盛り上がれるような世界になればいいのにと祈りに近い感情を抱いている主体を想像するのか。はっきり見えるようで、見えない、まさにセロハンテープの歌だなあと思ってしまう。 

記:丸田

螢籠一夜明くれば乾きゐて 宗田安正

所収:『個室』(深夜叢書社 1985)

橋本多佳子の〈螢籠昏ければ揺り炎えたゝす〉が下敷きにあるとして、情念が燃え上がるような多佳子の句に比べると、いかにドライな目線をもっていることか。最後の力を振り絞って燃えたあとの、抜け殻、燃えて、燃え尽くして、それでおしまい、そんな螢をあざ笑うみたいに、ことごとく我が事から引き離し、心も乾き、ニヒルな笑みを浮べ、そんな自分をさらに他人として眺め、燃えていた時間をばからしく思う。ゐて、と突き放す、若かったんだな、と思わずにいられない。俳句から離れていったという宗田、その十九歳から二十四歳までの句が『個室』に収められている。

記 平野

椅子に深く、この世に浅く腰かける 何かこぼれる感じがあって 笹川諒

所収:『水の聖歌隊』書肆侃侃房、2021

 椅子、深浅、「何かこぼれる感じ」となんとなく曖昧なもので構成されている。見過ごしてしまいそうになる薄味の歌で、たとえば「この世とは~だ」(塚本邦雄の「ことばとはいのちを思ひ出づるよすが」的な)みたいな切れ味のあるものは用意されていない。
 が、この一首は、この一首全体で、静かで鋭い切れ味があるように思う。

 上の句は読みがいくつか考えられる。ひとつは、椅子に深く座ることが、同時に、この世に浅く腰かけることであるという読み。椅子に座るという動作を通じて世界の真理に一瞬触れることになる。二つめには、椅子には深く座り、この世には浅く腰かけると別の行為として取る読み。この世に腰かけるには浅めでいい(浅めにしか座ることが出来ない)という、主体の態度が見えることになる。三つめには、椅子に腰かけたあと、しばらく瞑想のように浸って、空想(脳の遠く)でこの世に腰かけるという読み。「深く、」の部分に時間が置かれることになる。

「何かこぼれる感じがあって」。自分では分からないものが、分からないところで限度の量を迎えていて、零れる感じがした。それが主体自身の中でなのか、「この世」の方で起きたのかは分からない。
 この反応が、なんとも微妙で、だから、読みがどれになるかが特定できないでいる。個人的には、「あって」の部分がものすごくあっさりしていて他人事感があるなと思った。これを、椅子に座ったらいつのまにか「この世」に接続されて、とつぜん零れる感じがした、と巻き込まれたように考えることも出来るし、別に最初から「この世」に深く腰かける気など無く、「何かこぼれる感じ」にハマって度々腰かけているようにも考えられる。座ってしずかな瞑想の果てに、「何かこぼれる感じ」をようやく得て、その達成に自身でもびっくりして「あって」としか言えない(「あった」とは言えないくらいに)、とも考えられる。

 この歌に対して、こちらが浅く腰かけるのか、深く腰かけるのかで、「浅く」「腰かける」の印象や、「何かこぼれる感じがあって」の主体の感覚の見え方が異なってくる。椅子とこの世を繋げて深浅で分かりやすく提示して軽い下の句でおしゃれにしたとも、本当に椅子とこの世に真摯に対峙した結果得られたものをあいまいなままに述べているとも読める。読者の方々にそれは委ねられるが、個人的に私はどうかというと、半々かな、と思っている。歌集に収録されている他の歌を見てみても、水的な感性や感覚で世界を捉えたという静かな歌もあれば、今風なかるい口調と発想で書かれたものもあり、この歌に関してはちょうど半々だと思う。ただそれは悪い意味ではない。こういう世界や宇宙や真理や答えみたいなものに、思いがけず触れてしまったとき、リアクションは一様にしてこうなってしまうのではないか。この歌の曖昧さや軽さが、そのまま、深い部分に触れていることを表しているように思う。一首自体が、雰囲気として、切れ味を持っている。

