所収:『硝子器に春の影みち』沖積舎 2008
当書には〈八月の広島に入る。声を冷やして、ね〉、〈海をてらす雷よくるしめ少年はいつもそう〉など自由律作品に佳句が見られる。攝津幸彦と比べて読むと多くの共通点があり、そこから拡げて読む分析はまたいつかするとして、今回は、掲句は何に「ありがとう」と言っているのかということについて、水と樹と人の関係から考えていきたい。(以下引用はすべて『硝子器に春の影みち』より)
①水・樹・人の連関
樹と水と人、この三つが関わっている句が、大本には頻出している。
そは父か背後で水がゆれている
寒の雨くらき臍へとあつまりぬ
水の気配がしている。背後の水、臍にあつまる雨。次のような句では、わたし自身に直接水を繋げている。
河の名もわが名も消えていつかのどこか
水の流れがどこかで消えるわが生も
わたくしとは雨に濡れた三和土である
名や流れが共に消えることから、人生を水流に映し見ていることが分かる。これ自体は変わった発想ではないが、どちらも「どこか」と分からない未来について場所で暈かしている点は気になる箇所である。三句目の「雨に濡れた三和土」は、後に挙げる人と樹の関係にもつながってくるが、雨に濡れ、雨が染みこんだ三和土のその状態に自身を重ね見ている。血管や水分をその中に巡らせている身体をそこに見たのだろう。
鐘が鳴ったら降りてゆけ星は泥へ水は樹を
樹を見ていた水の流れを見るように
水は樹との連関を以て何度も描かれる。「水は樹を」降りてゆく。この「を」によって、樹の中を脈々と降りて行こうとする水が見えてくる。表面に伝うのではなく、内部を進行しているような。「水の流れを見るように」樹を見る。水の流れを見るということは、その動いているものを視線は追っている。樹はただ立っているだけであるから、本来は視線が動くことはそれほどないだろう。つまり、「ように」とは言いつつ、本当に樹の中の水を追っているのではないだろうか(ぼーっと見ているようにも考えれるが、それなら「川を見るように」などで良い。わざわざ「流れ」が出されていることから、視線の動きを感じる)。
水に人を重ねみて、樹に水を感じる。そして当然の流れで、人と樹を水を通じて繋げて見る。
樹と竝てば肋骨に水が流れているね。
水の衣を脱ぐと樹になるのだとあなたは。
ときに群衆のなか樹を胎す娘たち
肋骨(あばら)に水が流れている。先ほどは「水の流れを見るように」樹を見ていた。樹と並び立つことで、樹の水の流れと、自身の身体の中の肋骨で水が流れているのを感じる。樹と自分が、水を通じて相似になっている感覚。この水が無ければ、「樹になるのだ」とあなたは言うが、むしろ水があることで樹になれるのだと言っているのではないか。三句目では「樹を胎す娘」と、樹と人間を過度に同化させている。
これらの句の表現から分かるのは、何かと何かの共通点から、それらを繋げようとする視線が強いことである。樹と人は、水を介してそれが行われた。これは結局、比喩、ということではあるが、「繋げる」という意識が特に強いように思う。(たとえば「彼は花のように美しい」と言ったとして、「美しい」を共通点として美しい彼と美しい花が同じ台に上げられる。しかしこれは彼=花を推し進めるものではない……)
②透視
共通点から繋げる、という表現は、その共通点を見つけるところから出発する。これは、透視そのものであると思う。
樹のこえ葉のこえアスファルトに屈めば親し
とはいえふきあれる樹の土に屈むも
樹を透視しようとして屈んでいる様子、というふうに思える。
蘭の店過ぎるとき君の肋骨透く
水仙の咲く岬、そして畦・畝・産道
「肋骨透く」。この句だけを見ると何を言っているのかという感じだが、蘭を見て、よく見て、そして君を見たとき、そこに「肋骨」が透けて見えた。ぴたりと、重なったのだろう。「水仙の咲く岬」、ここまでは良いが、「畦・畝・産道」と展開が著しい。通過する道や場所であることが共通点となり、岬から畦や畝に繋がっている。「産道」が急に飛んでいるが、これは水仙という花が影響したのは一目瞭然である。先ほどの樹にも似て、水のイメージが、岬から産道まで屈折させた。
この透視する主体や視線が、大本に頻出の単語「硝子器」に結びついたのだと私は考えている。
