所収:『鶉』私家版・2014年(【西村麒麟『鶉』を読む16】理想郷と原風景/冨田拓也https://sengohaiku.blogspot.com/2014/03/kirin8.1.html?m=1から孫引)
高校では世界史選択だったが漢字への忌避感が強くて中国史が大の苦手だった。だから随よりも唐の方がよろしいのだと言われても「へえ」とか「はあ」とか情けなく漏らして微笑するしかない。唐よりも随の方が年代が古いことくらいはわかるのだがそれくらい。たぶん唐代の方が文化が洗練されているのであろうし都も煌びやかなのだろうが、なにもぼくのような浅学無知が中国王朝についてあやふやな推測をしなくとも、この句の豊かな気分は十二分に伝わろう。
「随よりも唐へ行きたし」という台詞に鑑みるに気分はタイムスリップで、いうならば西村麒麟は時空を超えた遣唐使なのである。ここにおいて唐はとうに滅んだ王朝であるからこそ、簡単にユートピアに転ずるのだ(ユートピアとはこの世に存在しない場所の意である、というのは誰のジョークだったか)。実際に唐へ行ってみればおそらく唐も大したことはない。幻滅と望郷の念が仲良くやってくるはずなのだが、季語「籠枕」が座五で全体をよくひとまとまりに定着させるからこそ、彼は桃源郷世界でひたすら詩作と午睡にふける夢想をやめられないのである。
起きぬけに紹興酒くさいおのれの息をかいでみれば、桃源郷はもはや夢の彼方、日常に引き戻されるのだけれども、手元の籠枕の冷ややかさも存外悪くない。まあ唐などに行かなくともよいかなと考え直したりもして、よっこらせと起き上がる。
記:柳元