 最後に、一応この歌は巻頭の一首であり、「こぼれる」という章のなかにある。『水の聖歌隊』というタイトルから含めて、水のような柔軟さと神聖さで、色んなところに着いてしまう、気づいてしまうような歌が多く、掲歌もその一つなのだろうと思う。

『水の聖歌隊』には他に、〈どの夏も小瓶のようでブレてゆく遠近 学生ではない不思議〉、〈そう、その気になれば天使のまがい物を増やしてしまうから神経は〉、〈分別と多感 夜には見えているはずだよ宇宙の巨大広告〉、〈優しさは傷つきやすさでもあると気付いて、ずっと水の聖歌隊〉などがある。

記:丸田

母と海もしくは梅を夜毎見る 岡田一実

所収:『記憶における沼とその他の在処』(青磁社・2018)

日が落ちて夜のとばりが降りる。母を連れ立っての夜の散歩には二た通りの道がある。一つ目は海を見に行く道。二つ目は梅を見に行く道。その日の気分や体力、天候条件などが母子の散歩のルートを決定する。すっかりルーチン化した行程は特に母子に感慨をもたらすこともない。しかしそこには習慣しかもたらす事の出来ない美しい静寂がある。家を出て、歩き、家へ戻る。むろん若干の会話はあるのかもしれないが、二者の成熟した関係性の落ち着きは静寂を損なわない。互いに抱いていたわだかまりは長大な時間が溶解させた。互いを老いゆくものとして意識したとき、母子関係というよりもひとりの個としてお互いがお互いを見つめ直す。

——そんなことがあったりなかったりする夜の逍遥である。道のりの途中には夜の海辺に打ち寄せる波音が待ち受け、あるいはともすれば妖艶にも見える梅の花が香りを放っている。春が来ている。構成的にも見える、冷徹な手つき、修辞の充実にも一言触れねばなるまい。

岡田一実氏は第四句集『光聴』を上梓されるとのこと。2021年3月25日発売。版元は素粒社。

記:柳元

手押しポンプの影かっこいい夏休み 長嶋有

所収:『春のお辞儀』ふらんす堂 2014

この句についてごちゃごちゃと書くのは無粋というものだが、「かっこいい」という形容詞がまるで感動詞のように機能しているのがこの句の妙だろう。「夏休み」というノスタルジーを含んだ季語が取り合わされることで、この句の「かっこいい」は子供のように素直な(子供を素直なものと簡単に受容するのは好きではないが上手い書き方が見つからない)純度100%の「かっこいい」となる。

手押しポンプがかっこいい、ではなく手押しポンプの影がかっこいい、となっているのも良い。影に注目すること、そこに「夏休み」が取り合わされることで句から浮かぶ映像がコントラストの効いた鮮やかなものになる。

最初子供のように素直な感動がこの句に表れている、と書いたが私はこの句の主体が子供であると限定はしたくない。同句集には次のような句も収録されている。

エアコン大好き二人で部屋に飾るリボン
ポメラニアンすごい不倫の話きく

どちらの句も無邪気な印象を受けるが、その主体はおそらく子供ではなく、大人のチャーミングさが現れている句だ。大人になっても手押しポンプを見たら興奮してしまう私としては、掲句もまた上記2句に連なる1句であってほしいと思っている。

記:吉川

羽根を打つために駆け出すそういえばこの世の第一印象は空 盛田志保子

所収:『木曜日』(書肆侃侃房、2020)

 羽根→手もと(打つための道具が何か想起される)→足(駆けだそうとしている)→(一瞬映像が消える(「そういえば」))→空。何でもない行動と、なんとなく思い出したことが、詩の上で奇跡的な出会いを果たしている一首。

