夢の世の夢をばつさり松手入 大谷弘至

所収:「古志」(2021年 2月号)

はかない世を慈しんで夢の世と言う。弱々しさの蔓延する夢の世の「夢」の部分をばっさり切り落とすとき、眼の前にはグロテスクな「現実」が立ち上がる。それは夢と現が混じり合ったところの現実よりも生々しい「現実」である。その無謀とも言うべき感慨を包みこんでいるのが松手入という季語であり、季語によって、個人的な感慨は軽やかに乗り越えられ、大きな時空への一体化が図られる。個は消え去り、その代わりあらゆる時間・空間が渾然とした巨大な記憶ともいうべき宇宙が現出する。

この大きな時空への志向を可能にするのが季語への信頼である。信頼とは寄りかかることではなく、疑い続けた上でそれでもなお信じることに決める強さである。それは例えば小沢健二が『天使たちのシーン』で「神様を信じる強さを僕に 生きることをあきらめてしまわぬように」と歌ったところの強さに似て、ナイーブな青年の心を歌った小沢と異なり、掲句はそうした青年期を乗り越えた者が疑心の末に獲得した信頼を感じる。

この精神の強さが、夢の世ではなく「現実」を凝視しようとする掲句の態度に通じる。松尾芭蕉が説いたところの「虚に居て実をおこなふべし」に欠かすことが出来ないのは、この強さではないかと掲句を鑑賞しながら考える。神様を信じられるかどうか、これは人を信じられるか否かに通じ、人を信じられるとき自分も含めすべてを信頼する安らかさへ心は深まっていくのだろう。また、掲句に威勢をつける「ばっさり」は手垢のついた語であるため一層の効力を発揮している。〈平談俗語〉も合わせて思い起こしておきたい。

記 平野

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