硝子器に春の影さすような人
生き急ぐ、硝子器に 風は充ちてよ
タイトルにも取られた句である。透けて何かを繋げるということそのものが形になったような硝子器。邪魔なものがなく、そのまま繋がり合うのを支える様な物体。〈硝子器に〉について大本はあとがきで「けっして不幸ではないのだが、背筋がぞくぞくとする春のしずかな昼と、いまのこころの状態がよくよく似ているのでこの題をつけた」とある。「影さすような人」が案外アクロバティックな表現だと思われるが、今までの透視を思うと、スムーズに理解できる。
③「ありがとう」の対象
ここにきてようやく、挙げた句に触れる。
朝顔にありがとうを云う朝であった。
朝顔の存在をまるっと飲み込んで、その小さな存在にありがとうと言っている可愛い素敵な朝、というふうに初めは読んだ。それは今もそこまで変わってはいるわけではないが、①、②のことを考えると、どうも朝顔を通して、それ以外のものにも言っているような気持がする。
最終章である「五章 拾遺・硝子器に春の影みち」において、急に「地球」という語が何度か姿を見せる。
ある日ふっと”地球”と呼びたし水の星 (「地球」に「テラ」とルビ)
包とは愛、あいで青き地球をつつめ (「包」に「パオ」とルビ)
かなり強くはっきりと表現している句である。ここで地球は「水の星」「青き地球」と表現されている。そしてなんとなく愛すべき存在として描かれている。
朝顔は、紫やピンクと色があるが、青色もある。そして②に挙げた蘭や水仙の句、ほかに〈人体に冬の桜も来ていたり〉のような句から、花と人との連関も見られ、これは①のように、水を介していたりする。
ここから、朝顔からその中の水、そしてそこから地球に繋がっているのではないか、と考えている。(若干無理があるようにも思われるし、そんなことは書かれていないし、そう読むのがこの句にとっていい読みであるかどうか考えるとそれほどでもないのかもしれないが、句集を総合するとその視線が窺える)
ハロー 夜。ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち。/穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』2001
突然だが、穂村弘の一首を引く。この歌では、「ハロー」という挨拶が、「夜」から始まり、「カップヌードルの海老」まで到達している。大きなものから小さなものへと。これは、いい意味で、というか、露骨に嘘っぽい。それらを発見して、「ハロー」と本当に言うか(思うか)。海老はまだしも、「夜」に、こんなにもけなげに「ハロー」と言うか。夜に対しての「ハロー」(朝にするはずの挨拶)という面白さと、ささやかな発見と、嘘っぽくも明るい主体、が同居したおしゃれな歌である。(一時期日清カップヌードルのCMに、『AKIRA』の大友克洋の絵に宇多田ヒカルの曲が流れるというものがあったが、あんなふうに……)
この、底なしに明るいような、全世界への挨拶、的な感覚が、朝顔への「ありがとう」ではないだろうか。朝顔に水を見て、地球を透視し、朝顔を通して水の世界へ感謝をする。そしてそれらは、その視線のなかで繋げられていくため(①参照)、自分の人生についても、ありがとうと言っているように感じられる。生きてきたことへの大きい肯定や、人生を行えた場への感謝。もしかしたら、朝顔に自身を重ねて、自分自身へ(人生の長い時間を含め、)言っているのかもしれない。「ありがとうを」の、「と」ではなく「を」である点も、ただ言っているだけでなく、とにかく私はこれが伝えたいのだという強い意識を感じ、朝顔の向こうを濃く感じさせる。
何への「ありがとう」なのか、その読みの一つとして、地球やこの世界への開けた感謝を挙げておきたい。
補足:掲句は拾遺の章に入っているが、これより前に〈朝顔にありがとうを云う朝もあった〉の形で記載されている。「も」が「で」になり、句読点が追加されている。一回きりの場面になること、その場面に集中すること(「も」だと他の朝が普通で、こうなるのはまれだ、ということになる)、「。」でしみじみとその朝が余韻をもって広がっていくことから、私は圧倒的に改変後が好みである。
記:丸田