 あまりにもそこにありすぎるせいで意識からは外れてしまうが、確かにずっと空は上にあり、風景の大部分を占めつづけている。「第一印象」という言葉(考え方)を使って周囲や世界を捉えるようになるのは少し成長してからにはなるだろうが、空が広くて青く、そこに辺り全部が包まれているような感覚は小さいころ誰しもが持つのではないか。
 この歌の「そういえば」は、読者(読む人間すべて)の感覚を呼びおこす、一番ちょうどいい言葉だと思う。そういえば空ってデカイよね、みたいな、改めて空を認識するにはちょうどいい距離・温度感。もし「そういえば」が無くて、

 羽根を打つためにわたしは駆け出した この世の第一印象は空

 このように改作したとすれば、たしかに清涼な空気はあるものの、下の句がやや唐突になってしまう。この人(主体)はそう思ったんだな、の段階で止まってしまう。「そういえば」くらいの感覚で思い出されることで、こちらも乗っかってそういえばそうだなと空に思いを馳せることになる。

 世界の第一印象とは、単に想像された頭の中の話だが、「羽根」「駆け出す」という素材・動きと、「そういえば」のおかげで、「この世の第一印象は空」だと思い出させるほどの青空がそこに広がっていることが見えてくる。言われてないのに、ここまで光景がくっきり見えてくる歌もそうそうないと私は思っている。
 もしかしたら、この世の第一印象は空だというのは、嘘かもしれない。第一印象は母親だったり、(産婦人科の病室の天井が)白い、とかそういうものだったかもしれない。ただ、駆け出したその瞬間には、それが嘘でないと自分に信じてしまうくらい、その空が迫力あるものとして感じられた。こういう、下の句でばっさり思い切った詩的な気づきを言うみたいな歌はたくさんあり、それがどう考えても嘘だろうというか、本当にそうか? みたいなものはよくある。ただこの歌に関しては、嘘であってもそう思わせるくらいの力が世界にあったことが(それを快く主体が感じたことが)分かるから、とても読んでいて腑に落ちる。

 わたくしが鳥だった頃を思い出す屋上で傘さして走れば  岡崎裕美子『わたくしが樹木であれば』

 どこまで遡って感じるのか、そしてそれをどこで、どういうことをするときに思い出したのか。岡崎のこの歌も、なんとなく似ていて思い出した。空を見ていると、思いもしないことまで、思い出さされてしまうかもしれない。怖くもあり、美しくもあることである。

記:丸田

夢の世の夢をばつさり松手入 大谷弘至

所収:「古志」(2021年 2月号)

はかない世を慈しんで夢の世と言う。弱々しさの蔓延する夢の世の「夢」の部分をばっさり切り落とすとき、眼の前にはグロテスクな「現実」が立ち上がる。それは夢と現が混じり合ったところの現実よりも生々しい「現実」である。その無謀とも言うべき感慨を包みこんでいるのが松手入という季語であり、季語によって、個人的な感慨は軽やかに乗り越えられ、大きな時空への一体化が図られる。個は消え去り、その代わりあらゆる時間・空間が渾然とした巨大な記憶ともいうべき宇宙が現出する。

この大きな時空への志向を可能にするのが季語への信頼である。信頼とは寄りかかることではなく、疑い続けた上でそれでもなお信じることに決める強さである。それは例えば小沢健二が『天使たちのシーン』で「神様を信じる強さを僕に 生きることをあきらめてしまわぬように」と歌ったところの強さに似て、ナイーブな青年の心を歌った小沢と異なり、掲句はそうした青年期を乗り越えた者が疑心の末に獲得した信頼を感じる。

