霜の太杭この土を日本より分つ 加藤楸邨

所収:『まぼろしの鹿』1967年・思潮社

掲句には前書として

一日本人として(六句)
十二月中旬、二日にわたりて砂川を訪ひ、ここに迫るものをわが目にとどめる。同行知世子。

と記され、以下の五句が続く。

葱の芽の毛ほどの青さ守り育て
彼等約してここに静かな冬野を割く
冬欝たる麦をわが目に印し置く
霜に刈られてその香切切たる襷
さむし爆音保母は戸毎に子を戻す

 これらの句群は前書と発表年からして砂川闘争に当たって書かれたものだ。砂川は現在の東京都立川市に位置し、日頃より在日米軍機の離着陸における危険と不安に晒されていた(過去形で書いたが米軍基地は今なお日本に残っている)。そこへ基地用地を更に拡張しろとアメリカが日本政府へ要請したことを受け、住民たちは闘争を開始する。この運動は左派政党や労働組合、学生や文学者などを巻き込んだ社会現象となった。そして加藤楸邨(1905-1993)もこの問題に関心を強く持った一人だった。

 彼が「馬酔木」を辞して以降に顕著な、硬質で密度の文体が今は殆ど失われたことについて考えてみたい。師秋櫻子をして難解と言わしめる彼等の文体は、現代において史的に読もうとするものの肌感覚としては1970年代あたりには読者からの支持を失っているように感じる。

 勿論そこには戦後は終わり豊かな消費社会の到来や、学生運動の失敗などの象徴的な出来事の勃発が背景にはあっただろう。資本主義文化を謳歌し始めた読者には、彼等の革新的な文体は息苦しいだけであっただろうし、もっと開放的でゆとりがあり、分かり易く平明で、非政治的な、季語と癒着する穏やかな韻律が好まれたのだと思う(そしてはそれは現代においても尾を引いているだろう。平明さはあたかも詩形における道徳律であるように振舞う教条的な御仁が絶えないのもこのあたりをすっかり内面化してしまったのだろうと思うし、後述するがある種の表現主義もこれを補完するものだ)。

 呼吸や饒舌や韻律との連関の中で、ある種の典型的な左翼的思想と接着するのが加藤楸邨らに顕著な当時の文体だった。これらを共有するのは例えば金子兜太であり、赤城さかえであり、古沢太穂、原子公平、田川飛旅子、沢木欣一などであろう。仏の思想家サルトルが用いた用語である「アンガージュマン」は散文のための思想であったことを思い出してもよい。今にして思えば、社会との連帯のための散文性を取り込んだ文体が彼等だったと言えよう。

 そしてそれ以後、前述のような学生運動の敗北などを受けて、純日本的な韻文精神へ立ち戻らんとするバックラッシュが起こる。それが大まかに言えば1970年代以後であり、おのれの文体を非政治的であると信じたがる現代の書き手たちの直接的な祖の誕生であろう。

 初期作品を除けば澄雄や龍太は生活に根ざしつつも極めて純日本的だったし、高柳重信に端を発する前衛は芸術至上主義的でありながらそこにはノンポリめいた仕草が付き纏っていた。

 現代の俳句界は、自分も含めて、未だに生活と平明さの結託、あるいは表現主義とノンポリ仕草の結託を盾にした、1970年以後の非政治的な書きぶりの振幅に収まる書き手ばかりが見受けられるように思うというと書きすぎだろうか。だが非政治的なところに人間はない。楸邨のパラダイムに立ち戻るということでなしに、楸邨に学ぶことはまだあるように思う。

記:柳元

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