所収:『儚々』(平成八年、角川書店)
飯島晴子の中でよりによってこれか、と思われたかもしれない。私も、たいしてこの句に愛情も無ければ、面白いと思っているわけでもない。
『儚々』は著者の第六句集であり、適当な、というと言い方が悪いが、第一句集にあったような、奇を衒いつつそれを大っぴらにしないようなテクニカルで気合の入った句は俄然少なくなっており、いかにも晩年という印象がある。
「赤とんぼ」から始まって、「村」で終わる。圧倒的に既視感のある、童謡的な田舎の風景。「大きい」という言い方も童謡である。
「葬」は「村」と相性がいい。葬儀があって村中の空気が変わっている感覚。風景としては変哲のないものだが、人々の意識の中では確実に変化があって、その重々しさを知らない赤とんぼは変わらずすいすいと飛んでいる。
いかにも平凡な句であると思う。ただ私も、この句を平凡で下手だと言うために引いたわけではない。実際、この句の次に並んでいるのは有名句のひとつ「蓑虫の蓑あまりにもありあはせ」であり、好きに語る分にはこちらの方が向いていると思う。
この「赤とんぼ」の句のいい所は、ストレートに平凡なところだと思う。これは俳句の一つの良さであると個人的に思っているところでもある。音楽で、使い古されたコード進行とスカスカの歌詞でもなんだかいい歌に聞こえてしまうことがたまにあるが、あれと一緒の感覚である。
飯島晴子がどこまで狙ってこんな句を作ったのかは分からないが、自分のオリジナリティを出そうと思えばもっと捻って出来るはずの所を、ここまで薄っぺらく凡庸にすること。狙ってやったとしてもなかなか弱いと私は思うが、ここまでどこにでもある句にすることで、逆に迫力を感じた。こちらとしては、(村と赤とんぼの組合せなんて、行間を読むとかそういうレベルに到る前に判断しきれるような、味のしないガムのようなものだと思うので無視して、)「大きい葬ありし」くらいしか情報として読めるものはない。
ここでギョッと思わされるのは、「葬」に大きい小さいがあるというところ。地位の高い人が亡くなったという意味なのか、飢饉や病気で大量に人が死んで規模が大きくなったという意味なのか、どちらにしても恐ろしいことだと思った。
そして「村」で終えられているが、この「葬」はおそらく村中の人に知れたことだろう。またそこが恐ろしいと感じた。もちろんそれは「大きい」葬儀だったからこそ知れ渡ったことだろうが、個人的経験からして、「村」は、別にその葬儀が大きかろうと小さかろうと知れ渡って行くものである。全体の人数が少ないこと、都市部に比べて人同士の関係が密接で、閉鎖的になる部分もあり、そういう噂は一瞬で広まっていく。
村全体が、村の全員が、その「大きい葬」を感じられていること。その雰囲気が、そのままホラーであると私は感じてしまった。だから、この語順は正解なのだと自分の中で合点がいった。仮にこれを「村に大きい葬ありけり赤とんぼ」とした場合、先に読んだような人間社会とそれに関せず飛ぶ赤とんぼ、の印象が強く残る。これが赤とんぼ始まりであることによって、もちろんその対比は残ったままで、村の入り口、またはその恐怖の入り口感が加わった。ホラー映画の映像を想像したときに、自分自身がこの村に入っていくなら、その入り口で赤とんぼを見ることによってなんだか嫌な気配を村から感じることだろう。
この句の主体はこの村の人なのか、村の外の人がその村に入っていって知ったことなのかによって、そういうホラーの成分の大小は変わってくるだろう。現代に生きている私からすれば(現代の今でもそういう地域は全然残っているだろうが)そういう「村」って怖いなあと純粋に思う。村で起きたことを、村全体が感知していて、村全体が喜んだり哀しく沈んだりする。これを幸せなことだと思う人もいるだろうが……。
正直なところ、ここまで平凡な句に目が留まったのは、ただ褒めるだけの鑑賞を書いてもなという気持(敢えて下手なものを取り上げて、そこから敢えての別の読み方を考えてみたいという)が大きかった。が、それで結果良かったと思う。大家でこんなに適当で類想が莫大にある句ってどういうことなんだ、と思えたおかげで、「葬」と「村」の厭な空気感を感じられることが出来た。別に似てもいないが、映画『ミッドサマー』や三津田信三の小説(刀城言耶シリーズ)を思い出した。
最後に、蛇足だが、この句を「葬儀があって落ち込んでいる村を癒して包み込むかのように赤とんぼは飛んでくれている」という風には私は絶対に読みたくない。人間の都合を勝手にそんな動物(もっと言えば「季語」)に背負わせたくはないからだ。いつもは微かに思っている程度だが、「村」の文字をずっと見ていて、そのことを強く意識することになった。
記:丸田