この精神の強さが、夢の世ではなく「現実」を凝視しようとする掲句の態度に通じる。松尾芭蕉が説いたところの「虚に居て実をおこなふべし」に欠かすことが出来ないのは、この強さではないかと掲句を鑑賞しながら考える。神様を信じられるかどうか、これは人を信じられるか否かに通じ、人を信じられるとき自分も含めすべてを信頼する安らかさへ心は深まっていくのだろう。また、掲句に威勢をつける「ばっさり」は手垢のついた語であるため一層の効力を発揮している。〈平談俗語〉も合わせて思い起こしておきたい。

記 平野

孤児たちに映画くる日や燕の天 古澤太穂

所収:『古澤太穂句集』1955年

掲句には「中里学園にて」という前書があります。調べてみると中里学園は孤児院らしい。初出にあたれていないため掲句が書かれた時期は類推するしかありませんが、同時期に句集に収められている句との関係から推測すると敗戦直後、すなわち1945年から1955年の間であることは間違いないでしょう。

太穂は結核療養の後は終生横浜に住んでいました。運動などで飛び回っていたとは言え、やはり横浜に根差して書かれた句がやはり多いようです。横浜の孤児のことを考えるためには、その孤児の生育環境としての横浜を考えねばならないでしょう。そのためにまず横浜大空襲から話を始めます。

戦中、横浜の街に壊滅的な被害を与えたのは1945年5月29日の横浜大空襲でした。この横浜大空襲は白昼堂々行われました。これは焼夷弾が木造住宅の密集地に与える損害を計測することを目的とした米軍の実験的な大規模空爆であり、横浜市街を中心に大きな損害が出ることとなりました。「横浜大空襲体験講話」によると8000人から10000人の犠牲者が出ており、非戦闘員を狙った住民標的爆撃でした。以後横浜は焦土にバラックが点在することとなります。

『占領軍のいた街 戦後横浜の出発』(横浜市ふるさと歴史財団近現代歴史資料課市史資料室担当編 横浜市史資料室 2014年)に掲載されている戦後進駐軍が撮影した写真などを確認すると、桜木町駅の辺りは焼け残っているものの、市内は基本的に焼野原であることが分かります。

そして日本は敗戦を迎えます。1945年8月30日に厚木飛行場と横須賀港から占領軍の進駐が開始されました。厚木飛行場に降り立ち、タラップでコーンパイプを燻らせ、ポーズを撮るマッカーサーの写真は有名ですね。マッカーサーは日本側の出迎を断り、そのまま横浜に直行しました。このことが象徴的に示す通り、横浜は占領政策の中心拠点となりました。

8月30日から9月2日まで横浜の焼け残ったホテルニューグランドがマッカーサーの宿舎となり、東京に移転するまで同じく焼け残った横浜税関で執務をしていましたし、米軍の捕虜引揚の拠点でもありました。横浜は文字通り米軍の出入口、玄関だったのです(その名残は現在もキャンプ座間、厚木海軍飛行場、横須賀海軍施設などの米軍基地、あるいは根岸、相模原、池子の住宅施設が残っていることからも伺えると思います)。戦後の横浜は米軍と共にあったため米軍及び米軍基地の影響抜きに語ることは出来ません。

例えば米軍兵士相手の日本人娼婦の発生が挙げられるでしょう。中でも、黄金町は赤線地帯(半ば公認で売春が行われていた日本の地域)であり、黄金町周辺では米軍兵士相手の売春が公然と行われていました。不特定多数と関係を結ぶ娼婦もいましたし、特定の米軍将校の愛人となり囲われる「オンリーさん」も存在しました。そのような状況の中で、当然の帰結として米軍兵士の父親を持つ混血児「GIベビー」も誕生することとなります。太穂には〈巣燕仰ぐ金髪汝も日本の子〉という句が同時期にありますが、これはおそらくこの「GIベビー」のことでしょう。

また、寿町は大阪のあいりん地区や東京の山谷に次ぐドヤ街でした。寿町は戦後米軍の接収が解除された1956年以後に形成された比較的歴史の浅いドヤ街で、暴力団の流入もあり、放火や麻薬売買、流血事件などが絶えませんでした。身寄りがない独り者が流れ着くケースが多かったと思く、孤児も多かったようです。

