日本脫出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも 塚本邦雄

所収:「塚本邦雄全歌集 文庫版 第1巻」2018、短歌研究文庫(初出は『日本人靈歌』1958、四季出版)

もう直截的に入るが、近ごろこの歌をなんべん唱えたかわからぬ。すべてが馬鹿馬鹿しいと投げやりに言い捨ててもその響きは弱弱しく、すべてが無効化され、諦念へ行き着くしかないように見える。もはや空間の何もかもが空虚さに傾いて、ただ虚ろな彼方へすべってゆくしかない。

どんな言表も、幾重にも張り巡らされた言説の網目に発話する前から絡めとられているし、そしてそれと切り離して語られたがる「パンとサーカス」の健気なサーカス演者も、サーカス演者を「パンとサーカス」から棚上げして表層を掬い取り批評し得ると信じるすべての感動家も、冷笑家も、たぶん同様に、むなしく、意味のない彼方へ押し流されているだけだ。もう自分の感情すら自己の権能にないから、予定された調和を届けられる場所に居続けることへの嫌悪感すら持ち得ない。

この空間においては塚本邦雄の「脱出したし」という身振りすら、ただちに言説に絡めとられる。というか絡めとられるために発話されると見るべきだろう。「皇帝ペンギン」も「皇帝ペンギン飼育係り」もすでに実存でなく記号が機能が本質が先立っている逆サルトル状態である。皇帝ペンギン(=天皇)は日本という空間の磁場なしに存立しえないsymbolである。そのsymbolの飼育係(天皇を天皇足らしめているのはわれわれなのだから、これはぼくたちであるとも読み得る、天皇の嘴に鯵を投げ込んで飼い太らせているのはぼくたちである)も、言説がすでに身のうちに語り込まれ編み込まれている、言説実践体なのである。

だから塚本邦雄のこの歌は、そもそも脱出不可能な、とうに網目に絡めとられている者たちが、幾分かの愛嬌と純朴さだけを頼りに、むなしくも脱出をのぞむという道化を演じてみせること、それ自体であり、そのfarceの切実さこそ、乾いた、けれど確かな笑いに繋がるのであろう。

動物園あるいは水族館の衆愚的光景の表層もまた魅力的で、ぼくらは炎暑炎天に弱った鳥の群を思い、そこにしばらく滞留したってよい。疲弊しつつタイルをブラッシングするあわれな飼育係!つまり、ぼくが示したような、天皇がどうこうだとかいう窮屈な暗喩の歌の枠に押し込めるべきだとは微塵も思わない。しかしだからといって意味は分からないけど魅力的な歌だとかいう、connotationの深みへ降りてゆくことを放棄する痴呆的読解に与するのも、もはや逆説的な意味を持つことすらない。

記:柳元

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