所収:『天為』2020.12
「放屁虫」はゴミムシの類い、捕まえると悪臭を散らすとされる。ゴミムシという名を与えられた所以は彼らが獲物とする小昆虫がゴミに群がるからであるとされるが、当のゴミムシからすると堪ったものではない。彼らは彼らでおのれの食事を得るための最適な場所を正当な理由で陣取っているのであって、近代的衛生観念などというものは人間の常識、糞喰らえなのである。しかしながら有馬氏はそんな「放屁虫」も「愛しき」ものとする。それは「放屁虫」すらも神の被造物であり、人間から見たその単純な身体の造りは、神の愛、アガペーの降り注がれることを可能性として排除するものではないからだろう。有馬はここで、ある種の超越的な付置からの強引な愛を宣告する。
ここで明確にしておかねばならないのは「天は二物を与へず」というのは現世的に見れば間違いなく嘘であるということだろう。環境が偏る以上、はっきりとこの世においてギフトとして見出されるものには偏重が出てくる。「天は二物を与へず」というのはそういう不平等を覆い隠す極めて都合の良い言葉である。しかし、前述のような、等しく降り注がれる神の慈愛の前にはある種の公正公平な関係が切り結ばれるのであって、有馬がここで述べる「天は二物を与へず」というのはこういうキリスト教的な観念、「最後の審判」のような絶対的な未来の時制が確保されていることによる、ある種の諦念による公平さのようなものが前提になっていると思う。
しかしそれでも現世利益的に動く蒙昧なわれわれにとっては「天は二物を与へず」は所詮「天は二物を与へず」でしかない。有馬氏が行った様々なこと(それは俳句以外のこと、例えば公職にあったときの、現在から見れば愚策と評するしかないような諸々のこと)はこういうズレから来るものなのかもしれない。それは先見の明や政治的手腕などに起因することではなくて、有馬氏は「愛の人」なのであり、我々はそうでは無かった、ということなのかもしれない。そんなことをつらつらと考えながら、この文章を書いている。ただ、こんな修辞に満ちた駄文を読むよりも有馬作品を読む方が何千倍もよいと思う。「天為」のサイトでは有馬氏の近作が読める。ご冥福をお祈りします。
記:柳元