太穂は以上のような「暗い」側面を持つ横浜に直面していたはずであり(ドヤ街の形成は『古澤太穂句集』以後ですが)、このような荒んだ横浜を直視する機会も多かったのではないかと思われます。そして、孤児というのは、こういう環境を所与として育っている者なのです。悪辣な環境の中で、身寄りもなく生活するのが横浜の孤児でした。

また横浜は横須賀港に大陸からの引揚孤児が居つく傾向にあり、また横浜駅が大きな駅であったから地方の孤児も集まって来ていたようです。このような背景に鑑みたとき、太穂が描いた孤児を取り巻いていたのは、現在のような洒脱な臨海都市ではなく、戦後も依然として混沌とした横浜であったと言えるでしょう。太穂の掲句を読むときに想像される横浜、孤児院の外側に広がる外部の横浜は、そういうものでなければならないと思います。

孤児は如何なる処遇を国や行政から受けていたのかについても検討しましょう。孤児に対する処遇については藤井常文『戦争孤児と戦後児童保護の歴史』(明石書店 2016)が詳しいです。そもそも孤児の問題が出てきたのは、当然のことながら戦後ではなく戦中からでした。戦争が激化するにつれ、親が出征して戦死した場合や、学童疎開で子だけが生き延びたケースが表面化し出すのです。

しかし、この頃は戦災遺児と位置付けられており、いわゆる一般的な孤児とは異なる位置付けがされていました。なぜなら戦災孤児は、戦争に殉じて亡くなった英霊たちの子であり、国の子なのです。ですから、最大限手厚く保護せねばならないというのが、戦時中に理念としてあったようです。

厚生省戦時援護課で企画された保護の方針の文言(戦災遺児保護対策要綱案)を見ても「殉国者の遺児たる衿持を永遠に保持せしむると共に、宿敵撃滅への旺盛なる闘魂を不断に涵養し、強く正しく之の育成を図り」とあり、行政政策においての「国子」としての位置付けが伺えます。

しかし、敗戦を受けて「国子」の扱いは「孤児」に戻ってしまいます。著者は人権保護的な理念からではなく治安管理的な理念から、戦後の孤児の保護政策が進められていたことを指摘しています。保護の方法が法律に定めが無かったため、実力行使的な収容が行われました。実際「狩り込み」と言われる、警察や職員による暴力を伴った孤児の一斉収容が1945年12月15-16日の両日に渡って行われ、この日は2500名にのぼる収容者が出たと『都政十年史』に記されています。

ちなみに「狩り込み」は俗称ではなく、行政の通知で平然と使われているところに、この時期の人権感覚がいかに鈍していたかが伺えます。せっかく収容しても施設の設備が不十分であり、衣食住の環境が整っていなかったために脱走者が相次ぐ。それをまた「狩る」。そして又逃げられては堪らないので、逃走防止のために服を着せなかったり、靴を与えなかったり、檻の中に閉じ込めたりする。このような施設が孤児たちにとって居心地が良いはずがなく、また脱走する、というようないたちごっこが続いていました。

法的な対応としては、1945年に「生活困窮者緊急生活援護要綱」が、1946年に「浮浪児その他の児童保護等の応急措置実施に関する件」と「主要地方浮浪児等保護要綱」が通牒されます。しかしこれらはどれも緊急措置的な側面が強く、実地的な対応に関することのほとんどは施設任せで、児童に配慮された内容とは言い難かったようです。そして1948年に児童福祉法が施行されることで、孤児院は児童養護施設となり、少しずつ人権に配慮されたものとなっていきます。

太穂が訪ねた中里学園は、1946年9月に県立の施設として開園しています(現在は閉園)。時系列的には1946年4月の国からの通牒を受け、県としても街に溢れる戦災孤児の収容の必要性を感じていたために開設されたものでしょう。中里学園がどのような保護施設であったのかについては資料にあたれなかったため類推することしか出来ませんが、充分な物資が確保されていたとは時勢的には考えにくいように思います。そのような時勢において、映画が上映される日というのは孤児たちにとっては非常に楽しみなものであったのではないでしょうか。

最後に、映画の内容はどのようなものだったのでしょうか。戦後の映画製作、上映にはGHQの統制があったことを忘れてはならないでしょう。

敗戦を受け、GHQの指令のもと、戦時の映画産業に対する国家統制は廃止されました。代わりにGHQが新たな方針を策定し、その指針に沿った映画産業の復興が試みられます。GHQは映画会社に対し「日本ノ軍国主義及軍国的国家主義ノ撤廃」など占領の基本目標に基づき「平和国家建設ニ協力スル各生活分野ニ於ケル日本人ヲ表現スルモノ」「日本軍人ノ市民生活ヘノ復員ヲ取リ扱ヘルモノ」「労働組合ノ平和的且建設的組織ヲ助成スルモノ」など 「映画演劇ノ製作方針指示」を示しました。ここでGHQは日本という国に民主主義を根付かせるための手段として映画を活用せんとしていたことが分かります。

また戦前の旧来的な思想に通ずるものは、製作だけではなく上映も禁じられていました。GHQは「反民主主義映画の除去に関する覚書」を発表し、国家主義や軍国主義の宣伝に利用された「封建的法典の遵奉、生命に対する侮蔑、武士道精神の強調」 などを内容とした日本映画を上映禁止処分とされています。

これを考えたとき、おそらく孤児院で上映されていた映画もこのような制約を多分に受け、民主主義的な新しい価値観に合わせた映画が上映されていたと考えて良いでしょう。太穂は「燕の天」という開放的で底抜けに明るい季語を取り合わせていますが、これにより映画の内容や、そのときの孤児院の気分が良く出ているのではないでしょうか。ある種の言祝ぎのような季語の斡旋に、太穂の戦後を喜ぶ朗らかさを感じます。

古澤太穂は1913年の生まれの俳人。本名太保(たもつ)、1913年に富山県上白川郡大久保村の料理屋兼芸妓置屋に生まれています。太穂は父死去による経済的困窮から母に連れられ東京、のち横浜へ転居。太保自身も家計を助けるため、様々な職を転々としつつ勉学に励み、1938年に東京外国語学校専修科ロシヤ語科を卒業します。しかし直後喀血、5年間の療養生活に入ることとなり、この療養生活中に水原秋桜子が主宰する「馬酔木」と出会い、1940年10月の「寒雷」創刊と同時に同誌に参加しています。以後は楸邨を師と仰ぎつつ、主宰誌「道標」や新俳句人連盟などを中心に活動しました。また俳句だけでなく政治運動や社会的な実践でも活躍しています。内灘闘争(石川県河北郡内灘町の米軍の試射場の設置に反対する運動、1952年から1957年の米軍撤退まで行われました)や松川事件(機関車転覆事故に関わる戦後最大の冤罪事件、1964年に全員無罪が確定)の支援を主とし、レッドパージの嵐吹き荒れる中で、大小様々な左派的な運動に精力的に携わっていました。

記:柳元

さくら葉桜ネーデルランドのあかるい汽車 田島健一

所収:『ただならぬぽ』(ふらんす堂、2017)

 春になると思いだす一句。
 語が詰まって次々に情報が追加されていく。786と随分定型を逸れる形になっているが、「さくらはざくら」の音感・内容的な流れと、「の」で伸びた先の「汽車」という速度のあるもので締まることで、この句特有の緩急、なめらかさが生まれている。

 私にとってこの句は、こういうリズム感を特長とする俳句のなかで一番頭に焼き付いている。ただ、その魅力について、いまいち自分の中で言語化が出来ず、整理がついていない。未だにぼんやりとこの句を見ている。

 句のリズムやスピードが内容と合っている点が大きい気はする。表現によって立ち上げるスピードが、句から離れた技術の面だけに終わらず、内容の「汽車」や「さくら」→「葉桜」に返っていく、その誘導がきれいに、スムーズになされているところが、句として心地いい。田島健一の他の句を見ていても、韻を明らかに踏みましたという句や、言葉の連携をとことん外しましたという句よりも(そういう句が訴えかける「ふつうの句」への打撃や、脆い言語で建てた脆い建造物みたいなものにも惹かれるが)、そういう表現のリズムが内容と響き合っているものがとくに、良い味を出しているように思う。

 凧と汽車いずれものんき麦畑/大井恒行 (『大井恒行句集』ふらんす堂、1999)

  例えば汽車のこの句を見ると、「のんき」という言葉が、凧、汽車、麦畑の三方向へ伸びていて、なんとも穏やかな風景が想起される。好みの作品であるが、リズムというか流れとしては〈凧と汽車/いずれものんき/麦畑〉と一回一回止まってしまうというか、句の中の光景は動いたり広がったりしているのに、句自体のリズムがそれに伴って動いていないように思ってしまう。それが悪いわけではないが、そこが揃うとより気持ちよくなるのではないかと思う。
 詩は、その詩ごとに、それぞれのリズムがあるのではないかと、私は常に思っている。悠長でなだらかなものを、キレキレの575の定型に合わせにいくのは、いささか競技的というか、それもそれでどこを削ぎ落とすかのスリリングさはあると思うが、発想した瞬間の詩の持っているリズムは失われていくのではないか(長いこと俳句や短歌をやっていたら、そのチューニングに慣れ過ぎて、発想した瞬間からそういうリズムになっている、というのはあると思われる)。

 さくら葉桜の句は今の段階では、定型から外れようとするその手つきが見えすぎて好ましくないという評価を受けやすいのかもしれない。これがいつか、一番いいところに言葉を置いて詩に寄り添った特有のリズムを創出していると読まれるようになればいいなと思う。

 内容の面にも触れておこうと思うが、これがまたいまいち分かっていない。「さくら葉桜」は、開花している桜と、葉桜が同居している景色と見るのが良いのか、さくらはすぐに葉桜へと変わるという、時間を汲んだ見方をすればいいのか。「汽車」という語がまた絶妙で、そういう景色だけのことにも思えるし、時間のことにまで触れているようにも思える。
 ネーデルランドとは、オランダの本国での呼称であり、「低地の国々」という意味を持つ。私は個人的に世界史の時によく聞いた単語で、ネーデルランドという言い方には過去を回顧する感覚がある。大昔から時間をまたいでいるような、そんな汽車が見えてくる。
 この「さくら」は、果たしてネーデルランドにあるのか。桜を日本で見ていて、ネーデルランドには汽車があるという情報や映像を別に感じているのか。汽車は、桜の下を走っているのか。特定することは出来ない。
 ただ言えるのは、オランダには桜が咲いている道があって、そこを明るい色の汽車が通っている、その映像を見たという句だ、とのっぺり解釈したのでは面白くないということである。
「さくら葉桜」が喚起する時間の連続する感覚、と「ネーデルランド」との間に生まれる日本の植物と異国の感覚、そして「汽車」がそれらを強引にやわらかく貫いていく感覚、それらがイメージとして混然一体と「あかるい」中に結ばれていく。それもすごくなめらかなリズム・スピードをもって。こういう感覚ばかりの不確かな読みは嫌われるものかもしれないが、空気感とイメージとリズムが一致した/させた、非常に心地のいい美しい詩であると思う。私もこういう句から学んで、この傾向を深化させていけたらと思っている。

記:丸田